父の死

高齢の父が息を引き取って、しばらくブログを中断していました。(家族を亡くすと、遺族はやることが多いです。)
満年齢で享年91、数え年だと93歳で、大往生でした。

ずっと建築の仕事をしてきた父で、85歳になっても現場に行き、足場に上って職人たちに指示を出していました。そのあとも雑用や留守番などをしながら、88歳まで働いていました。

その後、自宅で1年、病院で数か月、施設の空き待ちでショートステイをつないで数か月、あとは母と同じ施設で過ごしました。記憶力が落ちてきていましたが、認知は最期までしっかりしていました。
最後の1年と少しを、母と同じ高齢者施設で過ごせたのはよかったと思います。施設の職員さんたちの対応もていねいで、面会に行くと2人ともとても穏やかでした。

私は、これまで父と過ごした時間が長く、だんだん父が老いていくのを見てましたから、そう遠くない日に父が旅立つことを覚悟はしていました。
父の老い、衰弱を受け入れる時間を持てて、その日が来る覚悟ができていたのはありがたいです。


今年(2026年)の正月、施設からの外出という形で父母に家に来てもらい、家族で食事をしました。施設の食事では食べられないお刺身を食べ、父はお酒も少し飲んで上機嫌でした。正月にあんなに元気だったのに、その数か月後に急に逝ってしまうとは、いくら覚悟の上とはいえ驚きでした。
高齢であるというのは、体全体が衰えているわけで、ちょっとしたことで容体の急変や急逝も起こるのでしょう。

父が死んだ夜、たまたま通夜会館の空きがなくて、遺体を父が暮らした家に運んでもらいました。家は散らかっていたので、私と家族と葬儀社の人で大急ぎで部屋を片づけ、父が使っていた布団を出して遺体を安置しました。
父の自宅に運んだおかげで、近隣の人たちとじっくりお別れができました。また、一般にはこのあたりで葬儀という日が混んでいて、その次の日が友引で、2日多く時間をもらいました。おかげで、私や家族の気持ちの整理や、関係者への連絡、葬儀の準備など、落ち着いてやることができました。

どちらもたまたまそうなったのですが、結果、それでよかったと思います。

可能なら、遺体は自宅に運び、近所の人たちや親戚、友人、知人らと、お別れができるといい。

可能なら、死から葬儀まである程度の時間を取り、気持ちの整理や連絡や準備に充てられるといい。

可能ならですけど。自分がやってみてそう思います。

(伊藤一滴)

「私はメシアである」???

ドナルド・トランプ氏がSNSに載せた画像がこれ(現在は削除)。

Photo

トランプ氏は「私はメシアである」とでも言いたかったのでしょうか?
文鮮明かよって思いました。

「福音派」の方々は、こういう画像を載せる人物を今後も支持し続けるのでしょうか?

(伊藤一滴)


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偏差値

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偏差値を使って学校をランク付けしているのは、世界の中で日本だけだそうです。
ですから、偏差値の高い高校を出ているとか大学を出ているとか、日本の国内でしか通用しない話です。

入試で何点取れば合格できるのかでは、学校により年度により問題が違うから比べられなくなります。そこで偏差値を使うのでしょうが、偏差値によるランク付けには大きな弊害もあるんです。

やはり、というか、偏差値至上主義者みたいな人たちが一定数いて、この人たちは偏差値が高いとか低いとか、とても熱心です。偏差値重視の問題点をいくら言ってもまったく通じません。宗教の原理主義に似た感じです。

学校を評価するなら卒業生の活躍や、在学生による評価、世の評判、その学校の社会的な貢献など、総合的に判断すべきでしょう。だいたい、創立の理念も沿革も得意分野も違う諸学校を、偏差値の数値だけ見て上だの下だのと言うのはおかしいんです。

まず、美術、音楽、体育、宗教、福祉・・・・などの分野を、偏差値で計れるんだろうかって思います。

優れた芸術作品の制作者、
優れた作曲家や演奏者、
優れたスポーツ選手やスポーツの指導者、
優れた宗教家、
優れた福祉活動家、等々、

こうした人たちの、出身校の偏差値と業績には何か関係があるんでしょうか?


私は答えを知っているので言いますが、「安定した高収入が得られるとされる仕事に就けそうな学校の学部学科が人気になって受験者が集中して偏差値が高くなる」のです。

ですから、「偏差値ランキング表」というのは「安定した高収入が得られるとされる就職ランキング表」なんです。

多くの親は自分の子に安定した高収入が得られる仕事に就くことを望みます。その結果が、偏差値による学校序列化になっているんです。

最近だと、インターネットの発達もあって、安定した高収入が得られるとされてきた大企業の社員や、教員、公務員などが、かなり過酷な仕事をしていると知られるようになってきました。今後、どうなっていくんだか。

そしてまた、偏差値は、その学校の教員や学問の水準でもありません。たとえば、神学部を持つキリスト教系大学の場合、神学研究はかなり水準が高いと思うのですが、他の学部より偏差値が低く出ます。これは、受験者が少ないというのもあるのでしょうが「神学なんか勉強したってお金にならない」と考える人が多いからでしょう。

あまりお金にならなくても、この分野を学びたい、この分野の仕事がしたいという人には偏差値なんてどうでもいいんです。

もちろん、出身校の偏差値は、その人が感じる幸せとは何の関係もありません。


あまりお金にならなくても、この分野を学びたい、この分野の仕事がしたいという人たちが集まってくる所って、共通の認識を持ちながらもいろんな個性の人がいて、なかなかおもしろいですよ。
学力差もありますが、それはそれ。
自分がやりたいと思うことをやったほうが幸福感が大きいんじゃないかって思いますけど。

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「偏差値が高ければ高いほど幸せなの? 僕たち私たちは、偏差値なんて気にせずに幸せに生きてるけど、それじゃ駄目なの?」

「親は国立大の医学部に行けって言うけれど、僕は本当は大工になりたい。立派な職人になって、人に喜んでもらえる仕事がしたい」
「何を言ってるんだ。君は成績が抜群にいいのにもったいないじゃないか」
「もったいないって? 一度限りの人生なんだよ。本当にやりたい仕事をしないで生きるほうがよっぽどもったいないじゃないか」


(伊藤一滴)


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あなた方は敵ではない

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「救助隊が来てくれました。さあ、しっかり。私にとってあなた方は敵ではないし、あなた方にとっても私は敵ではありません。『正しく聖書を信じ、神の教えに従っている』と称する人たちが、天の父を敵にして、さかんに攻撃してくるのです。彼らが祈りを捧げても天の父には届きません。イザヤの書にこうあります、『たとえあなた方が多くの祈りを捧げても私は聞かない。あなた方の手は血にまみれている』と。(イザヤ1:15~16による)」

(伊藤一滴)


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天の父の御心にかなう人々に救いがある

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「キリスト教徒とユダヤ教徒がこんなひどいことをしてしまって、本当に申し訳ありません。」

「いいえあなたのせいではありません。あなたは愛と平和を説きましたが、従わない人たちがいるのです。あなたの教えだと、愛と平和の教えに従わない人でも唯一の創造主を信じていれば皆救われるのですか?」

「いいえ。聖書に記されている神を信じているから救われるというのではありません。『天の父の御心にかなう人々』に救いがあるのです。攻撃してくるキリスト教徒やユダヤ教徒らは、『私は聖書に記されている神様を信じています』と言うでしょう。しかし、その日には、私は彼らにこう言います。『私はあなたたちをまったく知らない。不法をなす者ども、私から離れ去れ』と。この攻撃は、私への攻撃と同じです。私を攻撃する者たちは、断じて聖書信仰者ではありません。」

(伊藤一滴)


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隣人(となりびと)とは誰なのか


ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。(ルカ10:30より)

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「サマリア人のあんたが、ユダヤ人の俺を助けるのか」

「こんなときに、サマリア人もユダヤ人もあるもんか。すぐに応急処置をして宿に運ぶからな。さあ、しっかり」

「あんた、いい人だな。あんたみたいな人が通りがかってくれて助かった。ありがとよ」

「なあに、いいってことよ」

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(伊藤一滴)


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「偶然に出来るはずはない」から進化論は間違っている?(再掲)

 

一見科学的なスタイルで進化論を否定する言説がネット上にいくつもある。執筆者(動画の場合は話者)は、たぶんキリスト教原理主義者で、原理主義の立場から語っているのだろうが、宗教色を出さないようにして、まるで科学的な見解であるかのように進化論を否定する。

彼らには最初から答えがある。先入観なしに論じるのではなく、自分たちが思い込んでいる答えに至るように話を持って行く。

科学的に論じているかのように装い、宗教色を出さずに自分の宗教を語るのは、やり方として卑怯だ。宗教色を隠して接近してくる統一協会のようだ。

見分け方がある。

宗教を前提に語っている場合、たとえ科学を装っていても、「高度で複雑な生物が偶然に出来るはずはない」とか「偶然に出来るとは考えられない」といった言葉が出てくる。
何らかの意思が働いていると言いたいのだ。神という言葉を使わなくても「神の働きに違いない」と言いたいのだ。

「偶然に出来るはずはない」のような言い方は、科学ではない。
偶然かどうかは、その人の主観でしかない。科学を論ずる場に主観を持ち込むのは科学ではない。科学のふりをしたエセ科学である。

これまでの実験や観察の積み重ねで明らかになっていること、必ずそうなること、再現実験可能なことであれば、こうすればこうなるのは必然だと言える。でも、必然だと客観的に断定できないことにまで「偶然に出来るはずはない」などと言いだすのは、どんなに科学っぽく論じていても科学ではない。

「偶然に出来るはずはない」の他にも、

「確率的にあり得ない」、

「設計図なしにできるはずがない」、

といった言い方が出てきたりする。


「確率的にあり得ない」? 
たとえば、「我が家に隕石が落下するなんて確率的にありえない」って言えるんだろうか?(隕石が落ちるのも落ちないのも神様の予定? 神様が予定しているなら私たちが日々の安全を祈っても無意がない?)
どんなに確率が低くても、確率的にあり得ないように思えても、起きるときには起きる。起きないという客観的な証拠なしに確率からあり得ないと断ずるのはその人の先入観・思い込みでしかない。

「設計図なしにできるはずがない」?
適さないものが淘汰されれば適するものが残る。最初から適するものだけあったのではない。だから設計図はいらないと考えることができる。
どうしても設計図を想定するのなら、「生物の進化も神の設計図による」という主張も可能になる。進化論を認めたからといって神の存在を否定することにはならない。今日、主流派のプロテスタントも、カトリックも、進化論を認めた上で神の存在を信じている。

だいたい「進化を認めるか否か」と「イエスの教えに従うか否か」とは何の関係もない。

統計があるわけではないから私の主観だが(だから科学ではないが)、どうも、イエスの教えに従わない自称「クリスチャン」たちの中にムキになって進化論を否定する人が多いような気がする。
イエスの教えに従い隣人愛に徹する人たちは、進化論がどうだこうだと人に絡んできたりしない。イエスに忠実な人たちは、心の中で進化論を認めているかどうかに関わらず、信仰と科学は次元の違うものだと考えており、信仰と科学を混ぜこぜにしたりしない。進化論の是非を語ることに大きな労力を費やしたりしない。
「進化論は間違っています!」とムキになる人たちは、イエスの教えより自分たちの先入観を優先しているようだ。

私が出会った進化論否定論者は怖い人が多かった。ちょっとでも批判すると逆上し、怖い目で睨みつけられた。感情むき出しになって食ってかかってくる人もいた。まるでチンピラのようで、あれがクリスチャンなのかと呆れもした。

それでも「私たちは聖書を信じるので進化論を否定します」と言う人たちは正直で、まだましなほうだ。科学的に論じているかのように装い、宗教色を出さずに進化論を否定する「クリスチャン」たちはタチが悪い。

進化論について語る中で、「偶然に出来るはずはない」「確率的にあり得ない」「設計図なしにできるはずがない」その他これらに類する言葉が出てきたら、それは科学ではなく宗教、または宗教色を隠した宗教である。科学のふりをして自分の宗教的な思い込みを語っているだけである。

(伊藤一滴)

参照:進化論を否定する「クリスチャン」たち(再び)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-50a2.html


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隣人とは誰?

2



道で倒れている人がいたら手を差し伸べる
― それは普通のことです。
(中村哲)


隣人とは誰でしょう?

同じ国の人ですか。

同じ民族の人ですか。

同じ人種の人ですか。

同じ宗教の人ですか。

同じ利害関係の人ですか。


「隣人とは誰なのか」が分からない人に「私は聖書の教えを信じています」なんて言ってほしくありません。

(伊藤一滴)


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これまでのこと(別のAIの画像で再現)

先に、これまでのことをAIに描いてもらいました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2026/02/ai-fa04.html

別のAIを使って同じ場面を描いてもらいました。今回使ったのはグーグルのジェミニです。

リアルな画像ですが、実物の写真ではありません。過去のイメージを再現した合成写真です。
先にチャッピーに描いてもらった画像とはだいぶ違いますが、これらも見事です。

Photo_4 独身の頃、妻(当時は彼女)は勉強家でした。(今もそうです。)

Photo_2祈る人でした。(今もそうです。)

Photo_5 障害のある子や病気の子のケアをしていました。

Photo_4 一般の病棟でも働きました。

Photo_5 私とよく話をしました。休みが同じ日に横浜に行って中華街で食事したこともありました。(注:こんなにたくさん食べたわけではありません。AIの絵が大げさです。)

Photo 夏、大磯に遊びに行ったこともありました。

Photo_6 この人と共に生きていこうと互いに決意しました。

Photo 結婚しました。

Photo_2 山形県の農村で暮らすようになりました。

Photo_3 子どもたちは山里の大自然の中で育ちました。

Photo_4 20年経ちました。長男は教育の道に進み、次男は農業に従事しています。娘は大学生になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

画像はすべてAIに描いてもらったイメージです。文章は事実ですが、写真は私の記憶をもとにしたイメージの合成であり実際の姿ではありません。

AIがこういった画像を描けるようになりました。写真というものの意味が問われそうです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

AI画像の突っ込み所

「独身の頃、妻(当時は彼女)は勉強家でした。~」
置いてある本のタイトルがバラバラです。何の勉強をしてるんでしょう? 最初の画像では手元に飲み物があったのですが、修正して消しました。図書館に飲み物を持ち込むのはよくないです。当時なかったスマホらしきものも見えますが、スマホと断定できないし、そのままにしておきます。

「祈る人でした。~」
日本語訳聖書で横組みのはあまりないです。別にいいですけど。

「障害のある子や病気の子のケアをしていました。」
彼女、ずっと同じ服ですね。セーターの上に、最初なかったブルーのエプロンを着用してもらいました。

「この人と共に生きていこうと互いに決意しました。」
これは素敵な画像です。本当にこんな感じでした。最初の画像だと手袋の上から指輪をしてたんで、いくら何でもそれはないので、加工して消しました。

「結婚しました。」
参列者が正面に背中を向けているように見えますが、この教会、どっちが正面なんでしょう。まあ、みんな回れ右してくれたのかもしれないので、このままにしておきます。

「20年経ちました。~」
長男も次男も20台半ばです。1歳数か月しか違わないんですが、長男がずっと老けてみえます。教育の場にいると、年齢以上に見えてくるのかもしれませんげど。

2026年当時のAI画像はこんな感じだったと、修正していない画像は私のパソコンに残しておきます。

(伊藤一滴)

信仰の論拠は聖書のみ?(再掲)

プロテスタントは「信仰の論拠は聖書のみ」と主張するが、実は、聖書(Scripture)以外に、伝統(Tradition 聖伝)、理性(Reason)、経験(Experience)などを用いて教えを説いている。だのに「聖書のみ」と言い続けることに、私は違和感を覚える。
しかも、この「信仰の論拠は聖書のみ」という記述自体、聖書にない。もし本当に「信仰の論拠は聖書のみ」なら、聖書にどこかにそう書いてありそうだが、どこにも書かれていない。

特に福音派は以下を強調するが、これらの言葉も、聖書にそのままの形では書かれていない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」「聖書には権威がある」「日曜は安息日である」「日曜の礼拝に信者は出席すること」「信者は禁酒せよ」
これらは聖書解釈によって導かれた見解であり、聖書にはっきり書かれた箇所がない。「聖書の教え」(=「神の教え」)は、理屈のつけようでどうにでもなる。
だから、「福音派は聖書のどこにも書かれていないことを言っているので反聖書的であり、間違った信仰です」といった主張も可能になってしまう。(理屈でそういう主張もできてしまうという話であり、私がそう思っているわけではないが。)
それに、新約聖書がまだ存在しなかった時代にもキリスト教信仰はあったのだから、「信仰の論拠は聖書のみ」とは言えないという主張も可能になる。
私はいろいろな人に「新約聖書がまだ存在しなかった時代のキリスト教信仰の論拠」について聞いたが、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張と整合性のある説明を聞いたことがない。
新約聖書が成立する前の原始キリスト教の時代には、「旧約聖書」の記述と「口頭の伝承」(=口伝、口承)と「共同体の信仰」が信仰の論拠だったと考えられる。当時は「信仰の論拠は聖書のみ」ではなかったのだ。
どこまでも「信仰の論拠は聖書のみ」とするなら、新約聖書が成立する前は正しいキリスト教はどこにもなかったという話になる。
「新約聖書が成立する前は、パウロやイエス様の弟子たちが正しい教えを伝えていたのです」といった主張があるが、今日のような形の新約聖書が確立したのは4世紀の末である。紀元1世紀の時代を生きたパウロやイエスの弟子たちは4世紀の末まで生きて教えを説いていたのだろうか。「パウロや弟子たちの没後も正しい教えを受け継いで伝えた人たちがいました」と言うのなら、それはつまり聖伝(Tradition)だ。4世紀の末までは聖伝が有効で、新約聖書が確立した途端に「信仰の論拠は聖書のみ」に変化したのだろうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは宗教改革を進めるのに使われたスローガンであって、歴史的価値のある言葉であっても、今では成り立たない主張ではないのか。
(伊藤一滴)

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イラン攻撃の正当性?

今のイランがいい国だとは思いません。

イランは自国民を苦しめる国です。
反体制派を弾圧し、女性の権利を制限し、LGBTQ+の人たちを差別する国です。少数派宗教への抑圧も続きました。平和的なデモを暴力で抑え込む国です。警察官や刑務所職員らによる虐待・拷問も指摘されています。ウクライナを侵略するロシアに武器の供給もしてきました。
さらにこの国は、核兵器の開発を目ざしてきたとされ、事実なら世界にとって重大な脅威です。

しかし、だからと言って、アメリカとイスラエルがイランを攻撃してよいという理由にはなりません。


イランの最高指導者ハメネイ師が殺害されました。イラン国営メディアの発表によると、ハメネイ師だけでなく、師の娘、​孫、‌義理の娘、‌義​理の息子‌も攻撃により死⁠亡し⁠たとのことです。

女子小学校が爆撃され、小学生ら148人が犠牲になったと報じられています(読売新聞電子版)。犠牲者はもっと多いという報道もあります。(イラン軍が反撃した際の誤爆ではないかという指摘もありますが、仮にそうだとしても、原因を作ったのはアメリカとイスラエルです。)

他にも多くの死者、負傷者が出ているのでしょう。

Photo

Photo

日本政府は、アメリカとイスラエルをまったく批判しません。
日本はこういうやり方を是認するのでしょうか?
どう考えたって国際法違反だし、イランの指導者や官吏らと関係のない人たちまで殺されているのに。


アメリカの「福音派」の多くはトランプ支持です。
イスラエル支持を表明する牧師たちもいます。日本にもいます。

「無辜の市民を殺傷して止まないトランプやネタニヤフを支持すること」と、「キリストに従うこと」は、果たして両立するのでしょうか?

Photo_2

私が思うイメージをAIに描いてもらいました。

(伊藤一滴)


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フェイク写真の例

これは凄い!
女子選手が男子選手を片腕で軽々と持ち上げました。

りくりゅうペアの逆ですね。
前代未聞です。これは史上初の快挙です。

って、嘘です。

私がAIに作ってもらったフェイク写真です。

人物も服装もAIによるもので、架空です。

Photo_2

男子選手の右手が変なので、修正しようとして出来たのが以下の写真。

2


3


今のところ、AIの写真はこんな感じですが、そう遠くない未来には、本物と見分けがつかなくなりそうです。

(伊藤一滴)

早すぎる春

家のそばでフキノトウを見かけました。

Photo

なんと、スイセンまで。しかも、つぼみもあります。

Photo_2

どちらも、今日、実際に撮影した写真です。AIを使った合成写真ではありません。

山里で20年ほど暮らしましたが、こんなに春が早いのは初めてです。普通、山里の2月は雪の中。3月になっても、年によっては4月になっても雪が降るんです。

こんなに春が早くて、農作物は大丈夫だろうか? 夏は猛暑になるんだろうか? 心配もあります。

この冬は雪が少なく、あまり寒くなくて、それは助かりましたけど。

(伊藤一滴)

2026.2.28 追記

福寿草まで咲いてました。室内や温室栽培ではない外の自然の状態で、2月に山形県内で福寿草が咲いているのを、私、生まれて初めて見ました。気候はどうなちゃったんでしょう?

Photo

父のこと(AIの絵)

私の父は職人でした。
80歳を過ぎてからも現場に行ってました。

AIに父のイメージを語って描いてもらった絵がこれです。

Photo_2

私は地方の建築職人の家の生まれです。
そういう、庶民の出身なんです。
イエス様も、そうですね。

(伊藤一滴)

田川建三さんにお会いしたときのこと(AIの合成写真で再現)

以前、「「神様なんていませんよ」 田川建三さんにお会いしたときのこと」という文章を書きました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2025/09/post-b20f.html

(「神様なんていませんよ」というのは、田川建三さんがそうおっしゃっていたから題名に使ったのであり、私がそう考えているというのではありません。)

会場の外で話をしている場面をAIに描いてもらったのがこれ。

Photo

実際は1994年5月の夕方でしたから、季節も時間も違いますし、背景もちょっと変ですが、雰囲気は出ています。

Photo_2

それから高田馬場駅前の店まで歩いて、店内でさらにお話ししました。実際はこんなでかいジョッキで飲んだのではなく、食事をしながら少し飲んだ程度です。

当時、統一協会やオウム真理教が問題になっていました。田川さんも、カルト宗教の問題点を語ってました。あの頃、社会全体、有効なカルト対策ができずにいたようです。
そんな当時を思い出します。

AIを使い、簡単に合成写真ができる時代になりました。
こういう技術が悪用されると怖いです。
今後、写真が証拠にならない時代になるのでしょうか。

(伊藤一滴)

雪の中の家族(AIの絵で再現)

これもAIに描いてもらった絵です。

雪の中の家族です。
山里暮らしを始めて1年くらいの頃は、本当にこの絵のような感じでしたから、これ、なかなか雰囲気が出てます。

Photo

雪が降ると子どもたちは大喜びです。でも、親は大変なんですよ。
特に大雪の朝は家から出るのも大変で、「忍びて春を待て 雪は解けて花は咲かん」という歌を歌って自分を励ましながら除雪してました。(讃美歌291番です。)

Photo数年後、娘もお兄ちゃんたちと一緒に雪の中で元気に遊んでいます。
その頃を思い出します。

(伊藤一滴)

これまでのこと(AIの絵で再現)

AIに描いてもらいました。

Photo 独身の頃、妻(当時は彼女)は勉強家でした。(今もそうです。)

Photo_2 祈る人でした。(今もそうです。)

Photo障害のある子や病気の子のケアをしていました。


Photo_3
一般の病棟でも働きました。

Photo私とよく話をしました。休みが同じ日に横浜に行って中華街で食事したこともありました。(注:こんなにたくさん食べたわけではありません。AIの絵が大げさです。)

Photo_2 夏、大磯に遊びに行ったこともありました。

Photo_3 File_00000000b7f871f5be913dc1566ac2 この人と共に生きていこうと互いに決意しました。

Photo 結婚しました。

Photo_5山形県の農村で暮らすようになりました。

Photo_2子どもたちは山里の大自然の中で育ちました。

20_3

20_420年経ちました。長男は教育の道に進み、次男は農業に従事しています。娘は大学生になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

画像はすべてAIに描いてもらったイメージです。文章は事実ですが、絵は実際の姿ではありません。

AIがこういった絵を描けるようになりました。イラストレーターが仕事を失いそうです。

(伊藤一滴)

2026.3.9 画像をさらにそれっぽいものに差し替えたり、加えたりしました。

立憲民主党系の大敗北

このたびの衆院選で、自民党が圧勝し、中道改革連合の立憲民主党系は大きく議席を減らしました。

なぜ、そうなったのでしょう。

考えられることを述べてみます。


まず、第一点。

立憲民主党系の人たちは、具体的な政策とその裏付けをあまり語らず、与党を批判するだけの人たちだと思われていることです。

「私たちならこうします、その裏付けはこうです」と語るのではなく、政権に対して批判や文句ばかり言っているように見えて、支持を失っていったのです。

未来につながる希望が見えてこないのです。
だから、支持したくない、となったのでしょう。


二点目。

高市早苗氏の選挙対策の一つが「相手を批判しない戦略」でした。選挙アドバイザーの入れ知恵かもしれませんが、結果、高市氏が「いい人」のように見えたのです。

選挙では、候補者や政党の政治的な能力が問われることはあまりなく、票を集める能力だけが問われます。

政治的な能力が高いかどうかではなく、「いい人」が「頑張っている」と見えれば支持されるのです。たとえ政治的な能力があっても「悪い人」に見えれば支持を失います。

野党が高市早苗氏を厳しく糾弾したり詰問したりするほど、たとえその野党の指摘が当たっていたとしても、「パワハラ上司が女性をいじめている」ように見えてしまいます。(これは、れいわ新選組の大幅な議席減についても言えます。厳しい糾弾や詰問は反感をかって、自分たちの票を減らし、かえって相手を利するようです。)

票に結び付くかどうかは、その指摘が当たっているかどうかではなく、有権者にどう見えるかなのです。有権者の大多数は政治の素人ですから。

高市氏に対する厳しい非難が、かえって高市人気を高める結果となったようです。
「頑張っているのに、あんなに悪口を言われてかわいそうに」、みたいな感じですね。
裏金問題も統一協会問題も、吹っ飛んでしまったような高市人気です。


この点は、これまで高市早苗氏を厳しく非難してきた私自身も反省しています。

私は限られた中にいて、限られた世界からものを考えていたようです。
国民一般の目から、特に若い世代から、世の中がどう見えているのか。対話を重ねながら冷静に考えないといけないと思います。

私の反省点です。


三点目。

高市自民党はSNS戦術が巧みでした。大手広告代理店の入れ知恵にしても、本当に見事でした。若い世代の多くは新聞を読まないしテレビもあまり見なくて、情報の中心はネットになってます。ネットでも、長い文や長い動画が苦手な人が多いようです。
短く、うまく、大量に刷り込む戦術は、実に見事でした。

相当のお金を使ったのでしょう。広告代理店にも、グーグルにも。
お金を使って宣伝するほど票になるって、どうなんでしょう?
かつてジャーナリストの辺見庸さんが言ってました、「言説も金で買える」って。
言論の自由と言っても、お金をかけて宣伝した側の言説が広まって、それが正しいかのようになっていくのです。CMにお金をかければ物が売れるように、言説を広めるのもお金をかけるほど有利なようです。

今の時代、野党も広告代理店とよく相談してSNS戦術練るべきだったのでしょう。そのやり方がいいかどうかはともかく、お金をかけて宣伝すれば票になるようです。


四点目。

これが一番大きいのかもしれませんが、立憲民主党と公明党が組織を合同して中道改革連合を結成したのは大失敗でした。
「昭和十六年の敗戦」みたいに、すでに戦う前から大敗が決まっていた選挙戦でした。

選挙協力くらいにしておいて、組織の合同までしなければ、こんなに大きく負けなかったでしょうに。

立憲は、安保法、辺野古問題、原発問題などで、公明に大きく妥協しました。大急ぎの方向転換で、ていねいな説明もありませんでした。その結果、左派系・リベラル系の人たちの票も浮動票も大きく失ったのでしょう。それならそれで、「私たちは路線を転換し、左派ではなく現実路線です」と言い張るならともかく、「#ママ戦争止めてくるわ」に賛同するなど、主張がフラフラしているように見えました。

一体どっちの味方なんだ。
一貫性がない。
ヌエかよ。

左派からも、リベラル派からも、様子を見ていた人からも見放されたのです。


では、今後どうすればよいのでしょう。

また2つの党に戻すべきでしょう。

批判や文句ばかりの党と見られないよう、まず、具体的な政策とその裏付けを語るべきです。
党の方針を決めたらフラフラしないことです。
そして、政権与党や首相個人を厳しく糾弾したり詰問したりするのではなく、疑問点があれば礼儀正しく質問した上で、「私たちならこうします、その裏付けはこうです」と未来につながる希望を語るべきでしょう。

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

現首相と前首相の選挙後のXでの謝意

現首相の高市早苗氏と前首相の石破茂氏の、今回の選挙後のXでの謝意の第一声をここに貼り付けますから、読み比べてみてください。


まず、高市早苗氏から。


引用開始

高市早苗
@takaichi_sanae
·
I am sincerely grateful to President Donald J. Trump for his warm words.
I look forward to visiting the White House this spring and to continuing our work together to further strengthen the Japan–U.S. Alliance.
Our Alliance and friendship with the United States of America are built on deep trust and close, strong cooperation.
The potential of our Alliance is LIMITLESS.
Let us work together to ensure that our Alliance continues to bring peace and prosperity to our two nations—and beyond.
@POTUS

@realDonaldTrump

ドナルド・J・トランプ大統領の温かいお言葉に心から感謝いたします。
今春にホワイトハウスを訪問し、日米同盟の更なる強化に向けて、共に更なる取組を進めることができることを心待ちにしています。
日米同盟と日米の友好関係は、深い信頼と緊密で強固な協力の上に築かれています。
私たちの同盟の潜在力は無限大です。
日米同盟が、両国、そして世界に、平和と繁栄をもたらし続けるよう、一緒に働いていきましょう。

引用終了


次に、石破茂氏。


引用開始

石破茂
@shigeruishiba
·
Feb 9
鳥取1区の皆さまのおかげで、14回目の議席をお与えいただきました。有権者の皆さまと原点に帰ることができたこの選挙での思いを糧に、国家のため世界のため、そして鳥取のためになすべきことを進めてまいります。本当にありがとうございます。

引用終了


「選挙後の最初の謝意」に、両者の違いを感じます。

高市早苗さんは、まず、アメリカのトランプ大統領の支持表明に感謝の意を伝えました。そして「日米同盟の更なる強化に向けて、共に更なる取組を進めることができることを心待ちにしています」と述べました。

石破茂さんは、自分に入れてくれた有権者に感謝の意を伝え、「国家のため世界のため、そして鳥取のためになすべきことを進めてまいります」と述べました。

これが両者の違いです。

悪口とか、私の個人的な感想とかではなくて、事実です。

(伊藤一滴)


(高市早苗氏のXでは、一度載せたポストが削除されたり、削除されたポストがまた復活したりしているようです。これは、2026年2月10日の午前中の閲覧をもとに書いています。)

高市自民党圧勝に思う

衆院選で自民党が圧勝しました。
自民単独で316議席(定数465)を得ていますから、3分の2を越えています。

事前の調査で、各マスコミが自民党の優勢を伝えてはいましたが、私は、まさかここまで自民党が圧勝するとは想像していませんでした。

マスコミの電話による調査と言っても、知らない番号に出ない人も多いですし、インターネットでの調査にしても、ネットを使わない高齢者も多いので、本当の数は読めないと思ったのです。
今回、自民党の候補者は学会票を失うだろうし、せいぜい自民党は230議席前後かと想像していました。

それが、結果は316議席ですから、びっくりです。
一つの政党でこの数は戦後最大と報じられていますが、戦前もこれほどの議席を占めた政党はないので、日本憲政史上最大です。
(第二次大戦中、大政翼賛会に属する「翼賛政治会」が衆議院のほぼすべての議席を占めていたことがありましたが、翼賛政治会は政党ではありません。)


高市早苗氏に対する期待値がとても高かったのでしょう。
実績に対する評価の票ではありません。実績はほとんどないのですから。
「女性初の総理だから」「力強く見えるから」「迅速だから」「頑張っているから」「頑張っているのに非難されて気の毒に」みたいな感じなのでしょうか。

まだ実績らしいものがほとんどない中での「高市総理の信任投票」って、どうかと思います。
それって国民が総理大臣や内閣の適性を判断するのではなく、ただの人気投票ですね。

かつて民主党政権が熱狂的に支持されたときのことを思い出しました。
あのとき旧民主党は300議席を越えたというのは覚えているのですが、正確な数まで記憶しておらず、ネットで調べてみました。

「2009年8月の衆院選で、当時の民主党は193人増えて308議席、対する自民党は181人減って119議席、公明党は10人減って21議席」

こういうことがすぐ調べられる便利な時代になりました。

今回、高市自民党は旧民主党の記録的議席数も越えました。

ちなみに、当時の鳩山内閣の支持率も調べてみました。調査機関にもよりますが、組閣時に70%を越えていた内閣支持率が、翌年9月には19%代(共同通信)や17%代(朝日新聞)まで落ちています。国民の多くが、鳩山由紀夫氏が率いる民主党政権に失望したのでしょう。
民主党政権は迷走し、やがて下野しました。
実力以上に期待され、大きすぎる期待に応えられず、支持が離れていったのでしょう。

あのときの民主党政権への失望と同様のことが高市内閣でも起きるかもしれないと思います。
勝ちすぎました。期待され過ぎです。
高市さん、大きすぎる期待に応えられるのでしょうか?
自民党は、内部に多様な人材をかかえた組織です。その多様さは自民党の力でもありますが、高市氏を好ましく思わない議員も一定数いるでしょう。高市さんが中心となってうまくまとめていけるのでしょうか。

長期政権となった安倍晋三内閣の場合、背後にブレインたちがいて、サポート体制が整っていました。3代続いた政治家の家系ですから、長い年月をかけて後方支援を整えたのでしょう。高市さんに十分な後方支援があるんでしょうか。野党の追及よりも、党の運営で苦戦するかもしれません。


自民党の支持率自体はそれほど高くないのです。高市内閣に対する支持が高いのです。高市氏が支持者の期待に応えられなければ、熱狂的な支持は冷めてゆくことでしょう。失望が大きければ反発も大きくなることでしょう。

高市氏は今のところタカ派色をあまり出さないようにして「安全運転」に徹しているようですが、彼女のこれまでの発言や行動を見れば、氏は自民党の「タカ位置」ですから、数の力で暴走せぬよう、マスコミも国民も注視していく必要があるでしょう。


もう一点、これはもう素人の私にもわかることですが、立憲民主党と公明党が組織を合同したのはひどい悪手でした。別の党のまま、せいぜい選挙協力くらいにとどめておけば、特に立憲系の候補者がここまで落選することはなかったでしょうに。(立憲系は公示前の144人から、当選者21人と85%の減。しかも当選した21人の中には自民党の比例名簿の候補者不足によって得た議席も含まれています。)

(伊藤一滴)


2026.2.10 追記:報道によれば、高市首相は選挙後にX上で自国民への感謝の言葉はなく、トランプ大統領への感謝をまず示したそうです。彼女がどこを向いている人なのか、察することができます。

「うそだろ?」高市早苗首相、選挙後の行動に批判の声「まず国民にありがとう言おうや」「これは…」(検索)

悪口を書いているのではありません。今、高市早苗氏のXも確認しましたが、事実です。(高市早苗氏のXでは、一度載せたポストが削除されたり、削除されたポストがまた復活したりしているようです。これは、2026年2月10日の午前中の閲覧をもとに書いています。)


立憲民主党は「具体的な政策を立案し実現していく党ではなく、批判ばかりの党」と見られていました。実際はいろいろ提案していたのでしょうが、それが国民にきちんと伝わっておらず、批判しかできない党のイメージでした。これまで伸び悩んできたのはそのためでしょう。その党が、与党だった公明党と組織合同したのは、ほとんど自殺行為でした。
今回の立憲系の当選者激減は、なるべくしてなったのです。こんな、素人にも分かることが、どうして立憲の幹部たちに分からないのでしょう。

高市早苗氏が大人気でも、批判の声もあったのです。立憲系は高市批判の受け皿になれませんでした。

山上徹也さんへの不当判決に抗議する

安倍晋三元首相を銃撃して殺害した山上徹也さんに無期懲役の判決が下りました。

前科もなく、殺害された人が1人で、それで無期懲役って!

何の落ち度もない人が殺されたのならともかく、統一協会の悪質性、反社会性は明らかであり、安倍晋三氏はその統一協会と深い関係にあったのです。

もちろん、だから殺していいわけではありませんが、総合的に考えれば、懲役10年か、重くて15年くらいかと思っていたのです。それが無期懲役って!

私は、驚き、あきれ、この不当判決に怒りが込み上げて来ました。


1/21(水) 16:30配信の朝日新聞電子版に、鈴木エイトさんのコメントが載っていたので引用します。

引用開始

 裁判の傍聴を続けてきたジャーナリストの鈴木エイトさんが閉廷後に取材に応じ、「重すぎる判決だ」と述べた。

 鈴木さんは「宗教2世と呼ばれる社会問題の被害者が、人生の居場所を奪われた背景のなかで起こした事件だ」とした上で、奈良地裁の判断について、「そうして社会から居場所を奪われた人に、戻ってくる余地を与えないような判決だった。彼一人に背負わせていいのか」と語った。

引用終了


判決は宗教二世の苦しみをほぼ無視しています。
現に悪質な宗教が存在し、その悪質な宗教に安倍晋三氏が深くかかわっていたというのに


安倍氏や氏の仲間たちは、統一協会との関係やモリカケサクラ等で何の罪にも問われていないのに、山上さんには無期懲役っておかしくないですか。日本の司法は権力者の罪は問わず、不幸な生い立ちの庶民には重罰を科すのですか。宗教二世の悲劇は、統一協会と深く結び付いていた安倍晋三氏らにも重大な責任があるというのに、判決はそれをほぼ無視。

裁判長は自民党の熱烈な支持者なのですか。権力側に忖度して上ばかり見るヒラメなのですか。
これは、自民党に攻撃を加えた者はこうなるのだという見せしめの判決ですか。

高市氏がこの時期に大急ぎで解散総選挙に出たのは、マスコミの報道が選挙中心になり、山上さんや統一協会の問題が報じられるのを薄めるように仕組んだ、という噂があるのですけれど、本当?


山上さんの弁護士さんにお願いします。
必ず上告してください。上告して、統一協会、安倍晋三氏、自民党の悪事の数々を一層明らかにしてください。山上徹也さんのためにも、他の宗教二世の被害者の方々のためにも。

今回の選挙で統一協会とつながっていた自民党議員たち(≒裏金議員たち)も立候補します。
有権者は投票に行って意思表示をすべきです。


もっといろいろ言いたいのですが、体調不良で、今日はここまでにします。

(伊藤一滴)

与謝野晶子「みだれ髪」より

与謝野晶子の「みだれ髪」を最初に手にしたのは高校生のときでした。だぶん、古本屋で買った角川文庫版だったと思います。

どきどきしながら開いたんですが、当時(1980年頃)は現代語訳なんてなくて、意味の分からない箇所が多く、いろいろな解説を見ても難しくて、自分の古典読解力のなさを情けなく思いました。
それでも、ああなのか、こうなのかと想像しながら、どきどきしました。

実は、「みだれ髪」には、難解で、あいまいで、いろいろ解釈できる歌も多いんだそうです。

「みだれ髪」の中の、特にどきっとした歌を二首、現在の私の訳を添えて紹介します。


やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

訳:女性のやわらかい肌の熱い血汐に触れることもなく道を説くあなたは寂しくないのですか?(一滴)

「道を説く君」は、昔のお坊さんでしょうか、カトリックの神父さんでしょうか。
実は、そうした宗教家ではなく、恋するあなたのことなのでしょう。


みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす

訳:あなたに抱かれて乱れた髪を京の島田(当時流行の独身女性のヘアスタイル)にセットしなおした朝、「明日はゆっくり寝ていていいよ」と言っていたあなたを揺り起こすのです。(一滴)

「京の島田」(=京風島田)というのが当時流行の独身女性のヘアスタイルと知ったとき、どきっとしました。この二人は夫婦ではありません。独身の女性が男の家に泊まり、翌朝髪をセットしなおしてから男を起こすという話です。明治時代ですよ。


ちなみに、俵万智氏の『チョコレート語訳 みだれ髪』だと上の二首は現代(1990年代)風に意訳され、こうなってます。

燃える肌を抱くこともなく人生を語り続けて寂しくないの

朝シャンにブローした髪を見せたくて寝ぼけまなこの君ゆりおこす

さすが、俵万智氏。


(伊藤一滴)

追記

さらに想像を膨らませて意訳すると・・・

やわらかい肌の中に熱い血汐が流れているこの私が目の前にいるというのに、「それはちょっと道徳的に問題だから」とか道を説いて私の体に触れようとしないあなたって、寂しくないの?(一滴訳)

つまり、「何だかんだと言ってないで早く私を抱いてちょうだい」ということ(一滴の想像です)。

その結果

あなたに抱かれて乱れた髪を京の島田(当時流行の独身女性のヘアスタイル)にセットしなおした朝、「明日はゆっくり寝ていていいよ」と言っていたあなたを揺り起こすのです。(一滴訳)

これも、髪が乱れた原因について「あなたに抱かれて」とは書いてないんですが、想像です。

先に引用した俵万智氏のチョコレート語訳にしても、なんだか、ナイダ理論みたいですけど、文学はそれでいいんです。受け取る側がどう感じてどう解釈するのか、書いてないことまで読み取ってもいいんです。でもそれ、文学作品はそれでよくとも、聖書のような正典の翻訳ではやっちゃいけないんです。原典に書いてある語を訳さず書いてない語を加えたり書き換えたりして「訳」すって、正典でやっちゃ駄目なんです。宗教の正典は直訳調に訳し、原典がさまざま解釈できる箇所は訳文もその通りさまざま解釈できるよう、そのまま訳すべきなんです。意味がよくわからない箇所があっても、わからないまま、そのまま訳すべきなんです。翻訳側の理解を読む人に押し付けてはいけないのです。

与謝野晶子の「みだれ髪」って、キリスト教が理想としているのとは違う話ですが、私は、ミシェル・クオスト著『神に聴くすべを知っているなら』(日本基督教団出版局)が頭に浮かびました。このクオスト神父の本には、生涯独身を貫くカトリック司祭が感じる寂しさの話も出てきます。

「さびしからずや道を説く君」って聞かれたら、
本音は寂しいでしょう。
そりゃあ。

あれかこれかの二分法思考は危険(再掲)

これまでいろいろなクリスチャンと話をして感じたことの一つは、クリスチャンの中に、あれかこれかの二分法思考の人がかなりいる、ということです。

たしかに、聖書そのものに、あれかこれかのような発想もあります。光と闇、信仰と不信仰、救いと滅び、みたいな発想です。でも、聖書のすべてが二分法ではありませんし、二分法はこの世界のすべてに当てはまるわけでもありません。

私は、何でもかんでも二分法を当てはめるような考え方では駄目なんだとずっと言ってきました。

原理主義やカルトも「福音派」とか「聖霊派」とか自称しますが、彼らの宗教は最初から答えがあって個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて自分たちは正しい側にいると思い込むんです。

この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。

そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。

真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。

「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると楽なのに。
「この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる」なんて考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって心の平安なんてないです。

心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?

キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」「聖霊派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。


クリスチャンの中に、「その人は信者か未信者か」と、人のキリスト教信仰の有無をすごく気にする人がいます。どうもそういうクリスチャンたちは、頭の中で全人類を「クリスチャン」と「非クリスチャン」の2種類に分けて、「それ以外の人間はいない」と思っているみたいです。
そして、「クリスチャンだけが救われ非クリスチャンは滅ぶ」と考えているようなのです。
そんなふうに、すべての人をあれかこれかの2つに分けられるのでしょうか。

もしイエスの教えに基づいて全人類を2つに分けるなら、その人が「クリスチャン」として生きているのか「非クリスチャン」として生きているのかではなく、「天の父のみこころにかなう者」か「みこころに反する者」か、となるのではありませんか。しかも、中間的な状態だってかなりあるでしょう。

「天の父のみこころにかなう者」か、「みこころに反する者」か、と考えた場合、「天の父のみこころにかなう者」=「クリスチャン」とは言えなくなります。

私は、どうも、非クリスチャンに「天の父のみこころにかなう者」が多数いて、クリスチャンの中に「みこころに反する者」が多数いるように思えてなりません。


マタイ福音書にこうあります。

7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳初版)

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」とあり、「キリスト教の信仰を持つ者」とは書いてありません!

自称「福音派」は、『主よ、主よ』と呼びかけるのが大好きです。
自称「聖霊派」は、預言がどうだとか、悪霊追放や奇跡の業がどうだとか、大好きです。

そういった人たちが、さも自分たちは正しい信仰であるかのように語ることをマタイ記者は知っていたんですね。

もちろん福音派も聖霊派も、その多くは健全な信仰を持つ善良なクリスチャンだと思います。でも、「福音派」「聖霊派」を称する一部に原理主義者がおり、カルト化も見られるのです。


その人が、見える形でキリスト教の信者なのか信者でないのか、それがそんなに大事なことなのでしょうか。(まあ、教会が収入を得て運営を続けるためには大事でしょうけれど。)

私は、「天の父のみこころにかなう」ことの方がずっと大事だと思っています。そして、それは、「聖書にこう書いてあるからこうだ」とか「書いてあることをすべて文字通り信じないといけない」みたいな、現代版の律法主義の実践ではないと考えています。

今も、世のキリスト信者の中には、誰それが「信者」か「信者でない」かを区別したがる人がいます。しかし、それぞれ別な宗教ではないかと思えるほどキリスト教諸派には幅があるし、キリスト教を信じると言っても、いつの時代のどの派のキリスト教をどのように信じるのか、その立場は数えきれないように思えます。ですから、その人が「信者」か「信者でない」か、他者がどうこう言えることではないし、場合によっては、その人自身もはっきりと答えられないかもしれません。

特定のキリスト教の立場から見て「信者」か「信者でない」かなど、さほど重要なことでないように思えます。人生は決断の連続ですが、ひとたび聖書の教えに触れた人間が、決断の状況に立ったとき、どう決断するのか、それが問われるのではないかと思います。

(伊藤一滴)


(2022-11-30 掲載分に補足して再掲。その前に書いたこととの重複箇所もありますが、今も考えが変わらないのでまた同じことを書きました。)


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聖書、信仰、天国、永遠の命(再掲)


小学生だった1973年に聖書に出会い、それから50年以上、聖書を読んでます。
10代の半ばまでは、聖書に書いてあることの多くは史実または事実が反映して書かれた記述だと思っていました。でも、読み進めるうちに聖書は矛盾だらけで、事実に反する記述も多いと気づきました。
それでも、私は聖書の中に普遍的なメッセージを感じてますし、イエスというお方の言葉やわざにとても魅力を感じています。

私は今まで一度も山が動いて海に入るのを見たことがありません。つまり、からし種ほどの信仰を持つ人さえ私の周りに誰もいなかった、ということです。
「信仰がなければ救われない」なら、いったい誰が救われるのでしょう。

私は、使徒行伝の時代の人たちとは違い、「人にできないことは神にもできない」と思うようになりました。でもそれは、「神のみこころは人の手によってなされてゆく」とも言えます。それは「信者の手によって」と言うより「神のみこころにかなう人たちの手によって」だと思います。

私は、神に従わないクリスチャンたちより、神のみこころにかなう非クリスチャンの方がよっぽど神様に近い所にいると思うようになりました。でも教会の側からは、その人が神様の近くにいるかどうかではなく、ちゃんと教会に所属して牧師に素直に従い維持費や献金をきちんと納入してくれる方が、運営上、いいんです。神のみこころにかなう非クリスチャンが教会の外にどれだけいたって教会の収入になりませんから。


天国とか神の国とかを、死んでからそこに行ける楽園みたいに思っている人が多いようです。たしかにそういう考えもあるんですが、死んでからそこに行きたいから信仰するなら、それは取引きですね。あるいは、天国という御利益(ごりやく)を求めて信じる御利益信仰です。イエスはそのような取引きや御利益を教えたんでしょうか?

キリスト教の中には死後の世界などないという考えもあります。天国(神の国)はこの地上の現実の中にあるという考えです。
そう考えれば、永遠の命というのは、永遠に変わらない普遍の理念を信じて生きた生き方だとも言えます。たとえば、紛争地域で何が起きているのかの取材を続けたジャーナリストの後藤健二さんとか、アフガニスタンの住民に尽くした医師の中村哲さんとか、普遍の理念に殉じたとも言えるわけで、死後もその理念は残るという意味で、永遠の命を得た人だと言えるのです。

大事なのは自分の死後の幸福を願うより、みんなの幸せを願いながら普遍の理念に向かうことではないのかと思うようになりました。だから、死後の世界があってもなくても、どっちでもいいんです。私は、「自分が死後に救われて天国に行くこと」が最も大切な教えだとは思っていません。


みんなが平和で幸福な未来に向かって進んでゆくことができる世界、これが理想です。すぐには実現しなくとも、本当はこれが理想なのだという思いを持ち続け、掲げていきたいです。


フランシスコ・ザビエルに帰せられる次の祈りがとても好きなので、また引用します。

「十字架上のキリストへの祈り」

主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私を引きつけるのはあなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられたはずかしめと死です。
そうです 主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても私はあなたを畏れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。
望みが何もかなわなくても私の愛は変わることはありません。

(伊藤一滴)

(2023-12-25掲載、一部語句を改め再掲)


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山上徹也さんに、可能な限り寛大な判決を

以前書いた文章を書き改めてここに載せます。


山上徹也さんが安倍晋三氏を殺害した事件の裁判が始まりました。

本人も語り出し、山上さんの境遇はかなりわかってきています。


以前から減刑署名を呼びかけておられる斉藤恵氏の見解を引用します。


引用開始

伝えたい点は次の2点です

・過酷な生育歴を鑑みての温情

父親の自殺、母親の教団への1億円超えの寄付による破産、難病の兄の自殺

母親は、統一教会(現世界平和統一家庭連合)に入信する前にも別の宗教団体にのめり込み、ほぼ育児放棄、父親と母親の間にはその事で喧嘩が絶えず、その後父親は自殺

母親は統一教会に入信すると、まだ幼い子供達を残して度々韓国に行き、その間、子供達は食べるものすらない状態であった

金銭的な苦悩だけでなく、母親の信仰により、幼い頃からその影響下で育ち、精神的な苦悩をもよぎなくされた

・本人が非常に真面目、努力家であり、更生の余地のある人間である事

そのような苦悩を抱えながらも、学生時代は勉学に勤しみ、社会人になってからも様々な資格を取得するなど、真っ当に生きようと努力していた

今回の事件以降、SNSでは沢山の統一教会(現世界平和統一家庭連合)をはじめとする新興宗教の二世による苦悩の実態が明らかにされました。

親の信仰によって、生活も精神も追い詰められる人が非常に多いです。

このような状況で物心ついた時から生活していた山上徹也容疑者(現被告、引用者)に、どうか寛大な見解をお願いします

引用終了

出典:「山上徹也容疑者の減刑を求める署名」

https://www.change.org/p/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%BE%B9%E4%B9%9F%E5%AE%B9%E7%96%91%E8%80%85%E3%81%AE%E6%B8%9B%E5%88%91%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E7%BD%B2%E5%90%8D

山上徹也さんのやったことは殺人です。計画的殺人です。どんな理由があれ、是認することはできません。法の裁きを受けるべきです。山上さんを英雄視してはいけません。決して見習ってはいけません。

しかし、山上徹也さんの境遇と今後の可能性をふまえ、可能な限り寛大な刑を望みます。

過去には、尊属殺人重罰規定の見直しになった判例もあります。あのときは、殺人罪に執行猶予がつきました。


そもそも、なぜ人を殺してはいけないのでしょう。
いろいろ見解もあるのでしょうが、単純に考えれば、社会の秩序を守るため、自分も含めてみんなが安心して暮らすために、人を殺してはいけない、ということではないのですか。
戦争や死刑のような例外もありますが、それはその国が、戦争や死刑によって社会の秩序を守ることになると考えるからではないのですか(実際にそうなっているかどうかは疑問もありますが)。

社会の秩序を守るために人を殺してはいけない、と考えるなら、社会の秩序を守らないのは誰か、を問うべきでしょう。社会の秩序を守らないできたのは、統一協会、安倍晋三氏、およびその仲間たちではありませんか。本当ならこうした人たちは罪に問われ、刑罰を受けるべきだったのです。
警察や検察が忖度せずにちゃんと機能していたなら、モリカケ桜その他で安倍晋三氏は失脚し、殺されずに済んだことでしょう。

法の規定が有効に機能し、違法行為が裁かれる社会なら、悪に対して暴力で報いなくても済むのです。法が曲げられ、「民主的な手段、平和的な手段では、世の中は変わらない」と感じられる社会で、悪(と思える人や団体)に対する暴力行為が起こるのです。
天に代わって悪を討つような暴力(つまり天罰の代行)をなくすためには、忖度なしに法の規定が有効に機能する日本を取り戻すべきなのです。

統一協会や自民党安倍派の違法行為・不当行為の数々は徹底的に暴くべきです。
もう安倍晋三氏はいないのだから、官庁もマスコミも、忖度はいりません。


山上徹也さんには可能な限り寛大な刑を望みます。

寛大な刑のために、弁護団はもちろん、各方面からの幅広い支援を望みます。

(伊藤一滴)

付記

殺されていい人などいません。
あるクリスチャンが私に言いました。
「山上徹也さんの最大の罪は、安倍晋三さんが自分の過ちを認めて改心する機会を奪ったことです」と。
安倍晋三さんだって、生きていれば、いつかは自分の過ちに気づいたかもしれません。
わかりませんけれど、可能性はゼロではなかったのです。
人には、死の寸前まで、悔い改めの機会があるのです。


山上徹也さん。
他の誰も巻き添えにしなかったとはいえ、あなたは安倍晋三氏の命を奪い、安倍氏が改心する機会を奪いました。そのことを深く省みた上で、刑に服し、社会復帰していただきたいのです。
あなたを支援したいと思う人がたくさんいます。
あなたは、見捨てられた人ではありません。

創作 あるクリスチャン青年の問い 「結婚したい人がいるんですが」(再掲)

私は長くプロテスタントの長老教会の牧師を務めてきた。
長老教会だから、教会には信者から選ばれた長老たちがいる。知らない人が長老と聞くと高齢者をイメージするようだが、これは信徒の役職名であり、中には若い長老もいる。
私が牧会する教会の長老の一人は二十代の青年だ。彼は小さい時から教会に通い、熱心に聖書を学んできた。キリスト教系の大学を卒業し、今、母校の大学の付属高校の教員をしている。彼は知的で人格も優れ、みんなから好かれており、長老の一人に選ばれた。これまで誠実に教会に奉仕してきた。

ある時、彼が、「折り入ってご相談したいことがあるのですが」と言うので、牧師館に来てもらって二人だけで話をした。

「牧師先生、実は、僕、結婚したい人がいるんですが」
と彼は言った。
「その方は信者さんですか?」
と私は聞いた。信者以外と結婚してはいけないわけではないが、価値観がまるで違う人と結婚して破綻した例をいくつも知っていたからだ。
「はい、信者です。教会は違いますが」
と彼は言った。
「それはおめでとう。嬉しいです。キリスト教を信じて価値観を共有できる人とならうまくやってゆけるでしょう。ところで、その女性はどちらの教会の方ですか?」
「〇〇教会の人ですが・・・。先生、実は、相手は女性ではなく、男性です。今まで言わずにきましたが、僕は、どうしても女性を恋愛の対象として見ることができません。以前から僕の恋愛の対象は男性でした。これは、僕が持って生まれた資質なのだろうと思います。非難する人もいるでしょう。でも、生まれつきのことで非難されるのは、生まれつきの盲人が非難されるのと同じだと思います。今の日本では、法律上、同性同士の結婚が認められないので、事実婚のような形になるのでしょう。この教会で結婚式を挙げることは可能でしょうか? 祝福していただけますか? それとも、僕は、聖書に反する罪を犯したとして、教会から出ないといけないのでしょうか?」
予想外の言葉に私は驚き、返事に困った。以前からこの青年に接してきたが、彼のそうした性的な志向にはまったく気づいていなかった。答えなければならない。真剣に問う彼に答えるのは、牧師としての義務だ。だが、どう答えればいいのだろう。何か言わなければと思いながら、焦った。
「それは・・・。性的マイノリティーに関して、私も、どう答えればいいのか、すぐに言葉が出てきません。少し、時間をください」
やっとのことで、そう言った。私の声はうわずり、手が震えていた。そんな私とは逆に、彼は落ち着いていた。覚悟を決めて来たのだろう。落ち着いた声でこう言った。
「僕は小さい時から両親に連れられてこの教会に通ってきました。聖書は神様の御言葉であり、万物を創造された神様がおられることも、イエス様が救い主なのも、聖霊の働きがあることも、みな、僕にとって水や空気があるのと同じように自然なことでした。だから、教会で教えられたことを疑ったことはありません。先生はいつも、『イエス様は、弱い側、苦しむ側の味方です』って、おっしゃいますよね。だから先生を信頼して、まだ親にも言っていないことを打ち明けました。僕はまさに、苦しむ側なんです。イエス様は、そんな僕の味方ではないのでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた後、私は彼に聞いた。
「ところで、相手の方の教会の反応はどうなのでしょう?」
性的マイノリティーついてどう考えるのか、教会により、牧師により、見解が分かれている。百八十度違うことを言う人もいる。
「詳しくは聞いていませんが、〇〇教会の〇〇先生は『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』という本をお書きになっています。たぶん、ご理解いただけるのではないかと思います」
「ああ、その本でしたら、私も読みました。全面的に賛成というわけではありませんが、学ぶべき点の多い本でした。〇〇先生はリベラル派の論客みたいに言われていて、保守派の中には非難する人もいますが、私は、苦しむ人たちに寄り添おうとする先生だと思いました」
また、しばらく沈黙が続いた。私は、神学校時代から今日まで、性的マイノリティーのことをどう考えてきたのだろう。彼に正直に伝えるべきだ。私は彼を見ながら言った。
「実は、最近までほとんどの教会は、性的マイノリティーなど教会内に存在しないかのような扱いで、カミングアウトした人を罪びとのように見なしたり、それは病気だから治療を受けて治すべきだと忠告したりしてきたのです。今でも、当教会だけでなく、キリスト教界全体として、性的マイノリティーにどう対応すべきか、統一の見解がありません。私が神学校で学んでいたのは一九八〇年代でしたが、当時、性的マイノリティーに関する授業はまったくありませんでした。当時は世間一般、性的マイノリティーに無理解な人が多く、同性愛者を笑い者にするようなテレビ番組や漫画もありました。外国人差別や部落差別は当時も非難されていましたが、性的マイノリティーに対する差別を非難する声は多くはありませんでした。エイズという病気の広がりが問題になっていましたが、薬物中毒者や同性愛者の病気と見なされ、この病気さえ嘲笑されることがありました。マザー・テレサが「エイズ患者に愛の手を」と呼びかけたとき、これはうちの教会員ではありませんが、「エイズなんて不道徳の結果なんだから、患者は自業自得でしょ。マザー・テレサは不道徳の味方なの?」と言っていたクリスチャンがいました。これもうちの教派ではありませんが、牧師の中にさえ「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きです」と言う人がいました。他教派であっても、そこまで言うクリスチャンがいることに、私は違和感を覚えました。しかし、違和感を覚えながらも、私は抗議の声をあげませんでしたし、性的マイノリティーの立場について深く考えることもしませんでした。私はこうした問題を避けたまま牧師になったのです。見て見ぬふりをすることで差別を是認し、差別に加担してきたと言われても仕方ありません。時代の状況とはいえ、私の怠りです。お詫びしなければなりません。これから、どう考え、どう対応すればよいのか、福音の光に照らし、祈りながら判断したいと思います。これまで私が言い続けてきた通り、イエス様は、常に、弱い側、苦しむ側の味方です。クリスチャンの中には、今も性的マイノリティーを罪びとのように見なして断罪する人たちもいますが、それは、取税人や遊女を罪びとだと断罪したパリサイ人や律法学者らと同様の発想だと思います。私は、そうした人たちには決してくみしません。イエス様の教えに従うならどうすべきなのか、よく考えたいのです。〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、もう一度じっくり読み直してみます。あなたがこれまで信仰を持って誠実に生きてきたのも、高校の教員として一生懸命仕事に励んでいるのも、教会のために頑張ってきたのも、私はよく知っています。あなたが持って生まれた性的な志向を非難などしませんし、教会から追放したりしませんから、安心してください。ただ、もう少し、考える時間がほしいのです」

(伊藤一滴)


性的マイノリティーの方々の苦しみについて、いろいろと話は聞いていますが、上記は創作です。実在の団体や人物とは一切関係ありません。

私、一滴は牧師ではありませんし、神学校で学んだ経験もありません。聞いた話からの想像です。
「教会の長老を務めるくらい優秀な青年」ということで長老教会としましたが、特定の教会のことではありません。実際の長老派系には幅があり、内部にはさまざまな見解があるようです。
〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、架空の本です。どなたか、こうした本を書いてくださればいいのに・・・。

2024.9.21付「キリスト新聞」の同性愛に関する記事に触発されて、思うことが湧きあがり、上記の話を一気に書きました。プロテスタント教会内の一部の心ある方々が発した問いへの、私なりのオマージュでもあります。
掲載後もいろいろ思いが湧いてきて、何度か推敲しました。

性的マイノリティーについての議論が深まることで人権意識が高まってくれればいいのですが、議論する人の中にはかなり差別的なことを言う人もおり、議論が当事者をより苦しめたりすることがないよう願っています。

(2024.9.26掲載、そのまま再掲)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

高市さんの発言は、経済的損失だけじゃない

11月7日の衆議院予算委員会で、高市早苗首相は、台湾有事は日本の「存立危機事態」になり得るという意味の答弁してしまいました。

これについて何度か私の見解を書きましたけど、これ、経済的損失だけじゃないんです。あの発言は、外交上も、防衛上も、我が国にとって大損失なんです。


高市首相は「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」と言ったのと同じなんです。

高市さんの頭の中では、「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、米軍の艦隊が出動することになるだろう。米艦が中国軍の攻撃を受けた場合は、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」という意味だったのでしょう。
それにしても、まず、言葉足らずでした。

それに、「米軍の艦隊が出動する」と断定できないんです。米軍の出動は勝手な仮定です。
アメリカにしてみれば、「我が軍の行動を勝手に仮定するな!」ってとこでしょうね。トランプ氏はアメリカファーストですし、中国との戦争なんて望んでないだろうし。
実際アメリカ政府は、高市発言をフォローするようなことを何も言ってません。トランプ氏は電話で高市氏に注意した可能性もあります(日本は認めていませんが)。

高市さんはアメリカの事前の了解がないままに、勢いで勇ましいことを言っちゃったんです。
日本の単純右派は、よく言ってくれたって喜んだかもしれないけれど、いくらなんでも、中国との外交や経済上の問題だけじゃなくて、日米同盟上も、まずい発言だったんです。
アメリカ政府は、口にはしなくとも、内心ムッとしてるかもしれません。


歴代内閣が、台湾有事の際に日本がどう動くかあいまいにしてきたのは、中国を恐れていたとか中国に媚びていとかじゃなくて、そのあいまいさこそが抑止力だったからです。
これまで、せっかくその方針を守ってきたのに、米軍の艦隊が出動するという仮定で、そうなったときのこっちの手の内を明かしてどうするんですか。

発言の撤回はできませんよ。それは法的に可能な自衛隊の行動を規制することになってしまいますから。(本当に自衛隊が動くかどうかはともかく、動くかもしれないというのが抑止力なんです。)

高市さんの勇み足で、外務省はもちろん、防衛省の幹部らも困っていることでしょう。


中国をどう思うとか、アメリカをどう思うとか、高市早苗さんの考えや政治姿勢をどう思うとか、そういう話じゃなくて、あの発言は、客観的に言って、経済上、外交上、防衛上・・・、我が国にとって大損失なんです。

それって、総理大臣としてはもちろん、政治家として致命的じゃないですか。


高市早苗さん、あなたに愛国心があるなら、一刻も早く内閣総理大臣を辞任してください。
それが一番の国益です。

(伊藤一滴)

あいまいさこそが抑止力だったのに

台湾有事が我が国の「存立危機事態」になり得るという高市早苗総理の発言で、中国が怒ってます。
中国は総理の発言の撤回を求め、中国国民には「日本への渡航を自粛するように」「留学は慎重に」と言っています。
困ったことになりました。

中国を怒らせただけではありません。
台湾有事の際、我が国はこうすると明言してしまったら「手の内を読まれる」ことになります。「日本はこの場合ならこう動くだろう、この程度なら動かないだろう、だから我々はこうしよう」って、中国の軍事行動に利用される可能性だってあります。それは台湾有事抑止力の低下になるのです。
それもあって、歴代首相は台湾有事の際にどうするのかを明言してこなかったのでしょう。日本ははっきり言わない、日本がどう動くかわからない、そのあいまいさこそが抑止力だったんです。
一部の人たちが勘違いして騒いでいますが、中国に怯え、中国に媚びて、これまで明言してこなかったのではないのです。
「日本は断固たる態度に出ると表明したことで抑止力を向上させた」なんて言っている高市応援団もいますが、防衛上の手の内を読まれてしまって何が抑止力の向上ですか。百害あって一利なしです。

高市首相は、歴代首相が言わなかったこと、言ってはいけないことをはっきり言ってしまったんです。官僚が用意した答弁の原稿にはなく、アドリブだったようですね。あまりにも軽率と言うか、口が軽いと言うか。自分を応援してくれる右派へのリップサービスだったのかもしれませんが、ツケが大きすぎます。

高市発言は国益を大きく害しました。国防、外交、経済、その他、様々な面で大損失です。
ラジオのニュースで言ってましたけど、中国との対立が1年続けば経済的損失だけでも1兆円を越えるとのことでした。


中国にしてみれば台湾は中国の一部ですから、発言の撤回を求めて一切妥協しないでしょう。そして、高市さんの側は、発言の撤回は絶対にできません。もし発言を撤回したら、日本の防衛行動の制約になってしまいますから。

この問題を鎮静化させる道は一つしかありません。
高市さんが総理大臣を辞任することです。

年内かな?

(伊藤一滴)

高市さん、その発言はまずいですよ

11月7日の衆議院予算委員会で、立憲民主党の岡田克也氏から「台湾有事」について問われた際、高市早苗首相は中国の名を挙げて「状況次第で『存立危機事態』になり得る」と答弁してしまいました。

高市さん、その発言はまずいですよ。


「存立危機事態」とは、
「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」
のことだそうです。

その場合、日本が直接攻撃を受けていなくても自衛隊による武力行使が可能になります。

つまり、高市首相は「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」と言ったのと同じなんです。※

その発言、いくらなんでも、まずいですよ。
そういう発言はまずいと思わなかったのでしょうか?

法解釈を逸脱はしておらず、法的な理屈としては成り立つのかもしれません。
でもそれ、公の場で口にすることでしょうか?

それを言ったら中国が怒り出すと思わなかったのでしょうか?
思わなかったなら、あまりにも思慮が足りないですよ。
中国が怒るとわかっていてあえて言ったなら、そのあとどう収めるつもりだったのでしょう。どう収めるか考えもなく言ったなら、あまりにも軽率です。

どちらであれ、総理大臣が公に言うべきではなかったのです。

私は初めから高市早苗さんの資質を疑っていましたが、ボロが出始めたようです。

今、必死になって火消しに尽力している外務官僚たちが気の毒です。寝る時間、あるのかな。


ネットを見ていると、「高市さん、よく言ってくれた。中国に舐められないよう、強く出るべきだ」といった「意見」が一定数見られます。でも、アメリカも、ヨーロッパ諸国も、高市発言をフォローしてません。今や、中国経済や中国製品なしには、社会が成り立たなくなっているんです。誰も中国と対立したくないんです。強く出るなら出るで、それ相応の国力が必要なんです。実力が伴っていないのに、口だけ強く出たってねえ。
こんな調子だと、国際的に孤立してしまいますよ。なんか、アジア太平洋戦争に向かっていった過去の日本のような・・・。

「立憲民主党の岡田克也氏がしつこく質問したのが悪いのだ。中国とのトラブルの原因を作ったのは立憲だ」といった「意見」も見られます。
「赤い郵便ポストに気を取られて交通事故を起こしてしまった。郵便ポストが赤いのが悪いんだ」ですか?
「高い電信柱に気を取られて交通事故を起こしてしまった。電信柱が高いのが悪いんだ」ですか?
どんな質問を受けても、外交摩擦になるような返答をすべきではなかったのです。言うべきでないことを言ってしまったのは高市さんですよ。批判されるべきなのは高市さんなんです。何でこの件で立憲民主党が悪く言われないといけないんだか。

「個人の見解」のふりをして、高市岩盤支持グループが組織的に高市応援・立憲批判を書き込んでいるのでしょうか?

(伊藤一滴)

※補足します。

「わが国と密接な関係にある他国」とは、アメリカ合州国が念頭に置かれています。

「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、台湾はわが国と密接な関係にある他国に該当するので、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が中国軍を攻撃することは可能」
と言ったのではありません。

いくら右派の高市さんだってそこまでは言いませんよ。
そもそも日本政府は台湾を「国」とは認めてませんし。

高市さんが言おうとしたのは、
「もし中国軍が台湾に対して武力行使をしたならば、米軍の艦隊が出動することになるだろう。米艦が中国軍の攻撃を受けた場合は、日本が攻撃を受けていなくても自衛隊が米艦を守るために中国軍を攻撃することは可能」
という意味なのでしょう。

そういう意味であっても、言うべきではない発言でした。そもそも米軍の艦隊が出動するかどうかはアメリカが決めることであり、日本が想像して、その場合はこうなんて(たとえ思っていても)言うべきでなかったんです。トランプさん、口にしなくても心の中では「米軍の動きを勝手に想像して余計なことを言うなよ」って、むっとしてるかもしれませんよ。

問題になっている11月7日の衆議院予算委員会での高市総理の発言を原文のまま引用します。
ただし、冒頭のカッコ内は引用者の補足
太字も引用者による(スマホの場合、太字が表示されないことがあります)

「(昨年1月にワシントンで『中国が台湾に侵攻した場合には存立危機事態と日本政府が判断する可能性が極めて高い』と言った)麻生副総裁の発言については内閣総理大臣としてはコメントいたしませんが、ただ、あらゆる事態を想定しておく、最低、あ、最悪の事態を想定しておくということは、非常に重要だと思います。まあ、先ほど有事という言葉がございました。それは色んな形がありましょう。例えば台湾を統一、あの、完全に、まあ、中国北京政府の支配下に置くような、えー、ことの為にどのような手段を使うか、ま、それは単なる、ま、シーレーンの封鎖であるかもしれないし、武力行使であるかもしれないし、それから偽情報、サイバープロパガンダであるかもしれないし、それは、あの、色んなケースが考えらえれると思いますよ。だけれども、あの、それがやはり戦艦を使ってですね、そして、武力の行使もともなうものであれば、ま、これは、あのー、どう考えても存立危機事態になり得るケースであると私は考えます。実際に発生した事態の個別具体的な状況に応じて、政府が全ての情報を総合して判断するということでございます。もう実に、あの、武力攻撃が発生したら、ま、これは存立危機事態にあたる可能性が高いというものでございます。法律の条文通りであるかと思っております。」

たまきる

玉木雄一郎氏について、政治アナリストの伊藤惇夫氏の発言を引用します。

「(略)玉木さんは国民民主党と立憲民主党の連立協議を推し進め、日本維新の会も加えた野党統一候補として首班指名に臨めるよう尽力すべきだったと考えています」
「立憲民主党は首班指名で『玉木さんの名前でいい』と提案しました。これで玉木さんが首班指名で首相に選ばれる可能性が浮上したわけです。当たり前ですが、首相は日本における最高権力者です。首相の権限がどれほど強いかは、大臣を罷免することができることからも明らかでしょう。自分の意に沿わない大臣はクビにすることができるほどの権力を持っています。仮に立憲民主党と政策面で齟齬があったとしても、玉木さんが首相としてリーダーシップを発揮すればいいだけの話です。何より玉木さんが選挙で公約した政策を実現する一番の近道は首相になることです。玉木さんが首相になることは国民民主党に投票した有権者に対する最も誠実な態度だったはずなのです」
「(玉木氏は首相を務める)覚悟はあったかもしれませんが、やる気は感じられませんでした」カッコ内は引用者の補足
「私が知っている国会議員も『玉木さんのように首相になれるチャンスをみすみす逃す政治家は初めて見た』と驚いていました(以下略)」

出典:10/29(水) 6:12配信 デイリー新潮
https://news.yahoo.co.jp/articles/63529bb06e57199ee6358253aee29cfc31e0c7dc

上記の伊藤惇夫氏の発言に、全面的に賛成です。

別の方法ですが、玉木氏は日本維新の会が動く前に自民党と組み、大臣(うまくいけば総理大臣)になるチャンスだってあったんです。そのやり方でも自らの政策を実現する手段になったのです。(もっとも、それをやったら旧社会党のようになったかもしれませんけれど。)

氏はどちらのチャンスもみすみす逃しました。

政治家は何をしたかだけでなく、何をしなかったのかを問われるのです。
何を言ったかだけでなく、何を言わなかったのかを問われるのです。

実際にどうかだけでなく、「国民の目からどう見えるのか」が問われるのです。

このたびの玉木氏の言動は、「あと一歩のところまで行ったのに誰の目にも明らかな判断を誤った」、「優柔不断で、肝心な時に決断できなかった」、「あれこれと言い訳し、逃げ腰だった」と言われても仕方ありません。

(伊藤一滴)

高市、トランプ、参政党・・・、だいぶ前には・・・

今年9月の世論調査だと、自民党中心の政権よりも野党中心の政権を望む声が多数でした。だから、いよいよ政権交代か、と思ったのです。ところがまあ、例によってというか、野党は結束できず、高市内閣の誕生を許してしまいました。

このチャンスを逃す野党って、何とも情けないし、不甲斐ない。
何をやってるんだって、言いたくなりますね。

自民党と公明党なんて、かなり考えが違ってもずっと連立を組んでやってきたんですよ。それが、野党同士だと出来ない。反自民で一致結束することが出来ない。

政権を担うより、野党でいた方がラクチンなんですか? 特に、国民民主党さん。何ですか、あの逃げ腰の態度は。まあ、次の選挙で国民は評価を下すことでしょう。


高市早苗氏って、中身は安倍晋三なのか昭和のおっさんなのか、あの人が人気者になるとは思いませんでした。意外にも、若者に人気ですね。
その現実は、現実として、私も受け止めないと。

高市氏は自民党の安倍派(=裏金派)と関係が深く、中には統一協会との結びつきが深かった人もいます。しかも、彼女は、右派・タカ派として知られてきた人です。

高市内閣の支持率が6割を越える(調査によっては7割、8割)って、どうなっちゃたんでしょう。先月まで、野党中心の政権を望む声が多数だったのに、何とまあ、風向きの変化の速いこと。

日本史上初の女性首相が誕生した。彼女ならやってくれそうだ。政治が変わるんじゃないか、社会がよりよくなるんじゃないか、新しいことが始まるんじゃないか、っていう期待感ですかね。そういう雰囲気を醸し出す演出は見事ですね。

人を外観でどうこう言うべきではないのかもしれませんが、最近の高市さん、見た目の雰囲気も変わってきました。でもそれって、演出です。演出に乗せられてはいけない。政治家は中身です。

雰囲気はともかく、中身は旧態依然なんです。
せっかく岸田政権、石破政権で自民党がだいぶまともになってきたのに、逆戻り。

裏金議員、統一協会癒着議員たちが復権してきました。この古い人たちが、新しい政治や新しい社会の担い手になるとは全く思えません。
それに、高市氏のこれまでの右派・タカ派の主張を考えたら、今後が予想できます。

おそらく、

防衛優先。
それも軍事力による防衛であり、食糧安保といったことはあまり考えないようです。コメは減産だっていうし。

国民の権利の制限。

言論、報道、学問などへの介入。
テレビ局に対する「電波停止」まで言い出した人ですから。

ジェンダー平等への逆行。
夫婦別姓も女性天皇の可能性も遠ざかることでしょう。

近隣諸国との関係悪化。

戦前の美化。

外国人排斥。
外国人が鹿を蹴ったとか、真偽不明のことを言いだす人です。口では「外国人排斥」とは言わなくても、じわりじわりとやるのかな。

行きつく先は、戦前を思わせる権威主義的国家でしょうか。


威勢はいいですよ。動きも速い。でもその動きには、長期的な展望があるのでしょうか、実力が伴っているんでしょうか。
虚勢を張っていると言うか、今だけを見て実力以上に威勢のいいことを言う人が人気者になるのは、はっきり言って怖いです。
危ないですよ。政府も、国民も。

今の世に不満を抱えている人たちは、昭和のおっさん的なものを好むのですかね。
期待値が高いだけ、ほころびだしたら猛批判をくらうかもしれませんけど。


似てませんか。高市、トランプ、参政党・・・、だいぶ前にはナチス党。
書きながら思ったのですが、この文、リズムがいいんで、標語になりそうです。
標語みたいに、唱えますよ。
「高市、トランプ、参政党・・・、だいぶ前にはナチス党」

共通なのは国家主義的、右派的、権威主義的なところです。

一見、新しい時代が来るような期待を持たせて大衆を引き寄せる。
敵とは言えないものを「敵」にして、あの「敵」は悪者だ、「敵」のせいで悪いんだと思わせる。
あれかこれか、みたいに。
そうやって大衆を引き寄せる。

そんな手に乗っちゃ駄目なんだけど・・・。


自民党が議席を減らしたのは裏金議員・統一協会系議員の問題も大きいのに、高市さんと仲間たちは、まるで石破茂さんが悪いかのように話を持っていきました。

高市支持者にとっての悪者は、石破さんなどの自民党内の比較的リベラルな勢力。

トランプ支持者にとっての悪者は、アメリカの民主党。

参政党支持者にとっての悪者は、外国人および外国人の人権を守ろうとするリベラル勢力。

ナチス党支持者にとっての悪者は、ユダヤ人。

「あれが悪者だ」って、わかりやすい。


もう一回、言いますよ。

一見、新しい時代が来るような期待を持たせて大衆を引き寄せる。
敵とは言えないものを「敵」にして、あの「敵」は悪者だ、「敵」のせいで悪いんだと思わせる。
あれかこれか、みたいに。
そうやって大衆を引き寄せる。

そんな手に乗っちゃ駄目なんです。

(伊藤一滴)

高市首相とその仲間、支持者らは「自分たちの力に見合わない勇ましさを出すような」状態になっているのではないか

橋下徹さんが好きなわけではありませんが、橋下さんの次の言葉は図星ではないかと思いました。

「高市さん、高市さんを支持している熱烈な人たち、それから今、高市さんとタッグを組んでいる維新の国会議員グループ・・・、僕が感じているところでは、自分たちの力に見合わない勇ましさを出すようなところへの、僕は懸念を感じていますので、これは、これから有権者とメディアの方で行き過ぎないように、しっかりチェックしていくってことが必要だと思います」(2025.10.26 フジテレビ「日曜報道 THE PRIME」での橋下徹氏の発言、そのまま)

生放送での発言なのでしょう。そのまま文字にすると読みにくいので、意味が変わらないようにして読みやすく書くとこうなります。

「高市さん、高市さんを支持している熱烈な人たち、それから今、高市さんとタッグを組んでいる維新の国会議員グループについて、僕が感じているところでは、自分たちの力に見合わない勇ましさを出すようなところがあります。そこに、僕は懸念を感じていますので、これは、これから有権者とメディアの方で行き過ぎないように、しっかりチェックしていくってことが必要だと思います」
  

高市首相とその仲間、支持者らは「自分たちの力に見合わない勇ましさを出すような」状態になっているのではありませんか。

その、見かけの「勇ましさ」ゆえに、高い支持率を得ているのではありませんか。

日本の経済は停滞し、今後も不透明、円も安い、物価は上がるのに収入はあまり増えていない、未来の展望が見えない・・・。
ヒトラーを支持したドイツ国民のように、自信を失った国民(特に若年層)は、勇ましく見える政治家を支持したいのではありませんか。

高市首相とその仲間たちが「自分たちの力に見合わない勇ましさ」で難局に立ち向かって数々の問題を解決していけるとは思えません。しょせん、「自分たちの力に見合わない勇ましさ」です。どこかでボロを出す日が来るでしょう。少しほつれると、どんどんほつれが広がっていきそうです。そのときは、期待が大きかった分だけ、失意も大きくなることでしょう。

そう遠くない日に、その日が来るように思えます。

それまで、タカ位置内閣を、「有権者とメディアの方で行きすぎないように、しっかりチェックしていくってことが必要だと」私も思います。

(伊藤一滴)


おことわり
まず、「橋下徹さんが好きなわけではないけれど」と書いた通り、氏の見解には賛成できない点も多い。だが、上記に引用した発言に関して言えば、ずばり当たっていると思う。

高市早苗氏の2つの発言


9月22日の高市早苗氏の2つの発言を、我々は心に留めておいた方がよいでしょう。

自民党本部で開かれた演説会で、高市氏はこう発言しました。この演説会はNHKで放送されています。


その1
「奈良のシカを足で蹴り上げ、殴って怖がらせる人がいる。外国から観光に来て、日本人が大切にしているものを、わざと痛めつけようとする人がいるとすれば、何かが行き過ぎている」(高市早苗)

SNS上で、奈良公園でシカを蹴ったり殴ったりする男性の動画が拡散されたのは事実です。この動画は私も見ています。ひどいものです。でも、この動画の人が外国人どうか、見ただけではわかりません。

奈良県庁で奈良公園を所管する部署の担当者は「動画の人物が誰か、外国人であるかどうかは特定されていない」と語っています。


その2
外国人が日本で犯罪を犯して逮捕された場合「警察でも通訳の手配が間に合わないから、逮捕はしても、この勾留期間が来てですね、期限が来て、不起訴にせざるをえないとか、よく聞きます」(高市早苗)

警察も検察もそのような事実はないと答えています。ネットに流れる不正確な話が高市氏の頭にあったようです。


これら2つの発言は陰謀論レベルのフェイクです。
根拠不明の話を連発して外国人を貶める人物が我が国の総理大臣にふさわしいのかどうか、考えてみればいいでしょう。

高市氏はこれらの発言をうやむやにするのでしょうか。そのうち国民は忘れるだろうと舐めてかかっているのでしょうか。

まあ、いずれ結果は出るでしょう。

(伊藤一滴)

信仰の根拠は聖書のみ? その歴史的考察(3) ルターにとっての旧約聖書とアポクリファ

マルティン・ルターは旧約聖書についてどう考えていたのだろうか。また何故にアポクリファ(旧約聖書続編)は正典に含まれないとしたのだろうか。
彼の旧約聖書観と、アポクリファに対する立場を考えてみる。

1.ルターの旧約聖書観
簡潔にまとめればこうなる。
ルターは旧約聖書もまた神の御言葉であるとし、旧約はキリストを指し示し、キリストにおいて成就する神の救いを証言しているものと考えた。
彼にとって、旧約聖書はすでに効力を失った過去の教えではなく、福音を理解するための前提であった。ただし彼は、律法と「行ないによる義」とを結びつける解釈を拒み、旧約もまた「信仰による義」を教えているとした。
ルターは、旧約聖書はキリストに至るものとして読むべきであり、そういう読み方をしないと律法主義に陥るおそれがあると考えた。

2.ルターにとってのアポクリファ
1534年のルター訳ドイツ語聖書ではアポクリファ(旧約聖書続編)の部分は正典と見なされていない。ただしルターは価値のある文書と認めて翻訳し、旧約と新約の間に挟んでいる。RSV with ApocryphaやNRSV with Apocrypha、日本の新共同訳や聖書協会共同訳の旧約聖書続編付きのような形である。

ルターがアポクリファを正典から除外した理由として、以下の3つが挙げられるが、これらはどれも口実であって真の理由ではないと私は考えている。

1.ヘブライ語正典がない

2.新約聖書の中で、イエスや使徒が引用している例がない

3.教義の根拠にできない

1について言えば、アポクリファの中には、もともとはヘブライ語で書かれた文書もある。

2にしても、ルターが認めた旧約正典39巻のすべての文書をイエスや使徒が引用しているわけではない。
新約聖書には、そのままの引用ではないにしても、明らかにアポクリファを意識した記述がある。また、新約聖書のユダの手紙には偽典からの引用まである(※)。
新約聖書の執筆者らが、旧約39巻だけでなくアポクリファや偽典も読んでいたのは間違いない。しかも、それが正典なのか正典外なのかの区別をしていない。

3は、理屈のつけようによって何とでも言える。

※:ヨハネ福音書はシラ書24章21節を意識し、言葉をひっくり返している。ヘブル書11:35は2マカバイ7章も意識して書かれている。ローマ書1章は知恵の書13~14章の影響を受けている。ヤコブ書1~5章はシラ書の見解とかなりの類似性が見られる。
また、ユダ書 1:14~15は偽典の2エノク書 1:9からの引用である。


考えてみれば、なぜキリスト教の正典をユダヤ教に合わせないといけないのだろう。
イエスや使徒たちが生きて活動していた時代にマソラ本文が使われていたなら話は別だが、当時マソラ本文なんてなかった。ユダヤ教徒によるマソラ本文の確定はなんと9~10世紀頃だ。そして現存する最古の写本は11世紀のレニングラート写本だ。

イエスや使徒の時代、正典(旧約聖書)の範囲は明確に定められていなかった。
新約聖書の中には旧約からの引用も多数あるが、正典目録(正典の範囲を示す一覧表)はない。
新約に引用された旧約の約8割は七十人訳ギリシャ語聖書からの引用であり、ヘブライ聖書からの引用ではない。七十人訳はヘブライ聖書とニュアンスの異なる箇所も多い。

ユダヤ教のファリサイ派を中心とした学者らによってヘブライ聖書の正典39巻が定められたのは西暦90年代になってからである。(当時の文書の分け方では39巻ではなかったが、内容は同じだから39巻と書く。)
当時のキリスト教徒はこの正典の決定に加わっていないし、これに合意もしていない。
キリスト教徒は、ユダヤ教徒の正典決定など無視して、七十人訳を使い続けていた。七十人訳にはアポクリファも含まれ、それが正典か外典か何も区別されていない。当然、これを使っていたキリスト教徒にとってアポクリファも含めて旧約聖書だった。
その後、キリスト教においてラテン語訳の聖書が主流になるが、これにもアポクリファが含まれている。アポクリファはユダヤ教徒が除外してもキリスト教徒によって受け継がれた。そしてアポクリファを含む旧約聖書が用いられたまま宗教改革を迎えるのである。

となると、ルターがアポクリファを正典から外した理由は、理屈が通らなくなる。

ルターの真の目的は「第二マカバイ記」を正典から外すことだったのではないか、と私は考えている。(マカバイの名は、マカベア、マカビー等と記されることもあり、統一されていない。)
第二マカバイ記だけを除外する適当な理由がないため、ユダヤ教のマソラ本文にない文書をすべて旧約正典から外し、上記のような理由を後付けしたのではないだろうか。
そのように広く言われているわけではないから、私の想像であるが・・・。

第二マカバイ記はプロテスタントの正典(聖書66巻)にない文書なので、あまりなじみのない方もおられるだろうから、簡単に紹介しておく(※)。

※日本語訳では、古くから聖公会版があった。新共同訳が出る前、私はこれで読んだ。
フランシスコ会訳などのカトリックの旧約聖書、および旧約聖書続編付きと書いてある共同訳の聖書には載っている。

これはギリシア語で書かれた古代ユダヤ教の文書の一つである。マカバイ戦争(紀元前2世紀)の時代のことが書いてあり、旧約と新約をつなぐ文書の一つと言える。
かなり残酷な殉教の場面も出てきて、殉教者が称賛される。第7章の「七人の兄弟と母の殉教」の箇所など、豚肉を食べることを拒否して殺されていく人たちの話だが、豚肉禁止の習慣のない私としては、そこまでする必要があるのかと思ってしまった。時代背景が今とまるで違う。当時は豚肉を食べることは神ヤーウェへの信仰を捨てることと同じだったのだろう。小説「沈黙」に出てくる踏絵みたいだと思った。
神の摂理と復活の希望が語られ、罪あるままに死んだ人のための祈り、つまり「死者のための祈り」が出てくる。この「死者のための祈り」をルターは認めたくなかったのだろう。
現代ならば、私は、純粋な「死者のための祈り」が問題だとは思わない。むしろ、人として当然の感情ではないかとさえ思う。「死後の魂は神の裁きを受けるのであり、生者の祈りによって状態が変わることはない」とする見解を知らないわけではないが、残された側の思いの表明として死者のために祈りたいと思うのは当然ではないかと思うのである。
それに、「神様が決めたことに対して人間がどうこう言ったって無意味だ」などと言い出したら、この世界で起きているすべての現象は「神様が決めたこと」または「神様が認めたこと」だから、「人間の祈りはすべて無意味だ」となりはしないか。
生者の祈りによって状態が変わることがあるのか、ないのか、そんなことが生身の人間に断定できるのだろうかと思えてくる。
祈りとは、祈る側の思いの表明だ。何に感謝し、何を讃え、何を求め、何を願うのか。自分はどうありたいと願うのか、世はどうあるべきだと願うのか。そうした思いの表明なのだ。だから、たとえ神が存在しなくとも祈ることには意味があるという話になる。
今でも、「死者のための祈り」の是非はプロテスタントでは微妙なのだろうが、カトリックの人にこうした話をしたら、死者のために祈るのは当然という感じで、新旧両派の意識の違いを感じた。
私自身は、「死者のための祈り」を認めるべきだという考えである。
ところがこれが、「あなたが亡くなったら教会はあなたのために祈るから、生きているうちにお金を払っておきなさい」となると、話が違ってくる。自分の死後、教会にちゃんと祈ってもらわないと煉獄で大変苦しむことになるから、今のうちにお金を払っておこうとなる。
死後の不安を煽って信者を脅すことで教会が収入を得る。これは中世末の教会の堕落である。死後の苦しみの軽減になると思わせ、「祈り」を販売したのだ。贖宥状(免罪符)の販売と並ぶ当時の教会の堕落である。
カトリックはこうした過去の問題を改めてきた。むしろ現代の自称「福音派」が中世末のカトリックと似ていて、悪い意味でカトリック化している。「福音派」は煉獄の苦しみとは言わないが、死後の不安を煽り続けることで「教会」から離れられないようにして金銭や労力を搾取し続ける。カトリックの良い部分は受け継がず、悪い部分はしっかり受け継いでいる。教派や時代が違っても、堕落した宗教は似てくるものだ。

ルターは「死者のための祈り」を金儲けの手段に使うことが許せなかった。
彼は「死者のための祈り」も「煉獄の存在」も否定した。根拠に使われそうな第二マカバイ記を正典から外したかったが、第二マカバイ記だけを外す適当な理由がなく、アポクリファを全部外してしまった。アポクリファを正典から外す理由をいろいろ挙げているが、それらは口実なのだろう。
以上、私の想像であるが。

だとすると、「死者のための祈り」を金儲けの手段に使わないのであれば死者のために祈るのもアポクリファも認められることになるのではないか。

そのように考えると、旧約正典の範囲がはっきりしなくなる。(もともと宗教改革以前ははっきりしなかったのだ。)
範囲がはっきりしていないのに、「信仰の根拠は聖書のみ」とは言えなくなる。

これも私が「信仰の根拠は聖書のみ」とは言えないと考える理由である。

(伊藤一滴)


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信仰の根拠は聖書のみ? その歴史的考察(2) 新約聖書成立以前の信仰

(こちらを先に読んでもわかるように書いたので(1)と重複箇所があります。ご了承願います。)

宗教改革者ルターは現代の保守的福音派などが主張するような「聖書66巻すべてが一言一句誤りのない神の御言葉である」という立場ではなかった。ルターも、聖書は神の御言葉と考えていたようだが、聖書のすべての文書が同じ重みを持つと見なしてはいなかった。

彼は、キリストをどれだけ明確に証言するかを評価の基準とし、新約聖書のヨハネ福音書、ローマ書、ガラテヤ書、1ペトロ書を最高のものとした。他の文書も役立つが、キリストを証しする度合いがこれらよりは低いとみて、重要度に差をつけた。そして、ヤコブ書、ユダ書、ヘブル書、黙示録は、キリストを十分に証ししていないとして、削除まではしなかったものの、低く評価し、正典性を疑問視さえした。初期のルター訳聖書ではこれら4書は付録の扱いだったという。

ルターにとって聖書の重要性は文字の一貫した無誤無謬性にあるのではなく、キリストを示す証言性にあった。彼は「聖書はキリストのゆりかごである」と言ったと伝えられる。聖書は、中にキリストが入っているかいばおけ(まぶね)なのだ。かいばおけは器に過ぎないのに、この器ばかりを重視して、中のキリストをよく見ようとしない人たちが現代でもいる。正統的プロテスタント教会を称しながら、ルターの考え方に学んでいない人たちである。

ではルターは、新約聖書27巻がそろう以前の信仰の根拠をどう考えていたのだろう。
歴史を考えれば、何もないところに聖書が与えられて信仰が成立したのではない。信仰が先である。キリスト教の信仰は新約聖書の成立以前からあった。

ルターは「聖書のみ(sola scriptura)」を唱えたが、それは「神の啓示の唯一の形は聖書だけ」という意味ではなく、「信仰の基準は人間の教えや教皇の権威ではなく、聖書が証しするキリストであり、キリストの福音による神の御言葉である」という意味に解すべきだろう。彼は、新約正典が確立する以前も、キリストの福音による神の御言葉は伝えられていたと考えていた。

権威ある文書として、旧約聖書があった。
初期には使徒たちの口頭による宣教があった。
使徒たちの没後も教会は教えを受け継いでいた。

教会が神の御言葉を生み出したのではなく、神の御言葉を見分けて新約聖書を確立した、ということになる。
ルターにとって重要なのは27巻の文書がいつ出そろったのかではなく、キリストの福音による神の御言葉は、27巻の文書がそろう以前から人々に告げ知らされていたという事実であった。

だが、ここで疑問が生じる。初期には使徒たちの口頭による宣教があり、使徒たちの没後は教会が教えを受け継いできたのなら、受け継がれた教えは聖伝(Tradition)ではないのか。「信仰の根拠は聖書のみ」なら、カルタゴ会議(397年)以前をどう考えればいいのか。新約聖書27巻の文書がカルタゴ会議で正典と認められる以前は、聖伝も信仰の根拠だったのか。「信仰の根拠は聖書のみ」となったのは397年からで、それ以前は「聖書と聖伝」が信仰の根拠だったのか。
このあたりに、プロテスタントの理論の限界があるのではないかと思う。この疑問に対し、私は今まで納得のいく説明を聞いたことがない。

「後に新約に収められる文書は、かなり早い段階から存在していました」と言って、「信仰の根拠は聖書のみ」と説明しようとした人もいたが、初期にはそれらの文書は新約聖書と認められていなかった。つまり、受け継がれて朗読されていたとしても、正典文書と認められる以前は紙に記された一種の聖伝だった。
それに、初期の教会には信仰上の文書が多数存在していた。その中のどれを正典とし、どれを外典とするのか、誰が何の権限でそれを決めるのか、何も決まっていなかったのだ。

やはり私は、「信仰の根拠は聖書のみ」という主張では、新約聖書成立以前の信仰の根拠について説明がつかなくなると思うのである。

それに、そもそも「信仰の根拠は聖書のみ」という言葉はイエスの教えにない。これは、宗教改革の時代に掲げられた時代的な主張である。この言葉をイエスの言葉と同列に置くわけにはいかない。
どこまでも「信仰の根拠は聖書のみ」として聖書信仰を主張するなら、新約聖書が確立する以前には、世の中に正しい信仰はなかったということになってしまう。
私は、今日において、「信仰の根拠は聖書のみ」という主張を見直す勇気が必要なのではないかと考えている。

(伊藤一滴)


付記:初期の教会には信仰上の文書が多数存在していた。ご参考までウィキペデアの「外典」の項に載っていた文書名を挙げておく。
これら以外にも初期の教会で用いられていた信仰上の文書には、歴史の中で忘れられ失われたものや、未発見のものもかなりあるだろう。

パウロ行伝
ペトロ行伝
パウロ・テクラ行伝
ペトロの黙示録
パウロの黙示録
ディダケー(十二使徒の教え)
バルナバの手紙(バルナバ書)
クレメントのコリントの信徒への手紙
イエス・キリストとエデッサ王アブガルスの手紙
使徒パウロのラオディキアの信徒とセネカへの手紙
イグナティオスとポリカルポスの手紙
エジプト人による福音
ユダヤ人による福音
ユダによる福音書
ニコデモによる福音書 (ピラト行伝)
ペトロによる福音書(ペテロ福音書)
救い主による福音
ヤコブによる原福音 (ヤコブ原福音)
トマスによるイエスの幼時物語
トマスによる福音書
マタイによるイエスの幼時福音
マルコによるイエスの幼時福音
アラビア語によるイエスの幼時福音
マリアによる福音書(マグダラのマリア福音書)
フィリポによる福音書
ヘルマスの牧者
イエス・キリストの叡智
シビュラの託宣

後に新約聖書となる27巻の文書も一冊本になっておらず(技術的にも不可能だった)、各巻分冊で、これらと混じっていた。3世紀までの写本はコデックス(パピルスを重ねて2つ折りにして真ん中を綴じた冊子)が普通だったから、厚い本は作れなかった。また、どの教会にもこうした文書がそろっていたわけではなく、地域により、指導者により、用いる文書が違っていた。後に正典となる27巻の文書にしても、どの教会にもあったというわけではなく、正典か外典かの区別がないまま混在し、教会によって用いる文書が違っていた。
特に「ヘルマスの牧者」などは各地の教会で広く用いられており、有力な文書であった。一方、ヤコブ書、ユダ書、ヘブル書、黙示録は、ルターが気づいていた通り、使徒性(正典性)を認めない意見も多かった。他にも、2ペトロ書、2ヨハネ書、3ヨハネ書の正典性を疑問視する声もあった。

新約聖書27巻が確立する以前の一般のキリスト信者はもちろん、教会の指導者たちだって、多数の信仰上の文書のうちのどれを正典とすべきか見分けがついていたとは思えない。そもそも新約正典が存在するという認識、新約正典という概念さえ、どの程度あったのかもわからない。

今日、ほとんどの人は、「キリスト教は聖書というゆるぎない正典を持つ宗教である」と思っている。しかし、キリスト教の初期においては、明確な正典の範囲が定まっていなかったのだ。

カルタゴ会議で27巻の文書が認められてから千年以上経った宗教改革の時代でさえ、ルターはヤコブ書、ユダ書、ヘブル書、黙示録の使徒性を疑問視していた。

それでも「信仰の根拠は聖書のみ」と言えるのだろうか。


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信仰の根拠は聖書のみ? その歴史的考察(1) ルターにとっての新約聖書

宗教改革を受け継ぐプロテスタントは今日でも基本的に「信仰の根拠は聖書のみ」を掲げている。
日本においても、たとえば日本基督教団の信仰告白にこうある。
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」
信仰の根拠を聖書のみとする主張はマルティン・ルター(Martin Luther 1483–1546)に由来する。「信仰の根拠は聖書のみ(sola scriptura)」と主張したルターは、新約聖書の諸文書はどのように成立し正典化されたのか、どの程度理解していたのだろう。

ルターは、アウグスティヌス会の修道司祭であり、神学者であり、協力者がいたとはいえ聖書をドイツ語に訳すほどの実力があった人物である。神学教授でもあったルターは、ヒエロニムス、アウグスティヌス、エウセビオスなどの著書を通じ、「初期の教会においてどの文書を新約正典とするのか議論されていた」ことや「新約聖書が確立する以前も、使徒の時代から受け継がれてきたとされる使徒的文書が教会で用いられていた」といった知識を有していたろうし、「新約聖書27巻がまとまったものとして一気に人類に与えられたのではない」こと、「27巻の文書が最終的にカルタゴ会議(397年)で新約正典と確認された」ことなども知っていたと思われる。

今日、「聖書66巻は一字一句に至るまで神の霊感によって書かれた誤りなき神の御言葉です」という主張がある。保守的福音派および自称「福音派」などの主張である。この主張は、19世紀~20世紀初頭の近代主義への反発の中で言われ出したものであり、ルターに由来するものではない。
ルターは新約聖書27巻のそれぞれの文書を同等とは考えていなかった。27巻が確定する以前に、有力な正典候補とあまり有力でないものがあったことをルターは知っていた。ルターは、新約が形成されていった過程があり、やがて27巻の文書が正典と認められたと理解していた。ルターには、すでに近代的な聖書批評学の萌芽があったとも言えるのである。

ルターが言った「信仰の根拠は聖書のみ」は、聖書の文書はみな等しいという意味ではなく、「聖書が証しするキリストによる神の御言葉こそが信仰の根拠」という意味に解すべきであろう。
ルターは、キリストを強く証言する文書として、ヨハネ福音書、ローマ書、ガラテヤ書、1ペトロ書を挙げ、これらの文書を聖書の中心と見なしている。古代において正典性に疑義があったヤコブ書、ユダ書、ヘブル書、黙示録を疑わしい書(Antilegomena)とし、この4書は、1522年版のルター訳ドイツ語聖書では一応これらも載せておくという付録の扱いだったという。
黙示録をことさら重視し、終末のときにはああなるだのこうなるだのと熱心な保守的福音派や自称「福音派」とはかなり違う。

今日の保守的福音派などからすれば、「ルターは十全霊感を認めず部分的霊感説を信じていた」「だから間違った信仰だ」ということになる。そして、その間違った信仰を受け継ぐのが自分たちだ、ということになる。

ルターは正典成立史をある程度までは理解しており、歴史的に議論があった書については慎重な扱いであった。彼は各文書の同等の価値を認めておらず、自分の神学的原則によってキリストを強く証言する文書を優先し、新約聖書内部で文書の格付けをした。
実際、ルターが疑わしい書としたヤコブ書、ユダ書、ヘブル書、黙示録は、どれも後代に書かれた文書であり、使徒やイエスの兄弟に由来するものではない。ヨハネ福音書や1ペトロ書も使徒ヨハネや使徒ペトロの作ではないが、ルターがそこまで見抜けなかったのは時代の制約と言うべきだろう。
ルターは、今日の保守的福音派や自称「福音派」とはかなり違う。むしろ自由主義神学やリベラル派に近いとさえ言える。ルドルフ・ブルトマンがルター派の出身なのもうなずける。
(続く)

(伊藤一滴)


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創作・田川建三先生のための祈り

あるプロテスタントのクリスチャンが田川建三先生を思って祈りを捧げました。


憐れみ深い天の父よ。

あなたがこの世からお召しになった田川建三先生を思い、祈ります。
田川先生は新約学研究に生涯を捧げられ、数多くの人を聖書に導いてくださいました。私も先生の著書から導かれた者の一人です。
もし、私が田川先生の著書に出会わなかったなら、聖書の教えは過去の時代のものであり現代の世界には対応していないと考え、聖書からもキリスト教からも離れていたかもしれません。田川先生の見解は、私が離れてゆくのを思いとどまらせてくれました。

キリストにあるすべての者の復活を約束された主よ。あなたを信じて祈ります。
あなたの慈しみのうちに田川先生を安らかに憩わせ、永遠の命へと導いてください。

主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。


別のクリスチャンも祈りました。


愛する天のお父様。

私の人生の大切な時期に、田川建三先生との出会いを与えてくださったことを感謝します。
先生は私に知識を教えてくださっただけでなく、人生を歩む力や勇気を与えてくださいました。
その言葉や姿勢は、今も私の心に生きています。

主よ、あなたがお召しになった田川先生を思い、祈ります。
地上での歩みを終え、すべての労苦から解き放たれた先生が、あなたの光のもとで永遠の平和と喜びのうちに安らかに憩うことができますように。

また私自身も、先生からいただいた教えや励ましを、これからの歩みの中で生かしていくことができますように。そしてこの恵みを、周りの人々に伝えていくことができますように。

主キリストによって。アーメン。


二人の祈りを聞いていた「福音派」のクリスチャンが言いました。
「あなた方はプロテスタントでしょ。死者のために祈っていいんですか? 死者のための祈りには聖書的根拠がありません。それは間違った信仰です」

一人が答えて言いました。
「カトリックにも、正教会にも、プロテスタントである聖公会にも死者を思う祈りはあります。亡くなった人を思って祈るのは人として当然の感情で、否定すべきではないと思います。それに、聖書のどこにも死者を思う祈りを禁じる箇所はありません」
もう一人の人が言いました。
「天国に教派なんてありませんよ」

「福音派」の人が言いました。
「あなた方は間違っています。田川建三は異端者です。あなた方も聖書批評学や自由主義神学に毒され、異端の影響を受けているようです。異端者にはいかなる救いもありません。間違った信仰を離れ、正しい信仰に立ち返るべきです」

一人が答えて言いました。
「自分と同じ教会に属する人がその教会の教義と違うことを言いだしたら異端かもしれませんが、自分の所属教会の外の人に対して異端認定なんて出来るんですか?」
もう一人が言いました。
「キリスト教は多くの教派に分かれています。教派に分かれているというのは教義や神学に何か違いがあるからです。もし完全に一致しているなら、組織が合同して一つの教派になるでしょう。そうならないくらい違いがあるのです。自分とは教義や神学が違うから異端だと言うのなら、自分の所属教派以外のクリスチャンはすべて異端派だということになりませんか」 

(伊藤一滴)

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創作・あるクリスチャンの祈り

あるクリスチャンが祈りを捧げました。


主よ、

今から四十年ほど前、学生だった二十代の私は、原理主義的な考え方にとらわれている兄弟姉妹たちに出会いました。
それは、聖書の表面的な文字づらを重視し、現代の科学も史学も聖書学も受け入れない人たちでした。新約聖書の御言葉まで律法のように使って、規則や禁止事項でがんじがらめになっているように見えました。その姿は、新約聖書が教えている「律法主義の克服」と方向が逆だと思いました。また、社会や政治の問題への関与を否定する姿勢や、誠実に生きている他の教派や他の宗教の信者を下に見るような言葉の数々に、時に腹を立て、時に心を痛めました。私は説得を試みましたが、かないませんでした。

筋道を立てて理論的に説明すれば分かってもらえるだろう思い、努力しました。でも、彼らはかたくなになるだけで、対話の努力が通じませんでした。私は苛立ち、しまいには喧嘩腰になっていました。
そのときは熱心に説得を試みたつもりでしたが、若かった私は、愛と忍耐が足りず、うまく対話することができませんでした。そして、互いに心が閉ざされてしまいました。

どうか、彼らが、御言葉の本当の光に出会い、キリストの愛と恵みの広さを知ることができますように。
また、私自身も過去の至らなさから学び、人を責めるのではなく、その人の置かれた立場を理解するよう努め、あなたの平和の道具として歩むことができますように。

主よ、至らなかった私が、今も心に感じる痛みを受けとめてください。
それをあなたの御手の中で、愛と忍耐を持って人に接する態度へと変え、私を進ませてください。
主よ、私はここにおります。あなたのため、用いてください。

主イエス・キリストの御名によって、この祈りをみ前に捧げます。

アーメン。


この祈りを捧げた人はエキュメニストでした。
エキュメニストとは、キリスト教の諸教派の一致や協力および非キリスト教徒との対話を目ざすエキュメニズムを推進しようとする人のことです。

誤解があるようですが、エキュメニズムは単純にキリスト教の諸教派を一つに統合しようとするものではなく、それぞれの多様性を認めながら、キリスト教徒としての一致を目ざすものです。

祈りの後、この人は言いました。
「天国に教派なんてありませんよ」

(伊藤一滴)

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「神様なんていませんよ」 田川建三さんにお会いしたときのこと(改訂版)

(田川建三氏は2025年2月19日、気管支肺炎のため群馬県の病院で逝去されました。享年89歳。葬儀は近親者で行われたとのことです。出版社の作品社が8月13日に発表し、新聞等で報じられました。追悼の思いを込めて、以前書いた文章を手直ししてここに載せます。)


田川建三さんにお会いしたのは1994年5月20日でした。
著書『イエスという男』にサインをお願いしたら、几帳面な田川さんが日付まで書いてくれたので、その日だとわかります。

当時、私は建築を学んでいて、東京の高田馬場に住んでいました。
西早稲田の大学本部キャンパスで田川さんの講演会があると知り、あの田川建三の話を直に聞けるのかと、うれしくて、知り合いの学生らと講演会に行ったのです。(※1)
講演の内容は、宗教カルトの問題で、キリスト教を装うカルトが各地の大学で活動していることへの注意の呼びかけが主でした。ご専門の新約聖書の話もしながら、カルト団体が聖書学的に成り立たない解釈をしているという話もしてくださいました。

講演が終わり、「本日の講師、田川建三さんとお話がしたい方はこの場にお残りください」とアナウンスが流れました。十数名の学生が残りました。私も残りました。

当時、田川建三氏は、まだ、著書などで自分の生い立ちを明らかにしていませんでした。私は、ぜひ聞きたかったので質問しました。
「田川先生、先生はクリスチャンホームのご出身ですか?」
初対面の人にいきなりそんなことを聞くのはどうかと思ったのですが、私は聞きたかったのです。
田川さんは私の方を見て言いました。
「母は信者でした。・・・・父は違いますが。」
そして私から目をそらし、宙を見ながら独り言のように言いました。
「神様なんて、いませんよ」

私は神様がいるかどうかを田川さんに聞いたのではなく、クリスチャンの家に生まれたのかどうかを聞いたのに。
それに神が存在するか否かは、神をどう定義するのかにもよるでしょう。でも、そもそも神って、人間の能力で定義できるのでしょうか。人間の思考の範囲内に収まる存在なのでしょうか。

そんなことを思いながら、いくつか質問をしました。

田川さんは、私がいろいろ聞くと、ていねいに答えてくださいました。「ケンカ田川」なんて言われる人だから、ちょっと、怖かったんです。恩師の前田護郎には批判的だし(※2)、八木誠一さんともあまり仲が良くないようだし、荒井献さんらを厳しく非難しているし・・・・。
でも、一般の人にはていねいに答えてくれる人でした。文系の学生たちが的外れなことを聞くのはちょっとまいりましたけど。彼らは、うんと文系の受験勉強をしているから、広く歴史一般に詳しいのですが、聖書学や原始キリスト教史のことはあまり知らないようでした。

「マルコ福音書注解の中巻や下巻の刊行はいつごろになりそうですか?」と聞いたら、
「中巻はほぼ出来ているので数年のうちに出せると思います。下巻もだいぶ進んでいるので、中巻を出したらまもなく出せるでしょう」なんて言ってたんですが、あれから30年以上たって、数年のうちと言っていた中巻もまだ出てません。(※3)

話込んでいるうちに会場の使用時間が来てしまい、会場の外で暗くなるまで話をしました。場所を変えてもう少しお話ししましょうということになり、田川建三さんと私と数名の学生で、西早稲田から高田馬場駅前まで、夜の道を歩きました。私は田川さんのすぐ隣を歩きました。歩きながらでも、少しでもお話ししたいという思いもありました。それと、田川さんは、宗教批判もするし政治的な発言もするんで、敵も多いだろうと思い、万が一にでも、暗がりから暴漢が襲いかかってきたりしたら、私は自分の身を盾にして守るつもりでした。本気でした。田川建三を失ったら、新約学研究にとってどれほどのマイナスになることか、たとえ自分が刺されようが斬られようが、身を挺して田川さんを守ろうと、あのとき、本気で思いながら歩きました。

駅前の飲食店で食事をしながら話しました。少しお酒も飲みました。天下の田川建三と飲む日が来るとは思いませんでした。
私は、当時、田川さんの日本語の著書は全部読んでいましたし(※4)、お聞きしたいこともいろいろあったので、とにかく、いろいろな話をしました。飲食店に入ってからの会話はあまり覚えていないのですが、聞いてもいないのに、田川さんは、「神様なんていませんよ」って、3回か4回、あるいはもっと言っていたんじゃないかと思います。

自分たちのことを正統だの福音的だのと言いながら、平気で人を虐待する自称「教会」や、カルト化した「教会」が言う意味での「神様」なんていないのは、私も知っています。そんなのは、人が勝手に聖書をこねくり回して頭の中で創り出した神様ですから。つまり偶像ですから。でも、たとえばマザーテレサが本気で信じていた神様もいないのかと問われたら、私は、いないとは言えません。
そんな話をしたのかもしれません。田川さんは、「第二バチカン公会議があってカトリックも変わりましたね」みたいなことを言ってました。あとは詳しく覚えていません。

一番頭に残っているのは、「神様なんていませんよ」って、田川さんが何度も言っていたことです。
それが、田川建三という人なのでしょう。


追記

田川先生、『新約聖書概論』がまだですよ。
新約聖書の全訳註をお出しになったのだって、『新約聖書概論』を読んでもらうためには新約聖書の正確な訳が必要だからだったはず。訳と註、けっこうな値段でしたけど、全巻買いましたよ。
前提となる訳と註だけ出して概論を出さないなんて、そんなのありですか? この「訳と註」の註には「詳しくは概論で」と書いてある箇所がかなりあるのに、その概論を出さないまま死んじゃうなんて、ちょっと待ってよと言いたいです。 
著作権継承者の方。『新約聖書概論』のための膨大な草稿があるでしょうから、専門家に整理してもらった上で刊行してもらえませんか。
(それができる「専門家」は限られるでしょうけど。荒井献先生の弟子や孫弟子は嫌がるだろうし。)

赤岩栄先生の雑誌「指」を受け継いでくださったのはよかったのですが、2年間休刊と言いながら廃刊じゃないですか。しかも前納の購読料がうやむやになってます。私も前金で払ったんで、被害者です。(数千円、被害に遭ったかな。)

荒井献先生、佐竹明先生も召されて行って、今度は田川建三先生ですか・・・。そういう年代なんですね。


※1
私は大学生ではありませんでしたが、大学の学生たちとつき合いがありました。西早稲田の1号館に大学本部があったので当時は「本部キャンパス」と呼ばれていました。学生はこれ略して「本キャン」と呼んでいました。現在は「西早稲田キャンパス」という名前になっています。

※2
あとから出た『はじめて読む聖書』などによると、田川さんが東京大学西洋古典学科に在籍中に、担当の前田護郎教授に「新約学を専攻したい」と進路相談に行ったら、顔を見ようともしないで「何しに来た」みたいな態度で「佐竹明君に聞きたまえ」くらいしか言ってくれなかったんだそうです。田川建三氏側の言い分だけですけど、書いてあることがその通りならアカハラですし、職務放棄ですね。そんなんで大学から給料をもらっていいのかって思います。前田護郎と言えばやや保守的で誠実なクリスチャンのイメージですが、これが本当なら、学生(の一部?)にはずいぶんひどい態度だったんですね。

※3
上巻だけ出して中巻と下巻は出版しないって、そんなのあり? 
「原稿に書いたことと考えが変わったから中と下は出さない」のなら、上巻を絶版にして全部書き直すのが筋でしょう。
佐竹明先生はご自分の担当分は全部出しましたよ。荒井献先生だって、だいぶ時間はかかったけど使徒行伝注解を完成させてます。
中巻・下巻の原稿はほぼ出来ているんでしょう。著作権継承者の方は、ぜひ、中巻・下巻を出版してください。お願いします。もちろん買います。

※4
単行本として刊行された本です。雑誌や研究紀要などにお書きになったもので単行本に入っていない文章までは読んでないです。そこまで田川マニアじゃないです。

(伊藤一滴)

2018-07-31掲載分を改訂


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人間の側からの神への協力を否定する「クリスチャン」(再掲)

『いま、わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている』(コロサイ1:24)

この箇所をキーボードで打ち込みながら、私は、若い頃に言われたことを思い出した。

20代だった私は「万物の創造は神の一方的な御業だが、神の国の到来は神と人との協力によるものだ」と考えていた。実は諸説あるのだが、当時はそう思っていたからそう言ったら、「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」たちから、もの凄く叱られた。
「何を言っているのですか! 人間が神様に協力できることなど何もありません! 人はみな罪人(つみびと)であり、地のちりに等しいのです! 天地創造も神の国の到来も、ただ神様の御業であって、人間の協力など一切必要ないのです!」
と、凄い剣幕だった。

私を叱りつけた「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」(原理主義者、あるいはカルト信者だろう)たちは、コロサイ書にある上記の言葉を知らなかったのだろうか。
彼らは「正統」を称するから、キリストは神の子であり、神そのものであると主張する。聖書には、その「キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」と、はっきり書いてあるではないか。人間であるパウロが、神であるキリストを補うという。そう書いてあるのを否定するのだろうか。「キリストの苦しみの足りないところなど、何もありません。人間が自分の肉体で補えることなど何一つありません」とでも言うのだろうか。(実際は、コロサイ書はパウロの作ではなく、後にパウロの名で書かれた偽書であるが、彼らは「パウロの作です」と主張していた。)

彼らの「人間が神様に協力できることなど何もありません」という主張は、「この世で困っている人たちのために、私たちは何もしません」と言っているのと同じだ。神が嘉されるのは、この世で困っている人たちのために動こうとする人たちではないのか。

プロテスタントの主流派も、一般の(原理主義でない)福音派も、カトリックも、正教会も、無教会も、みなクリスチャンだ。だが、自称「正しい聖書信仰に立つ福音主義」の人たちをクリスチャンと呼んでいいのか、私はかなり疑問に思った。どうも、よく聞いてみると、彼らは、「自分は救われて天国に行きたい」としか考えていないようだった。つまり、クリスチャンと称してはいるが、ただ単に天国という御利益(ごりやく)を求めるだけののエゴイストの集団だった。他宗教や無宗教の人だって簡単に地獄には行けないが、この人たちは間違いなく地獄へ向かっていると思った。今もそう思っているわけではないが、当時は本気でそう思った。
サタンの働きというものが本当にあるのなら、「正しい聖書信仰に立つ福音主義」の名のもとにエゴイストになってしまうのは、まさにサタンの働きだと思った。彼らは、自分たちを「福音派」とか「教派ではなく純粋なキリスト教」とか称しながら、サタンに支配されていると思った。
今思えば、彼らもまた被害者だったのだろう。吸血鬼にやられた人が自分も吸血鬼になって他の人の血を吸うように、被害者が加害者になってゆく。

吸血鬼にやられないよう気をつけないといけないが、たとえ吸血鬼に噛まれても、その人に免疫があれば感染は避けられる。
一般の(原理主義でない)教会の牧師や司祭のお話には、吸血鬼にならずに済む免疫効果がある。特にリベラル派とされる教会の見解がそうだ。ブルトマンはもちろん、田川建三氏の著書などは、さらに免疫効果が高い。日本キリスト教団出版局、新教出版社、教文館などから、免疫となる良書も多数出ている。免疫があれば、キリスト教を称するカルトにならずに済む。
浅見定雄先生の著書にあったが、一般の教会やキリスト教系の学校などで、当たり前のキリスト教に触れた経験のある人たちは、統一協会などのカルトに引っかからずに済む場合が多いという。免疫が出来ているのだろう。当たり前のクリスチャンが言う当たり前のキリスト教をある程度知っておけば、統一協会、エホバの証人、自称「福音派」や「教派ではなく純粋なキリスト教」などの、脱線したキリスト教系カルトに乗せられずに済む。

(伊藤一滴)


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地獄に行けるのは「福音派」くらいかと思っていました(改訂版)

若い頃、「福音派」以外で地獄に行く人なんてほとんどいないのではないかと思っていました。

今の私の考えではありません。
今の私は、「天国、地獄、世の終わり、死者の復活、キリストの再臨、最後の審判と言った話は、みな、神話的な世界観の中に生きていた古代人の神話的な表現だ」と思っています。(「古代人の神話的な表現だ」と言っているのであって、意味がないと言っているのではありません!)

神話だから、信じるに値しないとか、価値のない話だとか言うのではありません。聖書は私たちに普遍的なメッセージを与えます。私は、神話的な世界観の中に生きていた古代人が神話的に表現したことを、現代科学の世界観によって現代人が受け入れられるようにすべきだと思っているのです。

現代人が現代の世界観で聖書を再解釈することは信仰の否定ではありません。
私は、キリスト教の信仰を否定しようとは思いません。

参照 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/02/post-2beb.html


古代や中世のクリスチャンの多くが信じていたことの中には、今は否定されていることもあります。

たとえば、

「地球は宇宙の中心にあり、太陽や月や星は地球の周りを回っている」

「地球は平らであり、海をどんどん進んで行けば端がある」

「病気は悪霊のように人の体の中に入って来たり出て行ったりする」(病原菌やウイルスの存在を知らなかった)

「女性は罪の誘惑に弱く、理性的でない、学問に向かない」

こうした「過去の誤った認識」は、聖書から導かれたり、聖書の記述によって正当化されたりしていました。
近現代のクリスチャンは、人知の発展の中で過去の誤った認識を克服していったのです。

私は、20世紀の多くのクリスチャンが本気で信じていたことの中にも、克服すべき課題があると考えています。たとえば、「自殺者は必ず地獄に行く」とか、「同性愛者は地獄に行く」、「離婚は絶対禁止」などの考え方ですね。他にもいろいろありますが。


聖書の各文書には、かなりの考え方の違いが見られますから、聖書の一部分を引用すればかなり違うことも言えます。それこそ理屈のつけようで何とでも言えます。誰かが「聖書的にこうです」と言えば、それと正反対のことを「いいえ、聖書的に正しいのはこうです」と言えるのです。(※1)
「聖書にこう書いてありますから、人は死んだらこうなります」なんて、誰も断定できません。


20代の頃の私は、もう少しリアルに天国や地獄を想像していました。

地獄があるのなら、誰が地獄に行くのだろうと考えていました。

「イエス様の十字架の贖いを信じる人だけが天国に行き、それ以外の人はみな地獄に行きます」といった「福音派」の説明には、違和感がありました。そういうことを強く言う人たち自身が、イエスの教えに従っていないように思えたからです。
彼らは独善的で、排他的で、不寛容で、攻撃的で、自分本位に見えました。理屈が通る話より、強い先入観で、感情的・一面的な話をしているように見えました。
「聖書に書いてあることをみな書いてあるとおりに信じています」なんて言いながら、その引用は恣意的で、都合よく引用し、都合の悪い箇所は無視しているようでした。聖書のどこにも書かれていない話や、キリスト教の伝統にない独自解釈まで、絶対であるかのように語っていました。

困っている人がいても知らん顔で、社会の諸問題にも無関心で、「世はサタンの支配下です」「もうすぐ世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じでした。
やたら罪や悪魔や地獄の恐怖を強調し、人をおどして「伝道」しているようでした。
そういう態度ややり方を批判すると、みんな火がついたみたいに怒り出しました。

一般の福音派のことではありません。一般の福音派には善良で誠実なクリスチャンがたくさんおられます。愛の心で人に接し、裏も表もなく、報酬を求めずに困難な役割を引き受けてくれるような人たちです。いい人たちです。私もいろいろな形でお世話になり、感謝しています。
ここで、かぎ括弧をつけて「福音派」と書くのは、そうした一般の福音派ではなく、自称「福音派」の原理主義者やカルトのことです。


二十歳の頃の私はこう考えました。

人はみな罪人(つみびと)だから地獄に行くというのなら、罪人とはどういう人なのか知る必要がある。

それは聖書に書いてあるというなら、聖書を知る必要がある。

この世の警察や裁判所だって、法律を知らずに違反した人を厳しく調べたり重く罰したりしない。その人は法律にそう書いてあると知らなかったのだから、そもそも裁かれないか、裁かれてもその罪は軽い。

まして神様は、聖書を知らずに聖書に書いてあることに反した人を重く裁いたりなさらないだろう。

神様が重く裁くのは、聖書を熟知しながら従わなかった人たちだ。

ということは、まさに「福音派」がそれに当たる。彼らは暗記するくらい聖書を読みながら、イエスが求めることには従わない。

地獄に行けるのも能力だ。誰にでもそんな能力があるわけではない。生まれたばかりの子や重い知的障害を持つ人にはそんな能力はないのだから、地獄には行けない。

異教徒や無神論者も、その多くは聖書を知らないのだから地獄には行けない。

現代のリベラルなプロテスタントや一般の福音派、無教会、カトリック、正教会などで、聖書を知っている人たちの多くはイエスに従っているから、地獄には行かない。

ということは、現代において地獄に行ける人のほとんどは「福音派」に違いない。

地獄のフタを開けてみたら、中にいるのは「福音派」の牧師や信者がほとんどで、それ以外の人はあまりいないのではないか。

そうなふうに想像していました。


別に私はスウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)派ではありませんが、若い頃、スウェーデンボルグの著書の日本語訳を読みました。
スウェーデンボルグは、神が人を地獄に突き落とすのではなく、地獄に行く人は自分から行くと言うんです。なるほど、その説が正しいかどうかはともかく、そういう考え方もあるのか、と思いました。(※2)
その考え方で理屈をつければ、人は生きていたときに求めていたものを死んでからも求めるのでしょう。神の愛の天国より、利己的な世界を好ましく思うから、死んでからも利己的な世界(つまり地獄)に向かって行く。
独善、排他、不寛容、攻撃などのない天国に向かうより、地上にいたときの自分の思考や行動に近いものを求めて地獄へ向かって行く。

もしそうなら、自分から地獄に行く人は、どんなに止めても行くのでしょう。「そっちは地獄ですよ。行ってはいけませんよ」って、たとえイエス様が強く止めてもそれを振り切って行くのでしょう。何とか止めようとするイエス様に向かって「誰ですか、あなたは。変なことを言わないでください、あなたの言うことは間違っています」「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」「あなたは正しい聖書の読み方をしていません」「あなたは救いの中にいないようです」などと言いながら、地獄に進んで行くのでしょう、きっと。

もしイエス・キリストが今の世に来られたら、その本物のイエス様に向かって、「あなたは偽キリストです! 私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンだからちゃんと見抜けます」「あなたは聖書の教えに反することを言っています」「それは異端の考えです」とか言うんでしょう。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』みたいです。まあ、『カラマーゾフの兄弟』は「福音派」の話ではありませんが、本当のイエス様を異端視する「正しいキリスト教信仰」の発想は似てます。イエス・キリストを利用してある種の集団を作ってしまうと、その集団を維持するために、本当のキリストは邪魔なんです。

そんなふうに、イエス・キリストに逆らって地獄に行ける人は限られていると思ったんです。異端審問や魔女狩りが横行した中世末や近世はともかく、現代の世界で地獄に行けるのは、せいぜい「福音派」くらいかなって思ったんです。
若い頃の話です。

今の私は「誰が地獄に行くか断定できる人は誰もいない」と思っています。
もし誰かが断定していたら、その人は、単に自分の主観でそう言っているだけです。


付け加えます。
ある種の聖書解釈の立場から、世の終わりの時はこうなると具体的に語る人たちがいますが、成り立たない主張です。
理由は以前書きました。

キリスト教原理主義者たちの主張の矛盾
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2025/01/post-eec3.html
特に「4.空中携挙のときが来る?」参照

世の終わりの時にどうなるのかなんて、神様以外の誰に分かるのでしょう。
「それは聖書に書いてあります」と言ったって、そんなのはどう読んでどう理屈をつけるかで、何とでも言えます。実際、原理主義の諸派の主張だって一致していません。キリストの再臨と千年王国と、どっちが先に来るんですか? はっきり言いますが、千年王国というのは古代人の神話的なイメージによる表現であって、未来に起きる出来事の予言ではありません。そもそもが神話的な表現なのですから、古代人が神話に託した思いを読み取るべきであり、千年王国はいつ来るのかといった議論には意味がないのです。聖書はノストラダムスの書ではありません!
「7年間の大患難時代が終わって75日で千年王国始まります」なんて、見てきたかのようなことをいう人もいますが、まあ、そういった主張は、イエスの教えとは何の関係もありません。

世の終わりの時はこうなるのだと断定的に言う人たちほど、オカルト的・カルト的な話を優先し、神を愛し隣人を愛するという基本をおろそかにしているように思えます。

そりゃあ「福音派」の人たちも自分たちをキリスト教と称し、「神を愛し隣人を愛する」と言ってはいます。一般のキリスト教と同じことを言っているように聞こえますが、意味が違います。
彼らは自分たちが属する教派や牧師の原理主義的・カルト的な教えを無批判に信じ込むことを「神を愛すること」だと思っています。
信じなければ地獄に落ちて永遠に焼かれてしまうという恐怖が常にあって、その「教会」から抜けられなくなっているんです。その恐怖の中に他者を引っ張り込んで不安な思いを共有させることが彼らの福音伝道です。この伝道こそが「隣人愛」の実践なんです。永遠の地獄に行かないようにして天国に導いてあげるのだから、「隣人愛」なんです。福音書に出てくる「盲人を導く盲人」というのはこの人たちのことかと思えてきます。

「福音派」の信仰の中心にあるのは「罪の意識と地獄の恐怖」です。いつも不安な思いを抱えて「信仰」しています。そこが、「福音を信じる喜び」が中心の一般のキリスト教の教えと決定的に違います。

そして、この「福音派」の信仰は、「地獄に行きたくないからイエス様を信じます」みたいな自己保身的な信仰です。信仰の中心が「罪の意識と地獄の恐怖」ですから、当然そうなるのでしょう。
地獄の不安を解消する手段に、イエス・キリストの十字架を使っています。
どこまでも自分中心で、自分第一で、イエス・キリストの十字架は自分が地獄を免れるのに利用する手段です。
それってエゴイズムの一種ですよ。地獄に行きたくないから免罪符を買うのと同じです。

「私はイエス様の十字架による救いを信じます。だから天国に導いてください」という「信仰」は、一見、正統信仰のように聞こえますが、それって、「信じるから、そのかわり天国に入れてくれ」という取引きです。信じることの御利益(ごりやく)として天国での永遠の命を求めているのです。

イエスはそのような、神との取引きや、御利益の要求を教えたんですか?(※3)

「福音派」というのはキリスト教を自称する別の宗教なのか、それともキリスト教の内部に生じた腐敗部分なのか、どちらにしても、イエスが人々に伝えようとした根本理念と180度違います。

イエスと真逆の主張をする人たちをクリスチャンと呼んでいいのか、かなり疑問です。


主流派のプロテスタントも、一般の(原理主義でない)福音派も、無教会も、カトリックも、正教会も、みなイエスを信じるクリスチャンの集まりです。19世紀以降の自由主義神学の立場の人たちだって、彼らなりに誠実に道を求めようとしたわけで、イエスの敵ではありません。

でも、イエスの教えと180度違う主張をする自称「福音派」(キリスト教原理主義者や聖書カルト)の人たちはクリスチャンなのでしょうか?

私は、自称「福音派」の人たちをクリスチャンと呼ぶのをためらいます。彼らはイエスの側ではなくイエスと逆の側です。


「救い」をどう定義するかにもよるのでしょうが、「福音派」は救いの中にいるのでしょうか?

最終的な救いは神様にしかわかりません。

でも、少なくともこの地上の現実においては、「間違ったイデオロギーをキリスト教だと思って信じ込んでいる人たち」は「救いの中にいない」と言えます。
イエスの教えと180度違うのですから。

実際、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結んでいます。

特殊な教会の教えにつまずかれた方は、伝統ある普通の教会や、普通のキリスト教系の学校、普通のキリスト教の集会などで話を聞いてみてはいかがでしょうか。主流派のプロテスタント、一般の(原理主義でない)福音派、無教会、カトリック、正教会などが普通のキリスト教です。普通のキリスト教は、エキュメニズム派、エキュメニカル派と呼ばれることもあります。

(伊藤一滴)


※1
旧約の律法は今も有効か、
すべて有効か、ある部分は有効か、
ある部分ならそれはどこまでか、
正しい戦争はあるのか、
奴隷制は認められるのか、
女性は牧師になれるのか、
牧師を先生と呼んでいいのか、
同性愛者は罪人なのか、
教会で信仰を誓ってよいのか、
そもそも宣誓をしてよいのか・・・・、

聖書を引用して正反対の主張が出来る例はたくさんあります。


※2 こういうことを書くと、「一滴さんはスウェーデンボルグの影響を受けた異端思想の人なのか」なんて言われると困るんで、念のため言っておきます。

スウェーデンボルグはいろいろ述べていますが、ここで私は、彼の、「神が人を地獄に突き落とすのではなく、地獄に行く人は自分から行く」(『天界と地獄』他)という考えを取り上げ、「その説が正しいかどうかはともかく、そういう考え方もあるのか、と思いました」と言ってるんです。
スウェーデンボルグ派の信仰こそ正しいなんて言っていません。
ちゃんと読んでください。


※3
何度も繰り返しますが、イエスは人々に次のようなことを求めたのだろうと思います。

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、

そして、肝心なときに、イエスの求めに従うことができるよう、日頃から自分で考え、判断し、決断し、行動できること。


2021-11-19 掲載分を改定


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創作・この世界の片隅の夕凪の街から

昭和三十年夏。
あれから十年も経っているのに、私は助かったと思っていたのに、今頃になって原爆病で死ぬのか。この十年間、特に自覚症状もなかったのに。
私は普通に進学し、就職し、働いていた。
それが十年後に突然発症し、しかもこんなに急に症状が進むなんて。

十年前のあの日、広島の女学生だった十三歳の私は屍の街を逃げた。迫ってくる火から、夢中で逃げた。気をつけても、途中何度か死体を踏んだ。焼けただれた死体のぬるりとした感触を靴の底に感じたが、どうすることもできなかった。
両腕の皮膚がずるりと剥けて指先から垂れ下がっている人たちがいた。剥けた皮膚が地面につかないようにしているのか、痛いのか、両腕を上げようとするその姿が幽霊のようで、助けたいと思うより、怖い、気持ち悪い、という思いが強くて、なるべく見ないようにして離れた。「水をください」と言っているように聞こえたけれど、聞こえないふりをして逃げた。
兵隊が駐屯していた場所なのか、同じような死体が何体も丸太のように転がっている所に来た。どの死体も真っ黒焦げで顔の区別もつかず、みな裸だった。その裸の黒い死体はどれも同じように軍靴を履いていた。革の靴だけが焼け残り、軍服はみな焼けてしまったのか。
さらに進んだが、どこまで行っても屍の街だ。何かぐにゃっとしたものを踏んで足元を見たら、大きな蛇のようだった。こんな大きな蛇が日本にもいたのか、この蛇は動かないけど死んでいるのかとよく見たら、それは蛇ではなく人間のはらわただった。女の人の腹が大きく裂けて内臓が飛び出ていた。私が踏んでしまったのは、その人の腸だった。
暗くなった街は燃え、助けを求める声、水を求める声が、低く響いていた。私は自分が逃げるのに精一杯で、心の中で「ごめんなさい!」と言いながらひたすら逃げた。
川には数えきれないくらいの人が浮いていた。老若男女、さまざまだった。水を求めて川に来たのだろう。多くはすでに死んでいるようだった。焼けただれた人が多かった。衣服が焦げてぼろぼろだったり、裸だったり。
途中、水道管が破れて水が出ているのを見つけた。顔を洗い、近くに転がっていた鉄カブトを器にして水を飲んだ。「すまないが、私にも水をくれ」と弱々しく声をかける人がいた。ぼろぼろの軍服の兵隊だ。体中、火傷をしている。「のどが焼けるようだ、早く水を」と言う。水の入った鉄カブトを渡そうとしたが、その兵隊は持つ力がない。私は、鉄カブトの縁をその人の口につけて、ゆっくりと水を飲ませた。顔もひどく火傷している。「ああうまい水だ。ありがとう、お姉さん。あんたは学生さんか?」とその人が聞く。「はい、女学校の生徒です」と答えると、「学生さん、頼むから、この仇を討ってくれ。仇を討ってくれ」と言い、間もなくその人は死んだ。水を飲ませたから死んでしまったの? 飲ませないほうがよかったの? でもこの兵隊さんはすごく水を欲しがっていた。うまい水だと言って飲んでくれた。「この仇を討ってくれ」って言われたけれど、どうやって仇を討ったらいいんだ。

結局一人も助けられなかった。途中で兵隊さんに水を飲ませただけ。そしてその人も死んだ。

救護所で母を見つけたとき、最初は誰だかわからなかった。しゃがんで治療を待っていた人たちはみな火傷で顔や体が赤く膨らんでいた。母の顔も風船みたいに膨らんで、髪の毛はちりちりになって眉毛も焼けて、目の所だけ鉛筆で描いたみたいな二つの線になっていた。いつもの母の顔とは似ても似つかなかったけれど、その人の焦げた着物が、六日の朝に「いってらっしゃい」って玄関で私を見送ってくれた母の着物の柄だった。
恐る恐る「お母さんなの?」って声をかけたら、「みなみかい? 助かったんだね。お父さんは、ひすいは、みどりは?」って聞かれたけど、わからなかった。結局、みんな死んだ。
母は目を開けられるようになるまで一箇月近くかかったから、被爆直後の惨状を見ていない。あれを見なかっただけまだよかったよ。
半壊した家にしばらく暮らして、そのあとは廃材でこの夕凪の街にバラックを建てて、お母さんは裁縫仕事で私を養ってくれた。


あのときから十年経った。
多くの死者や重傷者の中を逃げた私は、自分は生きていてよいのか、生きる価値があるのかと思うことがあった。
そういう思いを抱いて生きてきた私は、今、自分が死ぬ番を迎えている。

死ぬ直前て、こんな感じなのか。頭が妙に冴え、いろいろなことが浮かんでくる。特にあの日のことが浮かんでくる。
他の感覚は、もうすっかり麻痺しているみたいで、目が見えないし体も動かない。昨日までは何とか水やお粥をすするくらいはできたのに、今は嚥下も無理みたいだ。
さっきまであんなに体が苦しかったのに、今は体の苦しみを感じない。でも心だけは、あの日のことを思い出すと苦しくなる。

時々どろっとした血の塊を吐いているようだが、もう痛くもないし、血の味も臭いもしない。痛みを感じる神経も、味覚も嗅覚も、みんな失われてしまったのだろう。
五感は殆ど死んでいるのに、頭脳だけが不思議なくらい研ぎ澄まされている。


お母さん、ごめん。先に逝くよ。
顔を焼かれて目も開けられなかったお母さんより、ずっと軽傷だった私が先に逝くんだね。
今日まで本当にありがとう。お母さんには感謝してる。

伯母さん。わざわざ遠くから来てくださって、ありがとうございます。お借りした学費は少しづつでもお返しするつもりでいたのに、ごめんなさい。私はもうすぐ死にます。

あさひ君もそこにいるんだね。かけがえのない私の弟。生きている唯一のきょうだい。
お父さんも原爆で死んだ。お姉ちゃんも妹も死んだ。私も今、死んでゆく。君はきょうだいの中の唯一の生き残りだ。伯母さん宅にいて原爆に遭わずに済んだ君は、原爆で父親ときょうだいをみな失った証人だ。その悲劇を未来に伝えてほしい。
お母さんのこと、よろしく頼んだよ。

Uさん。私のそばにいてくれてるのね。もう目も見えないし耳もあんまり聞こえないけど気配でわかるよ。あまり近づかないで、私はもう人間襤褸。失人間。近づいたら血が付くよ。
私ね、あなたの奥さんになりたかった。あなたの奥さんになって、ごく普通の、平凡な家庭を持ちたかった。原爆は、そんなささやかな庶民の思いさえ打ち砕いちゃうんだね。
あなたの好意はずっと前から気づいてたけど、私は、ためらってたんだ。ずいぶん多くの人の死を見ちゃったから。私は、たくさんの人を見殺しにして逃げちゃったから。私が幸せになったら、死んでいった人たちに申し訳なくて。
でも、あなたに励まされて、私は生きていていいんだと思えて、あなたと共に生きていこうとしていた矢先に、突然発症して、こんなことになってしまうなんて・・・。
私のこと、忘れないでほしいけど、あなたはあなたで、幸せな人生を生きて。私の思い出に縛られずに幸せな家庭を築いて。お願いだから。


この世界の片隅の、原爆スラムと呼ばれるこの夕凪の街で、私は今、静かに死んでゆく。
原爆を落とした人たちが、もし、ここで私が死んでいくのを知ったら、どう思うんだろう。あまりにも多くの死者の一人に過ぎない私のことなんか、まったく気にも留めないんだろうか? それとも、十年経っても人を殺せるくらい優れた爆弾を落としてやったって思うんだろうか? それとも・・・、数多くの人を殺し、多くの人を傷つけ、人生をめちゃくちゃにしたことに対して、少しでも申し訳なく思う気持ちがあるんだろうか?
心の中で申し訳なく思ったって、「原爆投下が戦争終結を早めたのだ、正しかったのだ」という声の前に黙ってしまうのだろうか・・・。


あれっ。お父さん、お姉ちゃん、みどりちゃんも、どうしてここにいるの? 生きてたの?
そうか。私がそっちの世界に行くのか。だから迎えに来てくれたんだね。
見えない目が見えている。死ぬ瞬間て、こうなるんだ。体が、うんと軽い。ああ、自分が自分から抜け出していく。
こうして上から自分の屍を見るって、何か、とても不思議な感じがする。
体から抜け出した今、すっかり生まれ変わったような感じで、これまで経験したことのない新鮮な気分になっている。
もう誰のことも恨んだり憎んだりする気がしない。

さようなら夕凪の街。さようなら広島。さようならみんな。
今から私は旅立つけど、これからは、あっちの世界からずっとみんなを見守るからね。平和を願って見守るからね。
悲しくなんかないよ。あなたたちから私は見えなくても、私からは見えるよ。
泣かないで。
さようなら。

(伊藤一滴)


原爆の惨状を訴えた方々に、心から敬意を表しつつ。


創作の参考にした主な話

全体の構成と被爆十年後の発症
こうの史代『夕凪の街 桜の国』

両腕の皮膚が剥けて指先から垂れ下がっていた人たちのこと
中沢啓治『はだしのゲン』、同『はだしのゲンはヒロシマを忘れない』、他

焼けて裸になった兵隊が靴だけ履いていた話
山代巴編『この世界の片隅で』

内臓が飛び出ていた話
多数の証言

川に多くの人が浮いていた話
大田洋子『屍の街』、奥田貞子『空が、赤く、焼けて』、中沢啓治『はだしのゲン』、他多数

水道管が破れて水が出ていた話
大田洋子『屍の街』、他

鉄カブトを器の代わりにした話
中沢啓治『はだしのゲン』、他

水を飲んで間もなく死んだ人たちの話
大田洋子『屍の街』、奥田貞子『空が、赤く、焼けて』、中沢啓治『はだしのゲン』、他多数

「この仇を討って」と言いながら死んでいった人たちの話
山代巴編『この世界の片隅で』、他

死の直前のこと
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と臨死体験』、立花隆『臨死体験』、他


よろしければこちらもどうぞ
こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読む
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/07/post-6ccb.html

検討すべき聖書解釈(肯定的に、または否定的に)

日本のようなクリスチャン人口が1%弱くらいの国にも、百を越える教派がある。中には原理主義教会やカルト教会もある。キリスト教原理主義や聖書カルトの多くは「福音派」を自称している。困ったことだ。

原理主義教会やカルト教会の「牧師」の珍説の数々まで「そういう聖書解釈もある」として検討してゆくべきなのだろうか。原理主義やカルトでなくとも、一牧師の個人的見解や、一面的な見解や、明らかに誤解していると思われる見解まで、ネット上には多数出回っているのが現状だ。

昔であれば、見解を発するためには雑誌に書くとか、書籍を出すとか、ラジオで語るとか、謄写版を使って紙に刷って渡すとか、できる手段が限られていたけれど、今はネットで簡単に自分の見解を広く公表できるようになった。それでいい面もあるのだが、くだらない見解も多数出回るようになってしまった。聖書に関してもそうだ。そうした一つ一つを「そういう聖書解釈もある」と検討したら、きりがないし、意味もない。だいたい、一生かけても終わらないだろう。


検討すべきなのは、まず、主要な見解だ。

また、少数派の見解であっても、筋の通った主張で、未来につながる可能性を感じるなら、読んだり聞いたりすることに意味があるだろう。

それに、たとえ成り立たない見解でも、その見解が世の中に一定の影響(多くは悪い影響)を与えている場合であれば、批判的に検討する必要があろう。

古代や中世の話ではなく、20世紀になってからさえ、ナチスを支持する聖書解釈やアパルトヘイトを支持する聖書解釈などが本当にあった。正しいかもしれないからその説を検討するのではなく、世に悪影響を与えるから、批判的に検討すべきなのだ。


今だって、イスラエル支持の「牧師」たちがいる。無辜のパレスチナの民を不当な管理下に置いて殺傷してやまないイスラエルを支持するというその頭の中はどうなっているのかと思う。イエスの教えをどう「解釈」するとイスラエル支持になるのだろう?

今イスラエルがやっているのはイエスの愛と平和と赦しの教えと正反対だ。彼らがしているのは果てしない破壊と殺戮だ。イエスの教えと正反対のイスラエルを支持するわけだから、それはキリスト教ではなく反キリスト教だろう。反キリスト教の「牧師」や「信者」は、キリスト教会とかキリスト者と名乗らずに、反キリスト教会・反キリスト者と名乗ってもらいたい。

イスラエルを支持する聖書解釈は、正しいかもしれないから検討すべきなのではなく、徹底的に否定するためにこそ検討すべきなのだ。


1993年、私はイスラエル国内のパレスチナ人の露店で買い物をした。「遠い日本からようこそ」と歓迎してくれた露店の人たちの笑顔を今も思い出す。

高橋美香氏の写真と文による『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)という本を買った。

読むのがつらい。

パレスチナの今を思うと涙が止まらない。

(伊藤一滴)


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聖書解釈について

前から言っている通り、聖書の解釈は無数にある。まったく正反対の解釈もある。

世のすべての聖書解釈に目を通すのは、一生かけても不可能だし、取り組む意味もない。


我々が知ることができるのは「主要な聖書解釈」くらいだ。この「主要な聖書解釈」というのは「正しい聖書解釈」という意味ではなく、キリスト教界で一定の支持を得ている解釈という意味である。


私がこれまでこのブログに聖書やキリスト教のことを書いてきたのは、こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を紹介することが目的ではない。


ある人たちが言う「正しい聖書信仰」や「正統的プロテスタントの信仰」「福音主義の信仰」の中に、成り立たない理屈が見られる、ということを言いたい。

そしてこの、成り立たない理屈の人たちが、自分たちの「信仰」を絶対だとしていろいろな問題を起こしている、ということを言いたい。

マインドコントロールの手法、かなりの金銭や労力の搾取、不透明な経理、パワハラの横行、差別や排除といったことが実際に起きている。信者の中には悩んで心を病んだり、家庭や人間関係がおかしくなったりした人もいる。だのに「この世の人間的な価値観に惑わされてはいけません。聖書的な価値観、神様の価値観に従うべきです」などと言われる。

「聖書的な価値観、神様の価値観」と言っても、広く認められているわけではない。それはその教派の独自の価値観、その牧師の価値観ではないのか、と言いたい。


どうでもいい聖書解釈の例を一つ挙げておこう。

アダムとエバにはヘソがあったのか?

ヘソは母親の胎内にいたときに胎盤とつながっていた跡である。だから、母親の胎から生まれた者にはヘソがある。
アダムとエバは母親の胎から生まれた者ではない。ということは、彼らにはヘソがなかったと考えるのが正しい聖書解釈なのか?

いや、この2人は最初の人類であるのだから、後に続く人類の祖として最初から完全な形態であったと考えるべきだろう。完全な形態なら、当然ヘソがあったはずだ。実際、西洋の名画に描かれたアダムとエバにはちゃんとヘソも描いてある。

云々、云々・・・

こんな議論を延々と続けても仕方がない。
こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を調べる意味も感じない。

そんなことよりイエスのメッセージの根本理念に従うことの方が大事だろう。

私は、いろいろな聖書解釈を調べたり紹介したりすることにあまり意味を感じていないのだが、人や社会に害を与える「悪い聖書解釈」が確かにあるから、これは指摘しておいた方がいいだろう。正統か非正統かではなく、悪い結果をもたらす聖書解釈である。
中世の末には魔女狩りの根拠となる聖書解釈があったし、20世紀になってからも、ナチスを正当化する聖書解釈もあった。今でも、差別につながる聖書解釈、特定の人たちを苦しめる聖書解釈がある。

それを指摘するのは、健全な行為と言えるだろう。

「悪い聖書解釈」を主要な聖書解釈の一つにしてはいけない。

(伊藤一滴)


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「我が民族第一」の果て

かつて、ある国に次のような政党がありました。


名前は革新政党のようでありながら、反共の党だった。

我が民族第一で、排外主義的だった。

不安や不満を抱えた国民が飛びつくような政策を述べた。話術は巧みで、演説がうまかった。話の全部が嘘ではないにしても、盛った話や歪めた話も多かった。

健康や環境を重視する主張をした。中に陰謀論のような話も混じっていた。

民族主義や愛国心を強調して大衆を鼓舞した。

支持者には連帯感があって、熱狂的な支持を得た。

この党は、民主的な憲法下の選挙で急速に党勢を拡大し、やがて政権を掌握した。

だが、彼らのやり方は持続可能ではなかったし、掲げたその「理想」は民族エゴでしかなかった。


日本の某政党じゃないですよ。

かつてのナチスドイツの話です。

ナチス党は、正式には「国民社会主義ドイツ労働者党」という名で、革新政党を思わせる名前です。(「国家社会主義ドイツ労働者党」「民族社会主義ドイツ労働者党」といった訳もあります)

第一次大戦と世界恐慌で疲弊したドイツで、ナチスは大衆を味方にして急速に党勢を拡大し、やがて政権を掌握しました。

物価は上がる、生活は苦しい、未来に希望が持てない、これまでの政治家は信用できない、そんな中で、排外主義・全体主義・専制政治が台頭していったのです。我が民族第一のような主張をする人が、国民の目からかっこよく見えたのでしょう。期待できると感じられたのでしょう。
ヒトラーのナチス党は国民から選挙で選ばれました。これはおかしいと気づいても、もう戻れなくなっていました。おかしいと思って声を上げようとしたときには、言論統制が進んでいたという歴史を思い起こしてください。

そして、ドイツはどうなっていったのか。歴史が示すとおりです。

ナチスがやったのは、おびただしい殺戮と破壊でした。

(我が民族を第一とする指導者の下で国民が幸せになったという話は聞いたことがありません。)

(伊藤一滴)

聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?(改訂版)


聖書を執筆したのは古代人である。執筆者は古代の世界観・宇宙論を素朴に信じていた。彼らは、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていて、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか思っていなかった。もちろん、星の遠心力と引力とのつり合いなど知らなかったし、万有引力も知らなかった。

聖書を文字通り信じるなら、三層からなる世界を信じないといけなくなる。地球は丸いとか太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていないし、聖書から導くこともできない。(聖書から太陽系はこうなっているといった話を導く人もいるが、それは屁理屈による強引な解釈だ。無理な屁理屈を使えば何とでも言える。正反対のことも言える。)
聖書の記述を素直に読むなら、地球が丸いことや太陽の周りを回っていることを否定するのが自然な解釈ではないか。実際、ルターもカルヴァンも「地球は太陽の周りを回っている」とする見解に「聖書的に」反対している。ルターやカルヴァンに従い「聖書的に」考えるなら「地球は宇宙の中心にあって動かない」とすべきだろう。
科学的な見方と聖書の記述はそれぞれ違うものであり両立はしない。

創世記の天地創造の記述を素直に読むなら、太陽より先に地球があり、太陽がなかったのに光があった、となる。そして、まだ太陽がなかったときの地球に植物が生えていた、となる。そう書いてある通り、その通りに信じなければ「聖書を文字通り信じています」とは言えないのではないか。


新約聖書においても、パウロは上に立つ権威に従うべきだと説いて、ローマ帝国による支配を認め服従するように言っている。また、奴隷制を否定していない。さらにパウロは、女は髪を切るなとか、被り物を被れとか、男に教えるなとか、教会では黙っていろとか、いろいろ言っている。

ローマ帝国のような帝国が権威として君臨し、強力な軍隊を持ち、軍事力で各地を植民地のように支配する社会、支配下の人民はそれに服する社会、そういう社会が聖書的であり理想的な世の中だ、ということか。さらに、奴隷制を認める、女は男の下にあると考える、それが聖書的な価値観か。女は教会の中で発言してはいけないのだから、女性牧師を認める教会は反聖書的な異端の教会となるのではないか。女は男に教えてはいけないとあるのだから、クリスチャン家庭では女性教員のいる学校に男の子を行かせるべきではない、となるのではないか。聖書を文字通り信じるならそうだろう。
一方で「聖書を文字通り信じています」と言い、一方で聖書にはっきり書いてあることに従わず現代社会に妥協するのは言行不一致ではないか。

(パウロの名誉のために言うが、バート・D・アーマンによると、パウロの作と考えられる書簡の中の女性差別的な記述は後に別人によって書き加えられた可能性があるという。もし、後からいろいろ書き加えられたとすれば、「聖書の権威」って何だ?)


現代のプロテスタント主流派やカトリックはリベラルになっており、上述したようなことが問題になることは、まずない。彼らは、基本的に、現代の科学的・歴史的な研究の成果を受け入れている。だから、原理主義者から「リベラル派は聖書を文字通り信じていないので、まちがったキリスト教です」などと言われる。

えっ、「聖書を文字通り信じる」って、聖書が書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度を正しいと信じることなの?(カトリックの場合だと、司祭は男性に限るといった制度がまだあって、問題視されることもあるが。)

上述の問題は、福音派内の問題と言える。
福音派も一枚岩ではないから、内部には、「聖書には歴史的・科学的事実に反することも書かれている」と認める人たちもいる。彼らの考え方だとこうなる。たとえば、親が幼い子どもに、「クリスマスにはサンタさんが良い子にプレゼントを持ってきてくれるよ」と言ったとする。こうした発言はアメリカをはじめキリスト教の文化圏では珍しくないと思うが、そう言う親は、噓をついて子どもをだましているのだろうか。そうではなく、幼い子どものレベルに合わせてそう言ったと言えるのではないか。
同じように、神様は、古代人の知識・認識のレベルに合わせて大切なことを教えてくださったと考えることができる。だから、聖書に書いてあるからといって、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度まで、現代の人が受け入れなければならないということではない。
こうした考え方だと進化論を否定する必要もなくなる。

それを聞いて自称「福音派」の原理主義者らが怒り出す。
「聖書は一字一句に至るまで、神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉で、すべて文字通りの事実です。福音派の内部にまで、聖書には歴史的・科学的事実に反することも書かれているなどと言う人がいるのは、自由主義神学の悪影響を受けたリベラル化です。これはサタンの仕業です!」
はぁ? 目覚めない人たちはどこまでも目覚めない。

何が真実なのか真剣に道を求めていけば、プロテスタント主流派も、福音派も、カトリックも、かなり近い所に行くのではないかと思う。だからエキュメニズム(教会再一致運動)の動きもあるのだ。

自称「福音派」には一貫性がない。「聖書を文字通り信じています」などと言いながら、文字通りに従っていない。彼らは聖書に示された理念より自分たちの先入観を上に置いている。だから、聖書の理念に反する発言や行動が多い。

広い視野に立って真剣に道を求めることに背を向け、狭い世界に閉じこもり、自分たちの先入観を上にして現代の史学や科学を否定している(それも全否定ではなく中途半端な否定)。そうした思考だから当然かもしれないが、エキュメニズムまで否定している。彼らは、たとえ「福音派」を名乗っていてもカルト思考の原理主義であり、現代の律法主義、現代のファリサイ派ではないか。

(伊藤一滴)


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2024-11-13 掲載分を一部改稿

聖書の史実性(再掲)

 

聖書の記述のどこまでを史実と考えるのか、クリスチャンの間でも意見が分かれている。
保守的な信者だと「聖書に書いてあるのですからすべて事実です」と言う人もいるが、聖書には文字通りの事実ではないことも書いてあると認めた上で信仰している人もいる。今は、後者の方がはるかに多い。


以前私がお世話になった先生の1人は、真面目で熱心なプロテスタントの信者で、長年、教育や福祉に尽くしてこられた方だったが、
「旧約聖書のアブラハム以前の話はすべて神話です」
と、はっきりおっしゃっていた。
その先生は、
「神話だから意味がないというのではなくて、神様は、神話や比喩や象徴的表現など、さまざまな手段を用いて人間に大切なことを伝えてくださっているのでしょう」
と言っておられた。

その話を聞いて、なるほど、と思った。


アブラハム以前の話が神話なら、聖書の記述から地球が出来た年代を求めようとする試みなど、まったく無意味になる。
同様に反進化論も、無意味になる。

そう。無意味なのだ。
聖書の史実性を真剣に信じている人たちは不快に思うかもしれないが、そもそも史実性を持たない物語から史実を読み取ろうとすること自体無理で、無意味なのだ。

聖書に記された天地創造の記述は、現代の宇宙論や古生物学とは相容れない。
聖書と科学を調和させようとする試みもあるが、アブラハム以前の物語に史実性がないなら、そうした試み自体が無意味だ。


そもそも聖書は歴史的事実や科学的事実を述べることを目的に書かれた書ではない。
聖書は神を信じた人たちの信仰の証しであると共に、神と人との契約を人間の言語で記した書だ。著者たちは歴史的事実や科学的事実を伝えようとしたのではなく、神はどういうお方で人とどういう関係にあるのかを伝えようとした。また、当然だが、古代人には現代のような科学的認識もなかった。聖書の記述は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の、その時代の表現だ。


「アブラハム以前の話はすべて神話です」というのは、当然そうだと私も思う。
では、アブラハム以降はどうなのだろう。
今の私は、アブラハムという人物の存在も含めて、旧約聖書の話の多くは神話や比喩や象徴的表現であり、創作されたものだと考えている。

「モーセ五書はモーセの作です」と頑張る人たちがいるが、モーセという人物自身がかなり高い確率で架空の人なのだから(何らかのモデルがいた可能性はあるにしても)、架空の人が執筆できるはずがない。
出エジプトに関しても、エジプト側の記録はまったくないし、奴隷にされていた民族が大移動したという考古学的な証拠もない。これもまた架空の話か、何らかの物語がかなり誇張されて伝わった話と考えるべきだ。

近年は、ダビデ王やソロモン王といった著名な王さえも、架空の人物であるとする説が有力になっている。彼らが著名なのは旧約聖書に書いてあるからであり、旧約聖書以外、こうした王が本当にいた証拠がまったく見つかっていない。(※)


聖書に書いてあるから事実なのではない。
また、聖書に書いてあることをすべて文字通りの事実と信じることが、キリスト教信仰の条件でもない。もしそれが条件なら、プロテスタント主流派や現代のカトリックは成り立たないことになるが、実際はちゃんと成り立っている。そして、多くの方々が、教育、福祉、医療、その他の多くの分野で、地の塩・世の光となって活躍しておられる。
むしろ、「聖書に書いてあることをすべて文字通り事実と信じます」と言う人の中に、身勝手で、排他的で、攻撃的な、かなり問題のある人が多いように思う。(トランプ支持派など、まさにそうだ。)


聖書に書いてあっても書いてなくても、事実は事実だし、事実でないことは事実でない。

「聖書には一切矛盾はありません」と言い張って延々とつじつま合わせに明け暮れることをイエスは求めるのだろうか?
「すべての真理は聖書にあります」と言い張って学術的な研究に感情的に噛みつくことをイエスは求めるのだろうか?

大切なのは、「イエスは人々に何を伝え、何を求めたのか」ではないか。

これまで何度も書いたことを繰り返すが、
イエスが人々に求めたのは、

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、
等々であろう。

そして、肝心なときに、イエスの求めに合致する人こそが、真のクリスチャンだろう。

イエスは人々に決断を求めたのだ。
神の国が近い今、どうすべきなのか、自分で考え、判断し、決断し、行動することを求めたのだ。

イエスは「旧新約聖書66巻には一切矛盾はありません」とか「聖書に書いてあることをすべて文字通りに信じ、文字に縛られて生きなさい」などと言っていない。

(伊藤一滴)


※ ダビデ王も架空の人物とする説の方が今では有力なのかもしれないが、私は、架空と言い切るのにためらいを感じている。
民族の英雄として架空の王様を創作するのなら、その不祥事を書くだろうか?
部下の妻を横取りし、その部下を死に追いやったと書くだろうか?
私は、ダビデ王のモデルになった人物は本当にいて、本当に部下の妻を横取りしたのではないかと想像している。


付記
リベラルなプロテスタント信者に、とてもいい人たちがいる。
一般の(原理主義でない)福音派にも、とてもいい人たちがいる。
カトリック信者にも、とてもいい人たちがいる。

しかし、「福音派」を自称する原理主義者の教会の牧師や信仰歴の長い信者で、いい人に会ったためしがない。

彼らには共通の特徴がある。「聖書に書いてあることをみな文字通り信じています」とか「私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンです」などと言いながら、ひじょうに独善的、排他的、不寛容、攻撃的なのだ。聖書を信じると言いながら、肝心なときにするりと逃げる、責任を負おうとしない、社会の諸問題にまるで無関心、非キリスト信者に協力しない、困っている人のため指一本動かそうとしない、嘘や誇張を混ぜた話で他教派を非難する、といった点も共通している。
自分たちは正しく、自分たちの外の世界は(他教派も含めて)サタンの支配下にあると考えているようだ。

実を見れば木が分かるように、どういう人たちが集まっているのか見れば、その教会や信者を判別できる。

2023-8-23掲載、そのまま再掲

 

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信仰の論拠は聖書のみ?

プロテスタントは「信仰の論拠は聖書のみ」と主張するが、実は、聖書(Scripture)以外に、伝統(Tradition 聖伝)、理性(Reason)、経験(Experience)などを用いて教えを説いている。だのに「聖書のみ」と言い続けることに、私は違和感を覚える。
しかも、この「信仰の論拠は聖書のみ」という記述自体、聖書にない。もし本当に「信仰の論拠は聖書のみ」なら、聖書にどこかにそう書いてありそうだが、どこにも書かれていない。

特に福音派は以下を強調するが、これらの言葉も、聖書にそのままの形では書かれていない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」「聖書には権威がある」「日曜は安息日である」「日曜の礼拝に信者は出席すること」「信者は禁酒せよ」
これらは聖書解釈によって導かれた見解であり、聖書にはっきり書かれた箇所がない。「聖書の教え」(=「神の教え」)は、理屈のつけようでどうにでもなる。
だから、「福音派は聖書のどこにも書かれていないことを言っているので反聖書的であり、間違った信仰です」といった主張も可能になってしまう。(理屈でそういう主張もできてしまうという話であり、私がそう思っているわけではないが。)
それに、新約聖書がまだ存在しなかった時代にもキリスト教信仰はあったのだから、「信仰の論拠は聖書のみ」とは言えないという主張も可能になる。
私はいろいろな人に「新約聖書がまだ存在しなかった時代のキリスト教信仰の論拠」について聞いたが、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張と整合性のある説明を聞いたことがない。
新約聖書が成立する前の原始キリスト教の時代には、「旧約聖書」の記述と「口頭の伝承」(=口伝、口承)と「共同体の信仰」が信仰の論拠だったと考えられる。当時は「信仰の論拠は聖書のみ」ではなかったのだ。
どこまでも「信仰の論拠は聖書のみ」とするなら、新約聖書が成立する前は正しいキリスト教はどこにもなかったという話になる。
「新約聖書が成立する前は、パウロやイエス様の弟子たちが正しい教えを伝えていたのです」といった主張があるが、今日のような形の新約聖書が確立したのは4世紀の末である。紀元1世紀の時代を生きたパウロやイエスの弟子たちは4世紀の末まで生きて教えを説いていたのだろうか。「パウロや弟子たちの没後も正しい教えを受け継いで伝えた人たちがいました」と言うのなら、それはつまり聖伝(Tradition)だ。4世紀の末までは聖伝が有効で、新約聖書が確立した途端に「信仰の論拠は聖書のみ」に変化したのだろうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは宗教改革を進めるのに使われたスローガンであって、歴史的価値のある言葉であっても、今では成り立たない主張ではないのか。
(伊藤一滴)

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誤りなき神の御言葉である聖書の権威?

私は福音派の牧師先生や信者さん方からお世話になってきた。
恩人の信仰を悪くなど言いたくない。

今の私は、〈福音派〉と〈「福音派」を称する原理主義者〉を分けて考えているが、中間的な人たちもいるから、両者をはっきり線引きすることはできない。

以下の文章は、福音派を非難していると受け取られるかもしれない。よく読んでいただければ分かると思うが、以下は非難ではなく、事実と、それに対する私の考えである。実は、こんなことを書くのは心苦しいのだが、自分の思いを偽りたくはない。


「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか、福音派の人たちはよく言うが、実はどちらも聖書にはっきり書かれた箇所がない。事実だから、疑問なら、コンコルダンスやパソコンの検索機能などで確かめていただきたい。

福音派は「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも書かれていないことを言っている。そして、この、「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書にない。これも、事実である。

信じるのは自由だが、これらを知った上で信仰しているのだろうか? 牧師なら知っているだろうが、一般信徒はどうなのか?


福音派に限らず、プロテスタントは聖書中心主義を標榜するが、聖書に明確に書かれていないことを信じている。
信じるのなら、そう信じるだけの根拠が必要になる。信仰は科学的な証明が求められるわけではないが、こういう理由でこう信じるという理論的な説明は必要だ。
それができないなら、迷信・妄信・狂信と変わらない。

「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」
「信仰の論拠は聖書のみ」

こうした主張は、どれも、はっきりと聖書に書かれてはいない。これらは聖書の解釈によって導かれた見解であり、広義の「聖伝」ではないかと思う。

「信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません」などと言いながら、解釈を一種の聖伝として受け継ぎ、信じているのではないか。

よく「根拠」とされるのは新約聖書の2テモテ3:16の「聖書はすべて神の霊感によるものであって、教え、戒め、矯正、義の訓練のために有益です」という箇所だが、この著者にしても「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか「信仰の論拠は聖書のみ」とか、明確に言ってはいない。
それにこの著者は、この箇所の「聖書」とは何を指すのかも明らかにしていない。著者の念頭にあったのは七十人訳かシナゴーグで朗読されていた聖書だろうが、どちらにしても「新約聖書」は含まれていない。

「聖書に明確に書かれていなくとも、聖書それ自体から、聖書は誤りなき神の御言葉であり、聖書には権威があるとわかります」といった主張もあるが、それは循環論法だ。かつて左翼学生らが「マルクス主義の正しさはマルクス・エンゲルスの著作からわかります」と言っていたのと変わらない。


歴史的には、「聖書には権威がある」という主張は古くからあった。聖書の内容や聖書に記されたイエスや使徒たちの姿勢から、総合的判断としてそう信じたのだろう。ただし、これが教義として明確に定められたのは16世紀の宗教改革の時代である。対抗したカトリック教会もトリエント公会議において聖書の権威について明文化した。
また、宗教改革において教皇主義への対抗として「信仰の論拠は聖書のみ」と主張され、受け継がれた。

キリスト教2千年の歴史において、旧新両派が「聖書には権威がある」と明確に定め、また新教徒が「信仰の論拠は聖書のみ」と主張して5百年だ。
聖書から導いた見解だとしても、聖書にはっきり書かれていないこうした主張を聖書の言葉と同じように扱ってよいのだろうか?

「聖書は誤りなき神の御言葉である」と教義として明確に定められたのは比較的新しい。これは、私が知る限り、古代・中世の公式な教義にはない。宗教改革の時代でさえ、ルターはヤコブ書などの聖書の一部の正典性を疑問視していたわけで、聖書のすべてを誤りなき神の御言葉とは考えてはいなかった。
ルターの見解は「部分的霊感説」になるのだろうか? 「だからルターは間違っていました」となるのだろうか。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」という主張はカルヴァンの流れだろうが、そのカルヴァンだって聖書に明記されていない幼児洗礼などを認めている。「だからカルヴァンも間違っていました」となるのだろうか。
ルターは間違っていてカルヴァンも間違っていたなら、「私たちは正しい聖書信仰に立つ教会です」って何?

19世紀末~20世紀初頭、自由主義神学の台頭を危惧した原理主義者(根本主義者)らが「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強調し、これが原理主義教会や福音派教会に受け継がれたようだ。「保守」的な人たちによって「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強く主張されるようになったのは、キリスト教2千年の歴史の中でここ百年間ほどだ。それでも、まあ、百年の歴史はあるが。

聖書に明確に記されていないこれらの主張は、広義の「聖伝」だと言えるだろう。
どんなに否定しようが、福音派は「福音派の聖伝」を信じている。

リベラル派にも、リベラル派なりの聖伝のようなものがあるのだろう。「福音派の聖伝」と重なる部分もあるだろうし、かつての自由主義神学の流れにあるリベラルな伝統とか、カール・バルトの見解とか、ルドルフ・ブルトマンの見解とか、それぞれに違うが、リベラル派の諸派の聖伝のようなものになっているのかもしれない。
「知性・理性を使い科学を重視して思考せよ」と聖書に書いてあるわけではないが、これもリベラル派の聖伝か。

カトリック教会の場合、信仰の論拠は「聖書と聖伝」だから、当然、聖伝を受け継いで信じる立場である。
ちなみに現代のカトリック教会は、「聖書全体は神の言葉である」とはっきり教えている。

「聖書の著者たちは、聖霊の霊感のもとに神が望まれることを書き記したのであり、その意味で聖書全体は神の言葉である。」(「第二バチカン公会議公文書」啓示憲章(Dei Verbum)第2章「聖書と啓示」第11項)

「聖書には権威がある」という主張もそうだが、これも福音派の見解と合致する。両者共通の「聖伝」である。

どうもカトリック教会は、プロテスタントが先に言っていたことを、あとから聖伝として公認することがあるようだ。それって、パクリだと言われそうだ。カトリック側からすれば、検討の結果正しいとわかったということなのだろうけれど。

聖伝を信じてはいけないとは言わない。
ただ、自分たちも一種の聖伝を信じながら、「信仰の論拠は聖書のみであり、聖伝を信じるのは間違いです」などと言わないでもらいたい。

一般の(原理主義でない)福音派は、今日、対話路線になっている。他派と交流するし、他者の立場に配慮してくれるから、対話が成り立つ。

エキュメニズムの時代である。
福音派は、

「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」

といった聖書にはっきり書かれていない主張について、自分たちは何故そう信じるのか、エキュメニカル派(エキュメニズム派)に、また非キリスト教の人たちに対しても、ていねいに説明する必要があるだろう。


福音派を名乗る人たちは一枚岩ではない。寛容で親切な人も多数おられるが、まるで違う人もいる。福音派を名乗る中に、原理主義寄りの人たちや、明らかな原理主義者・カルトまで混じっている。原理主義者・カルトらは「信仰の論拠は聖書のみなのに、カトリックは聖伝を信じているから間違っている、異端だ」と盛んに攻撃するが、そういう自分たちも一種の聖伝を信じている。

原理主義者・カルトらは自分たちのことを純粋なキリスト教だと思っているのだろうが、その主張は矛盾だらけだ。それを指摘されても、「私たちは正しい聖書信仰に立つので弾圧されています」などと言って、大騒ぎして怒るだけで、自らを省みることなく改めることもない。彼らは「キリスト教とは別の宗教」なのか、「キリスト教の中の腐敗部分」なのか。どちらであれ、早く目を覚ましてもらいたい。

(伊藤一滴)


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私の父母の宗教批判(再掲)

私が育った家は反宗教の家で、私は小さいときから宗教批判を聞いて育った。
なんとなく無宗教みたいな人が日本には多いのかもしれないが、私の父母は単なる無宗教ではなく、断固とした反宗教だった。(つまり私は「反宗教2世」として育った。ただし、私自身は反宗教にはならなかった。)

今でこそ父母は年をとり、私の妻の対応もあって丸くなっているけれど、私が子どもの頃は宗教的なものを読んだり見たりしているとひどく叱られた。何度も言うが、子どもだった私は隠れて聖書を読んだ。

私が覚えている父母の宗教批判を書き残しておく。


母の宗教批判

昔はみんな貧しく、生活が大変だった。食料の確保が大変だったし、煮炊きも冬の暖房も大変だった。機械化される前の労働はきつく、危険も多かった。怪我をしたり病気になったりしても、今のような医療も福祉もなかった。庶民の生活は不安定で、不安な中で生きていた。昔は科学的なこともよくわかっていなかったから、庶民は理屈で因果関係を考えるのではなくて、本当は結び付かないことを結び付けて考えたりしていた。そうした中で、人は何かにすがろうとして、存在しない神や仏を作り出し、すがり、崇め、受け継いだ。安心を得るためだった。つまり宗教は、もともとは、人々の不安定な生活や不安な心が生み出した幻想なのだ。人々の不安定な生活や不安な心は続いたし、教えに反することをすれば悪いことが起きるのではないか、死んでから苦しい目にあうのではないかといった思いもあって、宗教はずっと続いてきた。また、今は苦しくてもあの世で幸せになれると、この世の苦しみを誤魔化すのにも使われてきた。だが現代は、庶民の生活が向上し、生活水準が高くなり、宗教信仰は薄くなっている。今後さらに科学が進んで人々の暮らしがよくなれば、やがて宗教は消滅するだろう。今はその過渡期なのだ。衰退してゆく宗教は必死になって人をつなぎとめようとするだろう。そうした宗教にだまされてはいけない。神様も、仏様も、霊も、死後の世界も、みな架空のものであり、実際は何もない。ないものを信じたり、ないものにすがったりしてはいけない。架空の宗教ではなく、この世界で、現実に、みんなの幸せを求めていくべきだ。


父の宗教批判

すべての宗教は、金儲けや支配のために人間が作りだした架空の教えに過ぎない。宗教は人をおかしくする。実際、宗教を強く信じている人にはおかしな人が多い。宗教は、信じる人の心を支配し、正常な判断力を奪い、ひたすらぼったくる。特に、障害者や病人、またその家族や、困難な状況にある人たちが狙われる。宗教は人の弱味、苦しみに付け込んでくる。程度の差こそあれ、すべての宗教に悪しき面がある。それは宗教の根本が人間が作った架空の教えで、解釈次第でどうにでもなるからだ。たとえその宗教の内部に良い人がいたとしても、神や仏が架空で、その教えが架空なのだから、ヌエのようにどうにでもなり、人や社会を悪い方に導くことにも使われてしまう。宗教の良い部分と悪い部分を比べたら、悪い部分の方がずっと大きい。
宗教に関わってはいけない。宗教系の学校に進んではいけない。宗教にだまされてはいけない。
私は戦争中に子ども時代を過ごした。日本は神国であって必ず戦争に勝つ、神風が吹くと教えられた。みな嘘だった。当時の日本は神がかりの宗教国家になっていた。神道は間違いだがキリスト教は正しいということでもない。キリスト教国のアメリカは日本の街を焼き払い原爆まで落として多数の非戦闘員を殺し、その後も朝鮮やベトナムで殺戮を繰り返している。アメリカもヨーロッパも、イスラム教の諸国も、みなおかしい。自分たちの正しさを主張し、戦争・紛争を繰り返してばかりいる。宗教が正しいのなら、その教えを信じる人はみんな幸せになるはずなのに、現実はそうなっていない。宗教という人間が作りだした架空の教えが人を支配し、国を支配し、争いの原因を作っている。平和な世界を目ざすなら、まず宗教を否定すべきだ。宗教的な考えから世界を見ることを否定し、科学的な見方からこの世界の現実を見て、人類の平和と幸福を考えてゆくべきだ。

参照

信仰継承? 信仰強要?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/08/post-bf35.html

反宗教の両親の変化
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/10/post-3752.html

(伊藤一滴)


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