« イエスは何を求めたのだろう | メイン | 神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある(改訂版) »

性的少数者とキリスト教(再掲)

 

性的少数者といっても全人口比に対しての少数者であり、彼らの数が少ないということではありません。我々は、過去、認識不足によって、こうした人たちをさげすんだり、笑い者にしたりしてきました。私自身、幼い頃から聖書に接してきた人間ですが、私の中にも彼らに対する偏見がありました。社会的な認識不足の中にいたとはいえ、偏見を持って、差別に加担してしまった過去を申し訳なく思います。歴史的にみても、キリスト教徒による差別、偏見はひどいものであったと思います。

今日なお、性同一性障害について、キリスト教の側からの統一的な見解はないと思いますが、キリスト教的良心に従えばこうなるのではないかと思える答えが、下記にありました。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5929286.html

私はこれを読んで、胸が締め付けられる思いで、涙が出てきました。だいぶ前の記事ですが、今、どうしておられるのか・・・・。

福音派の立場からの、同性愛者に対する良識ある見解が次にあります。水谷潔氏がお書きになったもので、上記で知りました。

http://kiyoshimizutani.com/guideline

福音派と自称する原理主義者(ファンダメンタリスト)の中に、「同性愛は重大な罪だ、同性愛者は必ず地獄に行く」とか、「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きだ」とか、言う人がいます。目を覚ましてほしいと思います。

原理主義者らの妄言など、いちいち紹介してもしかたないのですが、良心的な福音派と狂信的な原理主義者が混同されては困ります。あたりまえの感覚を持つ福音派は、苦しむ人に寄り添い、共に祈る人たちです。

カトリック教会は、「同性愛者」と「同性愛行為」を分けて考えています。現代のカトリック教会は、同性愛者を排除したり差別したりすることに断固反対しながらも、教義として「同性愛行為(同性同士の性行為)は容認できない」と言っています。(なお、性同一性障害は同性愛とは別であり、この障害について広く知られるようになったのは近年になってからです。性同一性障害についてのカトリックの正式な教義は見たことがありません。)

同性愛についてひとたび教義として定めてしまったことを、簡単には変えられないのでしょう。でもこれは同性愛者を人として断罪するものではなく、同性同士の性行為は、教会として(公的には)容認できない、という見解です。避妊具の使用は性行為を生命の恵みから遠ざけるものであるから教会として(公的には)容認できない、という見解に通じます。カトリック教会の公式見解を文字通り読めば、同性愛者には性的禁欲が求められる、ということになります。一般民衆は、司祭や修道者とは違うのですが・・・・。

過去はともかく、現代のカトリック教会は、同性愛者に寄り添う姿勢を示し、同性愛者の人権を尊重し、共に歩もうとしているのは明らかです。ただし、上記のとおり教義上の制約による限界も感じられます。

「性同一性障害の人や同性愛の人はカトリックの洗礼を受けられるんだろうか?」と、あるカトリック信者に聞いてみました。気の置けない人だからそんな質問をしたのです。そうしたら、「そんなこと教会に聞かないで、だまって受けちゃえばいいんだよ」との答えでした。なるほど。(もちろん個人的意見です)

日本基督教団の牧師で、自ら「ゲイ」であるという方の見解が載っていました。

http://life.letibee.com/christian-gay/

これは、考えさせられました。

(伊藤一滴)

2017-02-16 そのまま再掲

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。