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『戦争という仕事』(2007-02-20 掲載を再掲)

内山節『戦争という仕事』[信濃毎日新聞社2006]を読みました。
近年読んだ本で、これほど深く共感した本は他にありません。
現代社会の現実を、ずばっと指摘しています。

これは、要約できない本です。
だから、要約して紹介することができません。
要約というのは、大事な点のおおよそを短くまとめることですが、この本はどの箇所も緻密な論考で、省いてもいいような箇所がないのです。
題名から戦争の話を連想するのですが、戦争という仕事(そういう仕事が成り立つこと自体、おぞましいことですが)は、最初の章に出てくる話で、あとは、政治という仕事、経済という仕事、自然に支えられた仕事、消費と仕事、資本主義と仕事、社会主義が描いた仕事、近代思想と仕事、基層的精神と仕事、と、仕事についての話が続き、最後に、破綻をこえてという話になります。

前にもちょっと書きましたが、著者は哲学者で、立教大学大学院の特任教授、「1年の半分近くを群馬県の山村で暮らし、自ら農業を営みながら思索を続ける著者」(朝日新聞2006.11.19の書評)だそうです。
私はこの書評で見るまで内山節氏のお名前も知らず、お書きになったものを読んだこともありませんでいた。しかも我が家は、小さな子どもたちが大騒ぎする毎日ですから、1冊の本を一気に読み通すこともできず、やっと読み終えたのはつい先日です。これまで氏の影響を受けようもなかったのです。だのにまあ、現代社会に対する批判もそうですし、「自然(じねん)」とか、「おのずから」とか、私の好きな表現もいろいろ出てきます。山里に暮らし畑仕事などする人は、発想が似てくるところがあるようです。

私でさえ、現代の正体にある程度は気づいていたつもりですが、この本のおかげでますます見えてきたように思えます。入手も閲覧も容易にできる本ですから、関心のある方はぜひご覧になってみて下さい。

要約できない本ですから、以下は、要約ではありません。この本を読みながら、私が個人的に思ったことです。

現代の諸問題の中には、人の暮らしが自然と向き合う暮らしでなくなったために生じたものが、少なからず存在すると思います。それと、伝統的な暮らしから切れてしまったことによる問題の発生です。
この本に詳しいのですが、生活の変化も問題の発生も、なるべくしてそうなったのです。

完全に理想的な社会、経済、政治の制度など、未来永劫実現しないのかも知れません。
しかし、私は、今では廃れつつある農村・山村の伝統的な共同体や自然と共にある暮らし(あるいは、そうした要素を取り入れた暮らしや、そうした暮らしを志向する暮らし)の中に、みんなが幸せに生きていくためのルールや、みんなが幸せになるための仕事の一面を見るような気がします。
それが完全だとか、すべて理想的だとか、言いませんけれど、ある面、すぐれたルールや人の役に立つ仕事が存在すると思うのです。逆に言えば、近代的な科学文明、産業文明、都市文明、合理主義といったものは、万年単位の歴史を持つ人類のルールをぐちゃぐちゃにした、人の役に立たない仕事を増やしすぎた、とも言えます。

農村・山村の伝統は、長い間のならわしのようなものです。自然の中で生きてきた人たちの相互扶助的な風習であったり、その地域の必要性から生じた仕事であったりするのですが、こうしたものは、ひところ前まで、遅れているとか田舎臭いとか言われ、嘲笑されることもありました。田舎のルールや仕事の根底には、素朴な信仰心や自然讃美、素朴な誠実さもあったと思うのですが、それらもまた嘲笑の対象にされました。

私が幼かった頃(昭和40年代)、当時の高齢者はよく言っていました。
お天道様はありがたい、とか、
雨の恵みはありがたい、とか、
もったいないよ、そんなことをしたらバチが当たるよ、とか。
その後、こうした言葉をあまり聞かなくなったのですが、近年また一部の人から再評価されてきているようです。

私が福祉大学へ進学し愛知県内で一人暮らしをするようになったのは1980年代半ばですが、山形県に生まれ育った私は、どうしても田舎の言葉や雰囲気が出てしまい、それを恥じました。福祉の学校ですから、地方出身者への意図的な差別などありませんでしたが、つい方言が出たりすると「えっ」という顔で見られることがあり、恥ずかしい思いをしました。自分が地方出身なのが劣ったことに思え、私はなめらかな標準語を話すように心がけ、田舎者と思われないよう気をつけたものでした。
それが今ではスローライフだのロハスだのといった言葉が話題にのぼるようになり、何かかっこいいものであるかのように言われます。かっこいいかどうかはともかく、失われつつあるものを見なおそうという動きが出てきています。時代の変化を感じます。

80年代はまだ産業の発展を肯定的に考える人が多かったと思います。その後、時代は変わり、今は産業の発展と言われてもバラ色のイメージはなく、むしろ限界や弊害の指摘が多くなりました。
実際、産業は高度化し、仕事はつまらなくなりました。高度化、細分化され、万事が複雑化した中で自分の仕事の意味も見えにくく、企業も官庁も社会全体も、産業が供給する物品やシステムに組み込まれ、個人の意思の反映も難しいし、苦労して身につけた技術もたちまち古くなってゆきます。これでは、世の中に不満がくすぶって当然です。
しかも、未来が不安です。経済が、社会がどうなるのか、環境がどうなるのか、不安です。こうした現状への批判や反省も出てきているのだろうと思います。

私も妻も、たぶん子どもたちも、山里の暮らしにここちよさを感じていますが、それは、自然も人も、昔の面影が残っているからでしょう。
自然に接し、人に接し、自然と人、人と人とが自然(じねん)と生きる方向を目ざした方が暮らしやすい、というのが私の体験からの実感でしたが、『戦争という仕事』を読み、ますますその思いを深めました。
私自身、まだまだ手さぐりなのですが、自然の恵みの偉大さや伝統的風習の価値が、だんだんわかってきたように思います。
「自然は完全なものとして完成している」というのは、自然農法家の福岡正信さんの言葉ですが、この完全なものである自然こそ、私たちの最高のお手本ではないか、この自然の恵みに感謝しつつ、自然と調和して生きる生き方こそ、真の意味で最も暮しやすい生き方ではないか、と思えます。
高度化した産業は遠からず黄昏(たそがれ)を迎えることでしょう。産業の恩恵よりもこれまでの産業のツケの方が大きい苦難の時代が、50年続くか、100年続くか、もっと続くか、私にもわかりませんが、産業がだんだんに行き詰まってゆく中で、自然に学び、自然と調和して生きようとする人が少なからず現れるだろうと思います。そこに、希望もあります。

今後も私たちは、山里の古民家に身を置いて、じねんと生きる方向を目ざしていこうと思っています。(伊藤)

2007-02-20 掲載
文字を大きくし、文はそのまま再掲


以下、2023年9月15日 追記
上記は、東日本大震災の4年前に、私、伊藤一滴が書いた文章です。
「高度化した産業は遠からず黄昏(たそがれ)を迎えることでしょう。産業の恩恵よりもこれまでの産業のツケの方が大きい苦難の時代が、50年続くか、100年続くか、もっと続くか、私にもわかりませんが、」なんて書いてます。まるで原発事故の予言のようですが、原発に限らず、これまでの産業のツケは長く続くだろうと思います。
「産業がだんだんに行き詰まってゆく中で、自然に学び、自然と調和して生きようとする人が少なからず現れるだろうと思います。そこに、希望もあります。」とも書いています。今も、この気持ちは変わりません。「自然は完全なものとして完成している」(福岡正信)という言葉に賛成なのも変わりません。

9月半ばになっても猛暑が続く山形県の山里にて
(ただし、真夏でも朝晩は涼しいのが山里住民の救い)

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