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翻訳された聖書を読むときや聖書を訳すときの留意点

インターネットのクリスチャントゥデイ(※)に載っていた次のコラムを読みました。

「聖書をメガネに 聖書翻訳の課題―榊原康夫先生に学ぶ」宮村武夫
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24556/20171007/seisho-wo-megane-ni-98.htm


宮村武夫氏は、榊原康夫氏の著書に学び、また直接榊原氏に接して学んだ方ですが、そのことをふまえ、翻訳された聖書を読むときや聖書を訳すときの留意点を述べておられます。

この宮村武夫氏の見解を読み、すごく納得しました。
以下に引用します。


引用開始

1つの訳を絶対化して他の訳を軽視したり無視したりしない。互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく地味な歩み、これこそ説教への準備として大切との平凡な指針とその実践です。(略)

今、私は、3つの点に意を注いでいます。

 1.この訳語や訳文は、絶対に認めてはならないものがあるかどうか。あるとすれば何か。

 2.この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがあるかどうか。あるとすれば何か。

 3.1はそれぞれ大変な労力を払って営われている聖書翻訳においてはごく限られていると推察されます。また、2も他の訳語や訳文を押しのけて絶対的に提示する必要があるというのも、案外限られているのではないかと予測されます。つまり、大部分の場合はあれでもよい、これでもよい。どちらがより良いか、絶対的ではなく相対的な課題である。
この3点を互いに了解できるならば、1つの委員会訳を求め決定する道は、自ら開かれるのではないか。

引用終了


つまり、こういうことでしょう。
日本語に翻訳された聖書を読む場合、「1つの訳を絶対化して他の訳を軽視したり無視したりしない」「互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく地味な歩み」が大切である。
牧師であれば説教の準備として大切だろうし、牧師でなくても、そういう読み方が大切でしょう。

ただし、「他の訳」の中にはひどいのもあるんで(特にナイダ理論の影響を大きく受けた訳)、ほぼ全章全節が誤訳のような特殊な「訳」は最初から除外し、大きく見ればちゃんと訳された聖書をそろえ、それらを「互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく」べきでしょう。

日本語に訳された新約聖書で、おすすめのものを前回載せました。

他に、

明治元訳、
正教会訳、
天主公教会(カトリック)のラゲ訳、
永井直治訳、
キリスト新聞社版口語訳、

なども、私が思うに、見事に訳された新約聖書です。

特に、戦前の正教会訳、公教会訳はそれぞれ、言葉の美しい文語体です。


1.今後、聖書を訳すのであれば、原語から訳すのはもちろんですが、これまでの訳を比較した上で、「この訳語や訳文は、絶対に認めてはならない」もの(明らかな誤訳)は排除する。

たとえばルカ5:10「「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(口語訳)など、絶対に認めてはならない訳文です。原文に「漁師」なんて語はないのですから。ここを訳すなら、単に「人間を捕るようになる」または「人間を捕る者となる」でしょう。「漁師」という存在しない言葉を使った訳は駄目なのです。ルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうが、殺すのではなく生け捕るようになると言いたくて、あえて漁師という言葉を使わなかったと考えられます。マルコの文やマタイの文につられて誤訳してはいけません。ルカはルカの視点で書いてるんです。

1ペトロ(=ペテロの手紙第一)4:6「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。~」(新改訳2017)も絶対に認めてはならない訳文です。「生前」なんて語は原文にありません。これは、セカンドチャンス否定論者が原文を改変した訳です。意訳として許される範囲を超えています。意訳はなるべく避け、特に、議論のある箇所は、自分たちの主張に沿うよう変えたりせずにそのまま訳すべきです。

2.「この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがある」場合、欄外に「〇〇訳による」明記した上でその訳語や訳文を紹介する。
私が思うに、たとえば田川建三訳に出てくる「創成の書」とか「月化」とか。こうした訳を踏まえて、「生涯の書」とか「月光病」とか訳すのも可能かと思います。

3.どの訳も同じように訳している箇所は、原語と照らし合わせた上で、原則、それに従い、より良い文を採用する。
(ただし、マタイ1:1の「イエス・キリストの系図」とかマタイ5:3「こころの貧しい人たち」みたいに、どの訳も同じように誤訳している例もあるので、注意が必要です。これらを訳すなら「イエス・キリストの生涯の書」あるいは「誕生と生涯の書」、「霊において貧しい人たち」あるいは「霊的に貧しい人たち」でしょう。)

実は、今、榊原康夫著『新約聖書の生い立ちと成立』(いのちのことば社 昭和53年)を読んでます。榊原氏は新改訳聖書の翻訳や新聖書注解の執筆にも加わった福音派の先生です。

榊原氏は、福音派の信仰にとって都合がいいかどうかで判断していません。そんなの、学問として当たり前でしょうけれど、私は、福音派を称する人の中に、都合のいいことを事実とし、都合の悪いことは無視する人がいるのを見てきました。「そういう考え方は学問的ではないです。おかしいです」って私が言うと、「信仰は学問ではありません。学問的に聖書を読もうとするほうが間違った聖書の読み方です。聖書は信仰的に読むものです」って、言い返されましたね。

ネットで「榊原康夫」と検索して、上記の宮村武夫氏の記事に出会いました。この宮村氏も、誠実に論じておられ、紹介したい記事なので引用しました。

聖書に誠実に向かい合おうとするなら、教派は関係ないです。私は、福音派でもカトリックでも、関心があれば話を聞きますし、書いてあるものを読みます。

やっと、B・M・メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』(聖文舎 1973年)を入手して、読んでます。旧版ですが、すこぶるおもしろいです。
す・こ・ぶ・る!
日本キリスト教団出版局の新版は持ってません。絶版だし、古書も高くて。

(伊藤一滴)



ウィキペディアで「クリスチャントゥデイ」を調べるとこう書いてあります。
「2004年6月、クリスチャン新聞編集長(当時)の根田祥一が韓国のオンライン新聞News N Joyの記事を主な情報元とするとして、福音派の教団連合組織である日本福音同盟(JEA)に「クリスチャントゥデイは統一協会と関係がある」との提供をした。」

キリスト新聞(電子版)にはこう書いてあります。
http://www.kirishin.com/2018/01/27/10665/

クリスチャントゥデイの開設者・経営者について、キリスト教の異端・カルトではないかと疑う人たちがおり、クリスチャン新聞や日本基督教団まで見解を出しています。

それは開設者・経営者について言われていることで、否定する見解もあり、真相は闇の中です。
記事の執筆者や編集者が異端・カルトを疑われているのではありません。私が読んでも、まっとうな記事が多いです。

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