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聖書の非神話化

かなり誤解されているようですが、聖書の非神話化は、聖書の中の神話的な部分を削除することではありません。神話として表現されたことがらの実際の意味を解明しようとする試みです。 

「聖書の教えを単なる神話と見なして否定する考えだ」みたいなことを言う人もいますが、それは二重の誤解です。

1.非神話化論を聖書の教えの否定だと考える誤解

2.神話とは、古代の間違った考えであり、水準の低いものだ、という誤解


まず、2の話からします。
たしかに、神話という言葉が、「~に対する根拠のない思い込み」や「思い込みによる間違った考え」という意味で使われることがあります。「安全神話」とか、「原子力神話」とかです。これは、本来の意味と違う用法なんですが、こっちの使い方が広まって、「神話=根拠のない間違った考え」みたいなイメージでとらえられてしまうのです。他力本願とか、御題目とか、本来の意味とは違う悪い意味で使われるのと似ています。

古代人は私たちとは違います。地球が丸いことも、地球が太陽の周りを回っていることも知りませんでした。病原菌やウイルスの存在も知らず、病気を悪霊の働きと考えたり、悪霊のように体に入って来るものと考えたりしていた人たちです。
私たちが知るような科学を知らなかったのです。それは、科学的な事実が解明されていなかったからであり、古代人の知的な水準が低かったのではありません。古代人は、古代人の暮らしの中でさまざまな経験をしながら認識や存在を問い、考えたのです。この世界とは何か、人間とは何か、人が生きるとはどういうことなのか・・・・。古代人は思索を積み重ね、それを当時の世界観の中で、神話として表現し、伝えたのです。

聖書に神話的要素があるのは当然です。
神話的な世界観の中で生きていた人たちが、当時の言葉で表現したのですから。


1の話になりますが、結論から言えば、非神話化論は聖書の教えの否定ではありません。

非神話化論は、ドイツのルドルフ・ブルトマンの著書『新約聖書と神話論』(1941年)で有名になりました。ブルトマンは20世紀を代表する神学者の一人であり、大著『共観福音書伝承史』を著した新約学者でもあります。彼は、ルター派教会の牧師の家に生まれ育った人で、彼自身クリスチャンでした。聖書の教えを否定する意図などまったくなかったことでしょう。

ブルトマンの主張の前提の一つは、古代人の世界観です。
新約聖書の著者たちは、当時の当然の認識として、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていました。

それは、現代の私たちが「誰それさんは天に召された(=亡くなった)」と言うときの「天」のような、この世とは次元の違う世界のことではありません。古代人は、具体的なものとして、空高く昇って行けば本当にそこに行きつく天界、地面の中に本当にある下界を信じていました。

そして、天の存在も下界の存在も地上を行き来して、人間に影響を与えると考えていました。
天使や悪霊の働きは当然の前提でした。

新約聖書が描くイエス・キリストは、そうした古代人の世界観で描かれています。

19世紀の自由主義神学は、新約聖書から神話的な要素を取り去ることで歴史的事実として存在したイエスを描こうとしましたが、結局は19世紀の時代の風潮やイエス伝を執筆する著者の見解が投影されたイエスが描かれただけで、正確な史的イエスを描くことはできませんでした。

まず、史料が少なすぎます。新約聖書以外の信頼できる文献は、ヨセフスやタキトゥスの記述などごくわずか。
新約聖書に書いてあるイエスにしても、神話的な世界観で描かれていますから、神話的な要素を取り去れば、ケリュグマ(宣教の使信)も捨ててしまうことになるのです。神話とケリュグマとは切り離すことができないのです。

現代人は、古代人のように神話をそのまま受け入れることはできません。今でも、聖書の神話を事実と信じる人もいますが、それが極端になれば硬直した原理主義になり、もっと極端になればカルト宗教になってしまうことでしょう。

神話とケリュグマは分けて考えるべきものですが、切り離すことはできません。分けないと、神話もそのまま信じないといけなくなって、非科学的だ、馬鹿げた教えだ、となります。でも、神話的世界観の中に生きていた人たちの証言から、神話の部分を切り離して除去するのは不可能なのです。

現代の人が、聖書を執筆した古代人の神話的な世界観をそのまま受け入れたらどうなるのでしょう。
聖書のどこにも細菌やウイルスの話は出てきません。でも、悪霊につかれた人の話はいくつも出てきます。
病気になった場合、細菌やウイルスの感染を疑うより、まず、悪霊の仕業ではないかと考えるのが聖書的な考え方だ、みたいな話になってゆくんです。医者に行くより悪霊を祓ったほうがいい、みたいな。極端な聖書信仰のカルト化です。

人が神によって造られたものなら、理性も神によって与えられたもののはずなのに、理性を犠牲にしないと成り立たない信仰が正しい信仰と言えるのか、と、私はずっと思っていました。

「リベラル派は信仰より理性を上に置いている」と言って非難する人がいますが、そのような非難のほうがおかしい。理性は神によって与えられたものではない、と言いたいのですか。あなた方の言う意味での「信仰」とは何ですか。古代人の世界観をそのまま受け入れることですか。

「人が救われるのは信仰によるのであって、行ないによるのではない」というのが、有名な信仰義認論ですけれど、理性の否定という行ないによって人は救われるのか、という話になってゆきます。

ブルトマンは、やはり、ルター派の伝統の中で育った人ですよ。

神話的な世界観で描かれた話をそのまま受け入れることはできないが、神話を除去すればケリュグマも捨てることになる。では、聖書をどう読むべきなのか。

神話的表現の中のケリュグマを解釈によって取り出す、という作業が必要になります。神話として表現されたことがらの実際の意味を解明しようとする試みです。
でもこれ、気をつけないと、かつての自由主義神学の二の舞になるおそれがありますね。つまり、現代の風潮や研究者の理想や主観が、解釈に入り込んでしまうおそれです。

ブルトマンは実存論的解釈と言うのですけれど、それは聖書学ではなくて、神学上の話です。

「一滴さん、あなたは実存論的解釈に立つ信者なのですか?」と聞かれたら、「はいそうです」とは言えません。言えるのは、「そういう説があることを承知しています」くらいです。

今のところ、私が納得できるのは、神話とケリュグマまでです。

「嘘も方便」のような「方便」を信じれば、信仰に入りやすいのかもしれませんが、方便を受け入れずに信仰とは何かを突き詰めようとすると、現代人にはなかなか厳しい道になるようです。

(伊藤一滴)


補足

科学が進み、さらに進んでゆく今の時代にあって、キリスト教が未来に進むためには非神話化論は避けて通れないだろうし、実存論的解釈のさらなる検討も必要でしょう。

実存論的解釈においては、神話は解釈するものであり文字通り受け入れるものではありませんから、マリアの処女懐胎はもちろん神話だし、奇跡も、イエスの復活も、みな神話である、となります。

聖書は、客観的にどうなのかではなく、私の実存としての聖書なのです。

史的イエス(歴史的に存在したイエス)を明らかにすることができないから実存論なのでしょうけれど、そもそも史的イエスについてほとんど何もわからないのに実存論を持ち出されても、煙に巻かれたような気になるんです。

歴史には史実と実存史がある、その人にとって意味があるのは実存史であって、たとえ史実でなくともその人には正しい、みたいなことを言われたら、それ、歴史修正主義とどう違うんだって思ってしまうんですよ。やはり、煙に巻かれてゆくような感じです。

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