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非神話化5・新約聖書におけるキリストの出来事

聖書やキリスト教に関しては、実に様々な考えがある。
私がここに書くのも、ブルトマンの著作などを読みながら、こうではないだろうか思った見解に過ぎない。わざと嘘を書いたりはしないが、私の読み間違いや思い違いもあるかもしれない。

グノーシス主義に関しても、よくわからない点も多い。ブルトマンは、新約聖書に見られるグノーシス主義の影響について語るが、それは、キリスト教界の一致した見解ではない。
ただ、広義のグノーシス主義はキリスト教の成立より前からあったことは、心に留めておいていただきたい。

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キリスト教の信仰とは何だろう?
「イエス・キリストを信じる」ということか。

では、信仰の根拠は何だろう?
新約聖書に記された「キリストの出来事」だろうか。

何度も言うが、新約聖書が描くイエス・キリストは「ケリュグマのキリスト」であって「史的イエス」ではない。新約のキリストは、史実のイエス、史実風の創作、当時の神話など、いろいろな要素の混合であり、それらははっきり分けられないくらい混じり合っている。

新約の執筆者らは嘘と知りつつ嘘を書いたのではなく、「イエスはキリストである」と信じ、当時の表現で証しをしたのだ。
話のどこまでが史実なのか分けようとするのは、聖書学的にはともかく、キリスト教信仰においては意味がない。
キリスト教はごく初期からイエスを神話的な人物として描いてきた。新約聖書が描くキリストの出来事の全体が神話的なのは当然だ。当時の人々はみな神話的な世界観の中に生きていたのだから。

イエスはキリストである。イエス・キリストは天地創造の前からおられた先在的・天的なお方、神の子である。時が来て、聖霊によって処女からお生まれになり、我々のために十字架で苦しみを受けて死に、葬られ、死からよみがえり、天に昇り、やがて救いと滅びの審判のために再臨される。

新約聖書が描くこうした表象はみな神話的だ。
古代においては、キリスト教の成立時のみならず、人々はみな神話的であったのだ。神話は他の民族・文化にも広く見られるものであり、聖書だけの特別なものではない。

ブルトマンはこう言う。
「とくに、人類を贖うために、先在の神の子が仮の人間の姿をとって世に降ったという考え方は、グノーシス的な贖罪の教義の一部であり、何人も、この教義を神話論的と呼ぶことをためらうものではない。」(『キリストと神話』)

イエス・キリストの受肉と救済というキリスト教の教義の骨格さえも、キリスト教のオリジナルではなく、グノーシス主義の贖罪の教義に由来する神話論的なものである、ということになる。

イエス自身も神話的な世界観の中にいた。イエスを信じた人たちも同様であった。
この、神話的なキリストは、私が思うに、史実や創作や神話などが混じり合って、それこそ布のように織り込まれたキリスト像だ。
それは本当に一枚の布のようで、分けられない。無理に分けようとすれば裂けてしまい、布として使えなくなる。ちょうど、そんなイメージだ。

(続く)

(伊藤一滴)

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