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福音派と原理主義(【いのちのことば社物語3】に思う)(再掲)

インターネット上の「クリスチャン新聞」のホームページに「【いのちのことば社物語3】「聖書信仰」に礎を置く」というのがある。それに次のように書いてある。


引用開始

(略)福音派の関心事の中で伝道と並んで大きな位置を占めるのが、聖書をすべての物事の規範とする「聖書信仰」である。これは20世紀に影響を強めた自由主義的(リベラル)な神学に対し、聖書を「誤りなき神のことば」と信じ、「信仰と生活の唯一の規範」として尊重する信仰の立場。いのちのことば社は創立以来、今日まで一貫してこの「聖書信仰」に立ち続けてきた。

「聖書信仰」という言葉は一部の主流派の人々から「学問(神学や科学)よりも信仰を重んじる」「神を信じるのでなく聖書を絶対視する」などと揶揄(やゆ)されることがある。しかしそのような偏見に反して、実際の聖書信仰は、旧新約聖書に描かれた信仰の態度を踏襲するものだ。それはキリスト教会の歴史を通じて受け継がれ、プロテスタント宗教改革によって再確認された。

そして、人が理解できる合理性の下で聖書を解釈しようとする20世紀の人間中心主義的な思潮に対して、神の霊感によって書かれた「神のことば」としての聖書に権威を認め、その事実性を重視して真理を追究する。したがって、聖書が原典において何を語っているのかを研究する本文批評や聖書学においては、リベラルな神学に引けを取らない学的な実績を積み重ねてきた。

引用終了

出典:https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/

広義で、福音派と名乗る人たちは、共通認識として下記の(1)を主張する。これが福音派の立場なのだろう。中には(2)を主張する人たちもいるが、(2)は福音派全体の共通認識とは言えない。

(1)聖書を「信仰と生活の規範である誤りなき神のことば」と信じる

(2)聖書を「歴史的にも科学的にも誤りなき神のことば」と信じる


上記の【いのちのことば社物語3】の表現は微妙だが、基本的には(1)の主張と読める。(2)とまでは言っていないようだが、そう言う人たちにも配慮した表現だろうか。

(1)を聖書無謬論、(2)を聖書無誤論と呼んで、言葉を使い分けることもある。
私もこの使い分けに従い、無謬論と無誤論とを分けて考えてみる。

(1)の無謬論は、信仰と生活の規範として聖書は無謬だという主張である。唯一と言えるかどうかはともかく、聖書は無謬の規範であると言えば、多くのカトリック教徒も納得するだろうし、主流派の(リベラルな)プロテスタントの中にも賛成する人がかなりいるだろう。
この見解なら、福音派も、主流派も、カトリックも、そう遠くないということになる。

(2)の無誤論だと、聖書は歴史的にも科学的にも誤りはない、となる。字義通りの無誤論だと、たとえば、次のような話になる。
「天地創造は紀元前4004年頃の6日間に実際にあった。地球も太陽も月も星もその6日間に出来た。すべての生物はこの創造のときに完成した状態で造られた。進化などない。」(※付記、参照)

私は、現代の科学研究や歴史研究は絶対だとは言わないが、大筋では、かなり正しいところまで接近しているのではないかと思っている。古代人や中世人はともかく、現代人が(2)を受け入れるためには、今日の科学や歴史の研究を、かなり否定しないといけなくなる。


(1)は福音派の立場
(2)は原理主義の立場

と考えていいだろう。(2)も「福音派」と名乗り、福音派の団体に加盟していることもあるから注意が必要だ。原理主義者の一部は、カルト化したり陰謀論になったりしている。
ただし、中間的な人たちもいるから、(1)と(2)は、はっきり線引きはできない。
(なお、日本の福音派の団体が公式に表明した見解の中に(2)に近い考えが見られることを、私は危惧している。)


「学問(神学や科学)よりも信仰を重んじる」とか「神を信じるのでなく聖書を絶対視する」といった言葉で福音派が揶揄されると言うが、揶揄や偏見ではなく、実際にそう言われても仕方のない人たちがいる。
「信仰を重んじる」というより、信仰と称する先入観を重んじ、「聖書を絶対視する」というより、聖書から独自に導いた自分たちのイデオロギーを絶対視する人たちだ。「聖書信仰」と称し、現代の律法主義で人を縛り、支配しようとする人たちだ。
彼らは、違う意見にムキになって食ってかかってくる。そしてしつこく絡んでくる。いのちのことば社だって、そういう人たちがいることに気づいているだろう。だから『「信仰」という名の虐待』という冊子まで出して注意を促したのだろう。

(聖書信仰は)「キリスト教会の歴史を通じて受け継がれ、プロテスタント宗教改革によって再確認された」と言うが、では、宗教改革以前に、キリスト教会の歴史を通じて受け継がれたという聖書信仰はどこにあったのだろう? 当時のカトリック教会の中に? それとも異端派とされた人たちの中に?
宗教改革以前、福音派の教会はもちろんプロテスタント教会はなかった。プロテスタント教会がなかった時代に、正しい聖書信仰はどこにあったと言うのだろう?
これまでいろいろな人に質問してみたが、私は誰からも納得できる答えを聞いたことがない。

「神の霊感によって書かれた「神のことば」としての聖書に権威を認め、その事実性を重視して真理を追究する」と言うが、「その事実性」とは何だろう。
読みようによって、「聖書は神の霊感によって書かれ、神のことばであり、権威があるという事実」とも、「聖書に書いてある内容は事実」とも読める。後者なら(2)に近い。


(1)の立場で、「旧新約聖書に描かれた信仰の態度を踏襲」したいと願い、誠実な福音派の信仰に立とうとする人たちを、私は尊敬こそすれ、決して揶揄などしない。

(揶揄などしないが、納得できないことは、それは納得できないと申し上げる。)

(伊藤一滴)


※付記
上述の(2)の立場だと、さらにこうなる。
「アダムとエバも実在の人物で、エデンも本当にあった。アダムは実際に地のちりから造られ、彼のあばら骨からエバが造られた。これは事実である。エバは蛇から誘惑されて禁断の実を食べ、夫にも食べさせた。当時の蛇は本当に人間の言葉をしゃべって人間を誘惑した。みな、事実である。楽園追放も、カインとアベルの話も、カインの町も、ノアの箱舟も、バベルの塔も、ソドムとゴモラも、みな事実である。その他、聖書に書いてあることはみな事実である」
「新約聖書に書かれているイエスの超自然的な誕生も、奇跡の話の数々も、復活も昇天も、みな、文字通りの事実である」
「聖書にはっきり書かれているこれらの事実を、「神と人間との関係について古代人が表明した神話」とか「神話的な世界観の中に生きていた古代人の表現」などど言うのは間違っている。だから、かつての自由主義神学も現代のエキュメニズム派(主流派のプロテスタントやカトリック)も間違っている」

こうした(2)の立場だと、聖書の記述の中に多くの矛盾点が見られることの説明がつかなくなる。
矛盾はないということにするために、延々とつじつま合わせをする人たちがいるが、それでも矛盾は残る。それで、「聖書は原典において無誤である」(シカゴ声明)といった、苦しい説明が出てくる。
聖書の原典は、古代に失われている。今後、原典に近い写本が出土する可能性はゼロだとは言えないが、今は誰も原典を持っていないし、見ることもできない。そもそも、聖書のすべての文書に本当に原典があったのかどうかさえわからない。
誰も持っておらず、誰も見ることができない原典が、どうして無誤だとわかるのか?
それがわかるあなた方は神なのか?

それに、最近、私は思うのだが、イエスは人々に「聖書のつじつま合わせを延々とやること」を求めたのだろうか?
そんなことに自分たちのエネルギーを使うことを求めたのだろうか?
それが信仰にとって大事だと、イエスはおっしゃったのだろうか?
イエスを信じると言うのなら、もっと優先すべきことが他にあるのではないか?

福音書を読みながら、私は思った。
イエスが人に求めたのは、
心から神を愛すること、
自分自身を愛するように隣人を愛すること、
互いに愛し合うこと、
最も小さい人たちに手をさしのべること、
平和を求めること、
謙虚であること、
いつ神の国が到来してもいいように、日々、覚悟を持って生きること・・・、
もっとあるけれど、
こういったことだろう。

イエスが人々に求めたことを後回しにして、あるいは知らんぷりして、「聖書のつじつま合わせを延々とやること」を、正しい聖書信仰と言うのだろうか?

イエスを信じると言うのなら、イエスのメッセージに従うことこそが最優先だろう。

2022-06-23 掲載 そのまま再掲

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