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神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある(改訂版)

聖書の中の矛盾点についてわかりやすく書いてある本はないだろうかと探していて、アメリカの新約学者バート・D・アーマン(Bart D.Ehrman)氏の著作に出会いました。氏の著書『捏造された聖書』、『破綻した神 キリスト』、『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』等は、日本語訳も出ています。

アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也氏訳)の中に、
「神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある」という、
この3つが3つとも成り立つのかという問いが出てきます。

2つなら、成り立つでしょう。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある

仮に、1をバツにしてみましょう。
「神は愛であるが、神は全能ではない、だからこの世には苦しみがある」
矛盾のない文が成り立ちます。ただし、キリスト教の説く神は全能なので、1をバツにはできません。

仮に、2をバツにしてみましょう。
「神は全能であるが、神は愛ではない、だからこの世には苦しみがある」
恐ろしい神様です。これも文としては矛盾なく成り立ちますが、愛でない神もキリスト教の教えに反します。

仮に、3をバツにしてみましょう。
「神は全能であり、神は愛である、だからこの世に苦しみはない」
これも文としては成り立ちますが、事実ではありません。この世には多くの苦しみがあります。「苦しみはその人を向上させるための試練」といった理解が成り立たないような、大変な苦しみもあります(※1)。


私なりの考えで4を付け加えてみます。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある
4.そして神は無力である

当然、1と4は両立するのか、と問われることでしょう。
「聖書にこう書いてある」といっても、解釈のしようで何とでも言えます。聖書を引用してまるで正反対のことも言えるのですから。聖書から導く見解は、理屈のつけようでどうにでもなるのです。
私は、次のような理屈も可能ではないかと思います。


キリスト教における神の全能とは、神のいつくしみにおける全能のことである。神は、全能のいつくしみで人の心に働きかけてくださる。私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならばどう応えるのか、それが問われている。
旧約の昔、神は天から声を発したり、預言者を用いたりして直接的に民に語りかけておられた。また、世に対し、人に対し、直接の行動をなさっておられた。しかし、イエス・キリストの受洗以降、父なる神からの直接の語りかけや直接の行動はほぼなくなった。
キリスト以降の神の全能とは、政治や社会や軍事等における全能ではなく、病気や怪我やさまざまな事故や困難から人を守ってくれるような全能でもない。そういった面で、神は無力だ。キリスト以降の神の全能とは、超自然的な全能ではなく、いつくしみにおける全能であり、いつくしみを感じた人間に決断をせまるものなのだ。人が神に従うとは、超自然的な力にたよることではなくて、神の働きかけに対し、イエスのメッセージに聞き従うという形で、日々、決断し、応えていくことなのだ。

神にどこまでも従うなら、排除されたり、仕事を失ったり、場合によっては命を失うかもしれない。
神に従うには、その覚悟がいる。そうやって、神に従うことが信仰なのだ。

神は無力だ!

キリスト教信仰は、豊穣、金運、繁栄、安全、無病、試験合格、良縁などを招くものではない(※2)。現世の御利益(ごりやく)とは凡そ無縁である。また、キリスト教信仰は、天国行きを目的としたものでもない。天国に行きたいから信仰するというなら、天国に行くことが信仰の目的となる。天国に行くという御利益を目的とした信仰になってしまう。それは、天国に行きたいから免罪符を買うのと変わらない。
キリスト教信仰は、御利益のための信仰ではない、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。

神の国を、救われた人が死後に行く別世界のように考える人が多いが、神の国は別世界ではなく、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。「ここにある、あそこにある」というものではなく、まさに「内にある」ものなのだ。

どうですか、これで。

(伊藤一滴)


※1 20世紀になってからだって、アーマン氏も述べておられるナチスの大量虐殺をはじめ、数々の無辜の死がありました。今だって、この世界には深刻な問題の数々があり、戦争や紛争も止まず、飢餓に瀕したり、むごく殺されたり、深い傷を負ったり、重い病や障害で苦しんだりする人たちがいます。「その人を向上させるための試練」なんて言えない苦しみもたくさんあります。

※2 ただし、場合によっては良縁を招くこともあります。教会やキリスト教の集まり、キリスト教系の学校、ボランティア活動などで出会い、結婚なさった方々もおられます。カルト思考原理主義者(自称「福音派」やエホバの証人、統一協会等)は別として、一般のキリスト教系の団体や集まりで出会い、幸せな家庭を築いた方々は多数おられます。まあ、そういう夫婦の多くは、儲かる人生ではないでしょうけれど。


追記:まず、日本語訳が出ているバート・D・アーマン氏の著書『捏造された聖書』を読み、『破綻した神 キリスト』と『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』を読みました。どれも、すこぶる読みごたえのある本でした。
著者のアーマン氏が自分で言っておられますが、かつて氏は熱心なキリスト教原理主義者で、原理主義の教えをかたく信じていたそうです。聖書の無誤無謬を信じ、ムーディ聖書学院で学んだ後に福音派の大学に進んだ筋金入りの人でした。そのアーマン氏が徹底的に聖書を学ぶ中でどのように目を覚ましたのか、上の3冊はその記録でもあります。もちろん、どれも学問的な検討を踏まえたものです。

氏は、福音派と称する中でも特に保守的な原理主義者でしたから、徹底した聖書研究で聖書の成立と写筆の真実を知り、それまで信じてきたこととのギャップに苦しんだのです。それ以上に、神は全能で愛だというなら、なぜこの世に耐え難い苦しみの数々があるのか、答えられなくなってしまったのです。もし、もっと柔軟で穏健な福音派だったら、リベラルな主流派だったら、カトリックだったら、果たして、信仰を捨てたでしょうか?
氏が拒絶したのは、聖書の文字面をを文字通り信じ「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る硬直化した原理主義的「信仰」ではなかったのでしょうか。

氏ははっきりと「信仰を捨てた」とおっしゃるのですが、福音書に記されたイエスの隣人愛の教えが、氏の著作からひしひしと伝わってくるのを感じます。アーマン氏は良心的で、隣人愛を重んじる人なのでしょう。だからこそ、「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る「信仰」を捨てたのでしょう。
聖書の文字から「罪の意識」と「地獄の恐怖」導きだして人を脅し、人を縛るのは、まさに、文字による束縛です。それは現代の律法主義、現代のファリサイ派(パリサイ派)です。


福音書や使徒行伝の時代の人たちは「人にはできないことも神にはできる」と考えました。でもそれは、その時代の考えです。現代を生きる私は「人にできないことは神にもできない」と考えています。
もう神の超自然的な力に頼るのはやめにして、「神のみこころは人を通して為される」と考えてはどうでしょうか。

クリスマスが来ます。
平和を祈りましょう。

人は自分の祈りの課題に向かって動きます。
私たちに求められるのは、祈りと、祈りの課題へ向かう現実的な行動なのでしょう。

2021-07-05 掲載分を改訂

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