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非神話化4・キリスト教の始まり

キリスト教はイエスから始まったと言われている。だが、イエス自身をキリスト教徒と見なすことはできないし、イエスが教会の設立を意図していたとも思えない。

いったい、どの時点から、「キリスト教のスタート」なのだろう。イエスの宣教からか、「復活」からか、聖霊降臨からか、それとも初期の教会(家の教会)が形成され始めたときからか。あるいは教父らが教えを整理し始めたときからか。
それとも、今日のキリスト教には新約聖書の存在は不可欠だから、新約聖書27巻が確立した4世紀末をもって「キリスト教のスタート」と言うのだろうか。

私は、明確な答えを聞いたことがない。
私が読んだ範囲では、ブルトマンの著書にも、キリスト教のスタートはここだとは書かれていない。

キリスト教の形成過程は複雑で、単一の時期や出来事をもって、ここがキリスト教のスタート地点だと定めるのは難しい。

西暦紀元30年頃、杭(十字架)にかけられて死んだイエスを、彼はキリストだ、復活した、と信じた人たちがいた。これを、ごく初期のキリスト教の始まりと見なすこともできる。
ただし、キリストを信じる人たちの間には、実に様々な見解があった。

キリストは人なのか神なのか、神がイエスをキリストにしたのか最初からキリストだったのか。
キリストとは何者か。

種々の見解が整理され、新約聖書が記すキリストの姿になるまでに、時間がかかっている。もともと種々の見解があった名残で、新約聖書には多くの矛盾も残る。

矛盾もあるが、大きく見れば、新約聖書はキリストの出来事を述べている。
ブルトマンは言う、「新約聖書がキリストの出来事を神話的な出来事としていいあらわしていることについては議論の余地は存しない」(『新約聖書と神話論』)

新約聖書のキリストの出来事は神話的な出来事として書かれていて、議論の余地はないという。まあ、議論する人もいるけれど。「聖書の話は神話なんかじゃありません。書いてあることはすべて事実です」といった主張で絡んでくる人たちがいる。だが、それは現代では無理な主張だ。我々は現代を生きている。古代人でも中世人でもない。


イエスの没後、「イエスはキリストである」と信じた人たちは、だんだんに、壮大なキリストの姿を描いていった。やがてそれは天地創造の前から存在したキリストという、先在的な、ほとんど宇宙的なキリストの姿になってゆく。

新約聖書のすべての文書が一致したキリストを描いているわけではない。後になるほど、話は大きくなり、壮大になっていく。新約聖書は最初から神話的にキリストを描いているが、特にパウロ書簡の一部やヨハネ福音書やコロサイ書(コロサイ書は偽パウロ書簡の1つ)が、キリストを宇宙的な存在にまで膨らませている。
間もなく終末の時が来て人の子のような方が雲に乗って来るといったイエス自身も信じていたであろう終末の神話を「非神話化」したヨハネまで、先在的で宇宙的な壮大なキリストの神話を語る。ヨハネはある神話を「非神話化」しながら、別の壮大な神話を組み立てたのだ。
実はどちらの神話も、黙示思想やグノーシス主義の影響によってつくられた神話だ。特にグノーシス主義の影響が色濃いヨハネ福音書は、私は、グノーシス文書の1つと見なしてよいのではないかと思っている。実際、グノーシス派の教会は、ヨハネ福音書を好んで用いていた。

誤解があるようだが、広義のグノーシス主義はキリスト教内に生じた異端のグループではない。グノーシス主義はキリスト教の成立より先からあり、キリスト教の形成には、古代ユダヤ教と共にグノーシス主義の影響が見られる。

キリスト教が広がってゆく中で、特にグノーシス主義色の強かった教会は「グノーシス派」と呼ばれ、「正統派」(主導権を握った教会の側)から異端とされ、やがて歴史の中で消滅した。
そうやって、キリスト教は、自分たちの源流の一部を消し去ったのだ。(ただし、ユダヤ教まで消し去ることはできなかった。)

都合が悪いようで、クリスチャンたちはこの事実を語りたがらない。

(続く)

(伊藤一滴)

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