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神は無力 アーマン著『破綻した神 キリスト』(再掲)

アーマン著『破綻した神 キリスト』の問いはあまりにも重く、考えながら、ゆっくりゆっくり、時間をかけて読みました。


この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか?
「その人を向上させるための試練」では説明のつかない大変な苦しみがあるのに、神はなぜ沈黙しておられるのか?

聖書の著者たちは、苦しみの意味に答えようとしているのですが、その見解は聖書の各書によってまちまちで、聖書全体を貫く統一の見解などありません。アーマン氏は、旧約聖書の古典的見解、預言書に示された見解、黙示思想の見解など、ていねいに検討した上で、それぞれは一貫性もなく、また現代人が納得できるような答えになっていないと論破するのです。

博識のライプニッツの「神義論」でも説明がつきません(微積分学で知られるあのライプニッツです)。何百年議論を重ねても、この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか、みんなが納得できるような答えは見つかりません。

私、一滴は、「神は無力だ」としか言いようがないのではないか、と思っています。


ラジオで、被爆者の話、満洲から生還した人の話など聞いた時、やはり「神は無力だ」と思いましたし、現在(2023年12月)のウクライナやパレスチナのガザや、世界の多くの地域で、「神は無力だ」としか言いようがないような現実があります。

結局のところ我々は、「コヘレトの言葉」(=伝道の書)にあるように、空(くう)の空、空なるかな、一切は空なり、という思いで、自分の人生を楽しむしかないのでしょう。ただし、この世界の各地に今も苦しむ人たちが多数いることを忘れずに。そして究極の理想としては、世界がぜんたい幸福になることを願いながら。だって、世界がぜんたい幸福になることを願ったほうが、自分自身も幸せに向かって歩めるのですから。

ユニセフや赤十字や、難民支援団体、海外援助団体等に寄付したところで、個人の寄付など焼け石に水なのはわかっています。わかっていますが、やもめのレプタのように一灯を捧げることに意味があると思うのです。ただの自己満足だろうと言う人もいますが、どうでしょう。わずかでも捧げれば、それが一滴一滴の集まりとなるわけですし、意識がそちらに向かうのですから。


アーマン氏の姿勢はまさに、自分の人生を楽しみながらも「自分自身を愛するように隣人を愛する」というものです。そういう考えの人を「背教者」って言うんでしょうか?

私も、「自分自身を愛するように隣人を愛する」生き方が理想です。少しでもその理想に近づくためには、祈りがあったほうがよいと思っています。祈りは、感謝や願いなどの自分の思いを口にする行為です。口にすることで、自分の思いを客観化するのです。口にした言葉に向かい、一歩、一歩と、進んで行けたらと思います。

「存在しないかもしれない神に祈ったって意味がないだろう」とか「無力な神に祈ったって意味がないだろう」と言われそうですが、違います。大いに意味があります。自分の気持ちと行動をそちらに向けるのですから。

(伊藤一滴)

2021-08-06 掲載分を一部修正して再掲

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