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ブルトマンの「史実史」と「歴史」

私が高校生のときだったから1980年代の初めだったと思うが、「事実と真実は違う」という遠藤周作の言葉を問題視する人がいた。
「事実であれば真実であり、真実であれば事実だ。違うと言うのはおかしい」と。
おそらく、遠藤周作が言いたかったのは、「歴史的な事実」と「その人にとっての歴史的な真実」を分けて考えるべきだ、ということだったのだろう。
最近またブルトマンの本を読み出して、ふと、40年前のことを思い出した。
遠藤周作はブルトマンを意識して、「事実と真実は違う」と言ったのだろう。

ブルトマンは、著書『イエス』や『歴史と終末論』などで、まさに「史実史」と「歴史」とを区別する。「史実史」も「歴史」も人間の認識によるものであるが、簡単に言えば「史実史」は客観的事実として認識できる史実を述べたものであり、「歴史」はその人にとっての真実だ、ということのようだ。この意味で歴史は実存史とも言える。「史実史」は、第三者的に過去の事実を述べた事柄であるけれど、ブルトマンが言う意味での「歴史」は、その人の現在にかかわる「過去との対話」なのだ。

具体的な例を挙げればこうなる。
「今から約2千年前、パレスチナの地にイエスという男がいて、教えを宣べた。彼を支持する人たちもいたが、強く反発する人たちもいた。ポンティウス・ピラトゥスがユダヤの総督だったとき、イエスは処刑杭(後に十字架と呼ばれるようになった刑具)に磔にされて殺された」
この事実は「史実史」に属するが、もし誰かが、
「イエス様の十字架の死によって、私は罪と死から救い出されました」
と言うならば、それはその人にとっての「歴史」であり、その人から見た真実である。それは、その人の現在の生き方につながるものであり、終わってしまった過去の出来事ではない。

ブルトマンの言葉の使い方が特殊なのだ。世間一般は、史実史のことも歴史と呼んでいる。
非神話化論への誤解が多いのは、ブルトマンの用語の意味を読み取らず、彼の言う「歴史」を、「史実史」と混同する人が多いのも一因ではなかろうか。

クリスチャンの中にも上記の意味での「史実史」と「歴史」との混同が見られる。自分にとっての「歴史」を「史実史」と同一視している人がいる。

(思索の途上です。)

(伊藤一滴)

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