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非神話化8の3・十字架の出来事とその意味

さて、前置きが長くなったが、いよいよ本題に入る。(教会の教えやブルトマンの記述に合わせる場合は十字架と書く)

どの教会も、イエス・キリストの十字架の死と、復活を教えている。キリストの十字架の死によって、私たちは罪と死から解放されたと教えている。では、ブルトマンはどう考えていたのだろう。

イエスが十字架で殺されたのは史実であることはブルトマンも認めている。
その十字架の死の意味を新約聖書は神話的に語っている。

神話論的な解釈とは、つまりこうである。
「先在的な、人間となった神の子が-かかる者ととして、彼は罪なき者であったが-十字架につけられたのである。彼はあがないの供え物であり、そして彼の流した血は我々の罪をあがなうのである。かれは代償的に世の罪を担った。そして、彼が罪の罰、すなわち、死を引受けることによって、彼は我々を死から免れさすのである。」(『新約聖書と神話論』)

なんとも読みにくい文章なんで、もう少し読みやすく書くとこうなる。
イエス・キリストは天地創造の前からおられた先在的な神の子であった。イエスは罪なき者であったが、人間となって世に生まれ、十字架につけられた。彼はあがないの供え物であり、そして彼の流した血は我々の罪をあがなうのである。彼は私たちの身代わりとなって世の罪を担った。そして、彼が、罪の罰である死を引き受けることによって、私たちは死から免れることができるのだ。

ブルトマンは上記のような理解を「犠牲の表象と律法的な充足説とが混じっている神話論的な解釈」であるとし、「我々にとってはつき従ってゆけないものである」と断ずる。(『新約聖書と神話論』)

このあたり、保守的な信者から「ブルトマンの言っていることは間違っています! 正統信仰に反します!」と言われそうだ。

ではブルトマンは、イエスの十字架の死による罪からの解放を否定するのかというと、そうではない。
「犠牲の表象と律法的な充足説とが混じっている神話論的な解釈」には「つき従ってゆけない」とし、「そういった神話論的解釈は、せいぜい、人間が今まで犯してきた罪-そして未来においてもまた犯すところの罪-が、それに対する罰が免除されるという意味において、赦されるということをいいうるにすぎぬだろう」と言う。そして、「しかし事実的には、むしろこう言わねばならない。すなわち、信徒は、キリストの十字架によって、人間を支配する力としての罪から、或いは、罪を犯すことから自由にせられているのだといわなければならない。」(『新約聖書と神話論』)

うーむ。難しい。こんな話について行くのは大変だ。

「『世』の諸力に頽落している人間、すなわち、我々自身に対する審判が、十字架において遂行せられている」とも言う。(『新約聖書と神話論』)

我々自身だ。しかも、過去の出来事ではない。イエスの十字架は、『世』の諸力に頽落(たいらく)している現在の我々に対する審判なのだ。

キリストの十字架を信じるとは、神話をそのまま信じることではない。
「神がイエスを十字架につけることによって、神は我々のために十字架を立て給うたのである。(略)キリストの十字架を信ずるということは、キリストの十字架を自身のものとして引きうけること、すなわち、キリストとともに自己を十字架につけるということを意味するのである。(略)十字架は、決して、我々が回顧する過去の出来事ではなく、その有意義性において理解され、信徒にとって、つねに現在であるかぎりにおいて時間のうちにある、また時間を超えた出来事なのである。」(『新約聖書と神話論』)

う~~む。
十字架の死は、我々が回顧する過去の出来事ではないという。
ブルトマンは、信徒はキリストの十字架によって罪および罪を犯すことから解放されると言う。

キリスト教の否定ではない。否定ではないが、伝統的なキリスト教とは違うと言われそうだ。正統教義の一部を否定している、異端の神学だと言われそうだ。

でも、その、「伝統的なキリスト教」に、現代人はついて行けなくなったのだ。

「プロテスタントは宗教を魔術から解放した」(マックス・ヴェーバー)のではない。ルターやカルヴァンだって、地球は太陽の周りを回っているという考えを否定している。プロテスタントが盛んに魔女狩りをやり、カトリックが魔女狩りをやめてからも続けていたことを忘れてはいけない。聖書を文字通り読むなら、「魔術を使う女は生かしておいてはならない」と聖書に書いてある。(「出エジプト記22章」)

時代の子は、その時代の中で生きたのだ。過去の時代の世界論・宇宙論を、現代人も文字通りそのまま信ぜよと言うのは無理がある。それは反知性の陰謀論と変わらない。

ブルトマンが異端派だと言うのなら、ルターやカルヴァンが考えていたように、地球は太陽の周りを回っているのを否定するのが正統キリスト教なのか? 「魔術を使う女は生かしておいてはならない」と主張するのが正統キリスト教なのか?
 
「聖書を文字通り信じています」と言うのは一見正統のようだが、それは、現代においては無理があり、未来に続く信仰とは言えないだろう。

ブルトマンはルター派(ルーテル教会)の伝統の中に生まれた人であり、見方によっては、20世紀の宗教改革者と言えるのではないだろうか。

(続く)

(伊藤一滴)


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