« 朝日新聞beの校歌(爆笑) | メイン | 非神話化8の5・日常生活の中の十字架 »

非神話化8の4・聖礼典のうちにある十字架

先に書いたことと重複するが、ブルトマンは、正統とされる教義のある部分を批判し、別な部分は受け継いでいる。

批判するのは次のような考え方である。

イエス・キリストは天地創造の前からおられた先在的な神の子であった。イエスは罪なき者であったが、人間となって世に生まれ、十字架につけられた。彼はあがないの供え物であり、そして彼の流した血は我々の罪をあがなうのである。彼は私たちの身代わりとなって世の罪を担った。そして、彼が、罪の罰である死を引き受けることによって、私たちは死から免れることができるのだ。

ブルトマンによれば、こうした理解は「犠牲の表象と律法的な充足説とが混じっている神話論的な解釈」であり、「我々にとってはつき従ってゆけないものである」という。(『新約聖書と神話論』)

氏のこうした見解から、これも先に書いたことだが、「ブルトマンの言っていることは間違っています! 正統信仰に反します!」といった非難が出てくる。

その一方でブルトマンは伝統的な教義を受け継いでもいる。
ブルトマンは新約聖書を引用しながら、聖礼典(サクラメント、秘跡)の中にキリストの十字架と苦難は現存するのであり、それは単なる過去の出来事ではなく時間を超えたものだと言う。

「バプテスマにおいてわたしたちは、キリストの死のうちにバプテスマされ(ロマ6:3)、キリストとともに十字架につけられたのである(ロマ6:6)。聖晩餐において、その時々に主の死が告知されるのである(コリント前11:26)。聖晩餐をうくるものは、十字架につけられた体に、流された血に、あずかることである(コリント前10:16)。」(『新約聖書と神話論』)

上記引用は、用語の別の言い方と聖書の箇所の明示が必要だろう。

バプテスマ:洗礼のこと、教派によっては浸礼という。
バプテスマされ:洗礼を授けられるという意味。
聖晩餐:聖餐式、コミュニオンのこと。キリストの体であるパンを食し、キリストの血である葡萄酒を飲む儀式。その頻度は教派による。

ロマ 6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。

ロマ 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。

コリント前11:26 だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

コリント前10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。

(引用は日本聖書協会の口語訳による、以下同)

これらはみな、新約聖書に収められたパウロの言葉である。
ブルトマンは、パウロの見解のある面は批判するが、別の面は受け入れている。

(続く)

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、こちらから検索していただくと確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。