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自然の中に感じる神様からのメッセージ

今、私市元宏(きさいち もとひろ)著『聖霊に導かれて聖書を読む』(新教出版社1997)という本を読んでいます。それほど厚い本ではありませんが、内容が濃くて、なかなか読みごたえのある本です。※1


この本に書いてある「第二の聖書」という箇所を引用します。(23頁)
「第二の聖書」と言っても、特殊な考えの人が書いた聖書以外の正典とかの話ではないです。


引用開始

第二の聖書
 ところで「第二の聖書」という言葉を読者はご存知でしょうか。この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉です。神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられる。いわば、自然は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」(the Second Bible)であるという意味です。この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言い表わしていると思います。なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。人はいわば聖書と共に自然を「読ま」なければなりません。神をよりよく知ろうと思うならば、聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことが必要なのです。この場合、自然は、活字になっている聖書のテキストと同じくらいに重要な意味を持ってきます。すなわち、自然という「テキスト」を読むのです。このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが「第二の聖書」の意味なのです。

引用終了


私、一滴も思うのですが、「神が天地を創造なさったのであり、自然界の万物は神の被造物である」というなら、自然の中に神様からのメッセージを感じるというのは自然な感覚でしょう。

「信仰の論拠は文字で書かれた聖書66巻だけです。自然の中に神様からのメッセージを感じるといった考えはアミニズム的な発想であり、正しいキリスト教ではありません」みたいなことを言う人がいました。有名な大学の文学部の学生でしたね。
私は、アシジのフランチェスコや井上洋治神父の言葉を引用したりしながら、自然の中に感じられる神の働きの話をしたんですが、その人には全く通じませんでした。どう言っても、ことごとく、そういう考えは正しいキリスト教に反すると否定されただけでした。まるで、鋼鉄の甲冑で身を固めているかのようでした。そういう人、いるんです。

あとから、「読むべきものは聖書である、学ぶべきものは天然である、為すべき事は労働である」という内村鑑三の言葉を知りました。※2
「学ぶべきものは天然である」って、内村鑑三は、すでに明治時代に言ってたんです。もっと早くそれを知っていたら、あの大学生に紹介したかったですね。

そう言えば、ターミナルケアの先駆者であるエリザベス・キューブラー・ロスも、大自然こそ神について教えてくれる偉大な教師であるという意味のことを書いてましたね。視野の狭い牧師たちは正しく神を伝えないが、大自然は正しく伝えてくれるって。

(伊藤一滴)


※1 私市元宏『聖霊に導かれて聖書を読む』は現在絶版のようですが、ネットで無料で読めます。

http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/kowaindex.htm

まずここを開くと、「現代および未来へ向けて」というのがあって、そこに「聖霊に導かれて聖書を読む」があります。


※2 内村鑑三「聖書之研究」(明治41年)にこうあります。

引用開始

読むべきものは聖書である、小説ではない、政論ではない、然り、神学ではない、聖書其物(そのもの)である、神の言(ことば)にして我が霊魂の声なる聖書である、聖書は最も興味深き最も解(げ)し易(やす)き書である、世々の磐(いわ)より流れ出づる玉の如き清水である、之を哲学的に解釈せんとせず、之を教会の書として読まず、神が直接に霊魂に告げ給ふ言として読んで、聖書は其(その)最も明瞭なる意味を我等(われら)に供給する、我等はすべての物を読むのを止めても、然り、時々すべての物を読むを止めて、一意専心聖書を読んで之をして我等の霊魂を活き復(かえ)らしむべきである。

学ぶべきものは天然である、人の編みし法律ではない、其(その)作りし制度ではない、社会の習慣ではない、教会の教条(ドグマ)ではない、有りの儘(まま)の天然である、山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、獣である、是(こ)れ皆な直接に神より出で来りしものである、天然は唯(ただ)天然ではない、神の意志である、其(その)意匠である、其中に最も深い真理は含まれてある、天然を知らずして何事をも知ることはできない、天然は智識の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。

為すべき事は労働である、口を以てする伝道ではない、筆を以てする著述ではない、策略を以てする政治ではない、手と足とを以てする労働である、労働に由(よ)らずして智識以上の智識なる常識は得られない、労働は労働としてのみ尊いのではない、信仰獲得井(ならび)に維持の途(みち)として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、キリストに於ける信仰は文に頼(たより)て維持することは出来ない、語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄る者である、福音は神学ではない労働である、聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である、労働なくして身は飢え、智識は衰へ、霊魂は腐る、労働を賤む者は生命を棄る者である、労働是れ生命と云ふも決して過言ではない。

引用終了

今の私は、山形県の山間部に住む兼業農家です。
自分自身が天然自然の中に身を置いて、聖書を読み、農作業をし、思考する日々ですから、「第二の聖書」も「学ぶべきものは天然である」も、とても心に響きます。

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