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聖書を用いるカルト宗教の特徴(再掲)

若い頃、日本基督教団のある牧師から、聖書を用いるカルトの特徴を教えていただいた。


イエス・キリスト以外に教祖的な人物(先生)がいる。
(今もその人物が指導している。または少し前まで指導していた。)

高額な献金を要求される。そして、そのお金が何に使われるのか、経理が不明朗。

教祖的人物や指導的な幹部が異性問題を起こしている。


「教祖、お金、異性」がポイントだ、と。
3つがそろわなくても、2つでも、1つでも、こうした特徴があればカルトを疑った方がいい、と。
(1980年代、その牧師さんは異性問題と言っておられたが、相手が異性とは限らないので、「性的な問題」と読み替えてください。)


さらに、その後、自称「福音派」や自称「教派ではなく純粋なキリスト教」といったカルトじみた人たちから何度もからまれ、私は気づいた。

キリスト教系カルトの場合、聖書を書き換えている。または、特異な解釈で意味を変えている。

読みようによって、聖書はそうも訳せる、そうも解釈できるというのなら、賛成しなくても、そういう理解の仕方もあるのかと思う。だが、カルト的な団体は、そもそも成り立たない読み方をしている。
教祖(先生)や教祖の指導を受けた人物が、単語も文法も無視した「解釈」をする。批判されても、「わかりやすく意訳したのです」「わかりやすく解説しているのです」と主張する。それは聖書の学問的な検討ではないと言うと、「聖書は学問的に検討すべきものではなく、信仰的に読むものです」と言い返される。

都合よく「訳」した独自の聖書を使うカルトもあるが、聖書カルトの多くは一般のキリスト教会と同じ訳の聖書を使っている。日本聖書協会や新日本聖書刊行会の訳を使っているからといって、その団体は安全だとは言えない。

信仰の喜びでつながっているというより、罪や悪魔や地獄をひどく恐れ、この教会から離れたら永遠の地獄に落ちて永遠に焼かれるかもしれないという恐怖で離れられなくなっている。「信仰」の中心にあるのは「罪の意識と地獄の恐怖」だ。それは、審かれるという恐怖心を植え付けるマインドコントロールの手法だ。

他の教派と交流したがらない。交流し対話すれば自分たちの問題点が知れるといけないから指導者は交流を嫌う。信者たちは「私たちの教会は真理の側だ」と思い込んでいるので、間違った教会の人たちから話を聞く必要はないし学ぶ点もないと考えている。「真理の側にいる」ので、他者の指摘を受けて考えや態度を改めることもない。正しいから迫害を受けていると思うだけだ。

ものごとを客観的に検討するのではなく、「自分たちは正しく、外の世界は間違いだ」というあれかこれかの二元論的な先入観を当てはめようとする。現実の世の中には、中間的なもの、どちらとも言えないもの、分類が難しいものも多数あり、簡単にあれかこれかと言えないのに、簡単に二つに分けて、自分たちを正しい側とする。

信者や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている。それを非難されると、「私たちは正しい聖書信仰(正しい福音主義の信仰)に立つから弾圧されている」と言う。


さらに、もう1つ聞いた。
カルトは、learn を重んじ、study を禁じるという。
learn も study も、どちらも「学ぶ」だが、learn は、習って学ぶ、覚える、習得するといったニュアンスが強く、study は、よく調べ、検討し、研究して学ぶというニュアンスがある。
つまり、「教えられた通りに学びなさい。自分で検討してはいけません」ということだ。この姿勢は、たしかに、キリスト教系カルトの中にある。


つまり、こうなる。

聖書を用いるカルト宗教の特徴は、

教祖的人物がいる(特別な「先生」の存在)
多額のお金が要求され、何に使われるのか不明朗
性的な問題を起こしている
聖書が書き換えられたり、独自の解釈で違う意味になったりしている
信者はマインドコントロールを受け、恐怖心に支配されて離れられなくされている
他教派との交流や対話が禁じられたり制限されたりしている
客観的に検討しようとせず、あれかこれかの二元論の考えに立つ
信者自身や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている
learn を重んじ、study が禁じられる

なるほど。
エホバの証人、自称「福音派」、統一協会などに、かなり当てはまる。

さらに付け加えると、キリスト教原理主義やキリスト教系のカルトには、聖書に根拠がないことを強く言い張り、守らない人を断罪するという特徴も見られる。


日曜礼拝への参加義務
絶対禁酒
性に関することのタブー視(その割には指導者が性的な問題を起こしたりしているが)

聖書にないことまで牧師や先輩信者が指示を出し、指示がなければ動けない人になってゆく、という特徴もある。
つまり、自分の頭で考えて行動することが出来ない人になってゆく。そのため社会(学校や職場など)で孤立し、ますますカルト教会に依存してゆくという悪循環だ。
当人は、社会から孤立を、「この世はサタンの影響下にあるから、サタンから離れ正しい場に身を置いている」とか、「正しい信仰を貫くための試練だ」とか、「救われて天国に行くためにこの艱難を耐えなければならない」とか、思い込んでいるようだ。
そのような「信仰」は、救いではなく、救いにつながるものでもなく、間違った考え方を植え付けられたことによる苦しみなのに。

(伊藤一滴)

2022-08-19 掲載、一部を修正し再掲

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