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イエスは何を求めたのだろう

これまで何度も言いましたが、キリスト教にはかなり幅があります。
教派によって言うことが違うだけでなく、同じ教派の中にも、厳格な人もいれば柔軟な人もいますし、異なる立場に不寛容な人もいれば寛容な人もいます。

教会で厳しいことを言われても、柔軟な人・寛容な人は別のことを言うかもしれないし、他の教派の教会に行けば全然違うことを言われるかもしれません。
同じ聖書を読んでも、何を大事と思うのかが違うんです。

私は、碁石でも分けるように「クリスチャン」か「非クリスチャン」かと、人をどちらか2つに分けられるのだろうかって思うんです。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白で、中間なんてありません。でも人は、信者か信者でないのかの間に、中間的な状態がかなりあるんじゃないのかと思うんです。いったい、どれくらいまで信じれば信者と言えるのでしょうか?
もし、一点の曇りもない信者でなければ救われないなんて言い出したら、救われる人は誰もいなくなるでしょう。どれくらいの曇りまでなら信者と見なされるのでしょう? 考えようによっては、イエスの教えにすがろうとする人はみなキリスト信者なのかもしれません。たとえイエスを知らなくとも、助けを求める人、良くなりたいと願う人、良心に従がおうとする人、他宗教や無宗教の信念を持って誠実に生きようとする人、苦しみの中で死んでいった人、みな、「神の救いの内にある」という意味ではキリスト信者なのかもしれません。
人が他者を「クリスチャン」か「非クリスチャン」かと線引きしても、それはその人の主観です。人間の考えによる判別です。神様の判別ではありません。


何度も繰り返しますが、イエスは人々に次のようなことを求めたのだろうと思います。

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、

そして、肝心なときに、イエスの求めに従うことができるよう、日頃から自分で考え、判断し、決断し、行動できること。


牧師の教えは絶対だとか、日曜礼拝参加は義務だとか、絶対禁酒だとか、イエスの言葉にありません。
イエスの教えは、人を束縛する教えではなく、束縛から解放する教えです。

生まれによって人を分け隔てする発想も、イエスの教えにありません。
イエス自身が地方出身者で、大工の家の子で、父親のはっきりしない子です。

また、イエスなら、性的少数者を決して差別したりせず、その人の苦しみに寄り添おうとすることでしょう。

生まれつきの性的指向で人を差別するのは、生まれつきの盲人を差別するのと同じです。

(伊藤一滴)

おことわり
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