« カルヴァン教(再掲) | メイン | 現代科学を否定する無理な信仰 »

自称「福音派」の「信仰」のどこが問題なのか

自称「福音派」(原理主義者、一部はカルト)らが言う意味での「正しい聖書信仰」「正統的プロテスタントの信仰」「福音的な信仰」「福音主義」といった「信仰」のどこが問題なのか、ずっと考えていました。そして、彼らの信仰の中心が「罪の意識と地獄の恐怖」であることが、一番問題だと思うようになりました。

自称「福音派」の信仰の中心は「イエス・キリストによる救いを信じ、神の愛の中に生きる喜び」ではなく、「罪の意識と地獄の恐怖」です。
常に恐れに支配されていることが、一番の問題なのです。

そう、恐れです。
「罪の意識と地獄の恐怖」が中心で、悪魔を恐れ、罪の誘惑を恐れ、自分の罪が裁かれることを恐れ、終末を恐れ、地獄に落ちることを恐れ、地獄の苦しみを恐れる。すべて恐れです。
神様さえも、いつも人を見ていて、監視し、罪を犯す人を地獄に落とす恐れの対象です。

彼らは、口では、「私たちはイエス・キリストによる救いを信じ、神の愛の中に生きる喜びのうちにあるのです」みたいなことを言うんですが、それは、まるでアヘンを使って自分の心の不安を麻痺させるように「キリストによる救い」や「神の愛」を利用しているだけで、中心にあるのは恐れです。

実際、彼らは明るい顔をしていません。沈んだ顔であったり、疲れた顔であったり、何かに憑りつかれて自分を失ったような目つきだったり。

彼らは現実を見ようとしません。現代の世界の現実を見ようとしないし、歴史も古生物学も、現代の聖書学の研究成果だって見ようとせず、「人間的な価値観に惑わされてはいけません」「自由主義神学の間違った考えにだまされてはいけません」みたいなことを言うんです。
現実離れした空想の世界に逃げ込んで、それを、正しい聖書信仰だと思い込んでいるのです。

「人間の価値観ではなく、聖書があかしする神様の価値観に従うべきです」なんて言いながら、人間が作りだした恐れの価値観に支配されています。
彼らが言う「神様の価値観」や「聖書の価値観」の多くは、その教派やその教会の牧師が、聖書の言葉の一部をパッチワークのように縫い付けて作り出した独自の価値観です。むろん、そこに普遍性などありません。たとえ聖書の言葉が使われていても、それは部品に使われただけで、その価値観の全体像は人間の誤った価値観です。

なぜ、私が、彼らの主張を「人間の価値観です!誤った価値観です!」と断言できるのか。
それは、本当に神様の価値観に従っているのなら恐れに支配されるはずなどないからです。
常に恐れに支配されていては、自分の人生を生きることができなくなってしまうからです。
彼らは、イエスの教えとは明らかに異なる独自の価値観の中に生きています。


私が非難するのは、恐怖心を与えて人を支配する自称「福音派」(原理主義者やカルト)であり、一般の(原理主義でない)福音派の方々の信仰ではありません。
一般の福音派の方々は、福音伝道と共に福祉事業や海外支援やさまざまな活動に取り組んでおられます。表情が明るく、済んだ目をしている人が多いです。素朴で真っすぐな信仰心を持って、自分も隣人も世も良くなることを願う人たちに対し、たとえそれがかなり保守的な信仰であっても、悪い感情などありません。

自称「福音派」の原理主義者も一般の福音派も、どちらも福音派の団体に加盟していたりして見分けにくいのですが、この両者は、人に接する態度も生きる姿勢も違います。


身勝手な自称「福音派」と、他者に配慮する福音派、

答えが先にあって、その答えになるようつじつま合わせに終始する自称「福音派」と、本当の答えを求め続ける福音派、

相手の弱味を探って支配するため話を聞こうとする自称「福音派」と、相手のためを思って親身になって話を聞き一緒に考えてくれる福音派、

相談しても助けてくれない自称「福音派」と、相談すれば一緒に動いてくれる福音派、

異なる見解に耳を傾けようとしない自称「福音派」と、そういう考え方もあるのかと話を聞いてくれる福音派、

いつも人の悪口を言っている自称「福音派」と、他者を悪く言わない福音派、

リベラルなプロテスタントやカトリックを一方的に非難する自称「福音派」と、他派と対話しようとする福音派、

困っている人たちのために指一本動かそうとしない自称「福音派」と、困っている人たちのために自ら率先して行動する福音派、

人間の努力で世の中を良くしてゆくことに否定的で、社会の問題に取り組んでいる人たちをどこか馬鹿にしている自称「福音派」と、社会をより良くしたいと願って行動する福音派、

聖書研究より独自のドクトリンが先走る自称「福音派」と、聖書そのものから学ぼうとする福音派、

聖書に出てくるファリサイ派(パリサイ派)や律法学者らとよく似た自称「福音派」と、聖書に出てくるイエスに従った人たちを思わせる福音派、

もっともっとあります。

進もうとする方向が違うんです。

(実際は、中間的な人たちも多く、自称「福音派」と本当の福音派の境界線は明瞭ではありませんが、わかりやすいように特徴を大きく2つに分けて書きました。)


以前、自称「福音派」の人たちから話を聞いたのですが、どうも、生活の中で何か問題をかかえ、問題に向かってゆくことができずに原理主義の信仰に逃げ込んだ人が相当数いるようでした。そういう現実逃避を「イエス様に出会って救われました」と言っているようでした。実際は、麻薬を使うようになって痛みを感じにくくなったような状態なのでしょう。また、そうした人の二世、三世なのでしょう。これは、エホバの証人(ものみの塔)や統一協会(統一教会)等の信者とも共通します。
こうした宗教は、鎮痛剤という意味で民衆のアヘンです。一時の鎮痛効果はあっても治療効果はありません。

自称「福音派」、エホバの証人、統一協会といった、原理主義的アヘン的宗教に入信する人たちは、深く傷ついている人が多いのかもしれません。
麻薬のように「信仰」を使って痛みをごまかしているうちに、傷はますます悪化するのでしょう。
傷ついているがゆえに「信仰」を求めてますます傷を深くしているなら、とても気の毒です。

目を覚ましてほしいと思います。求める方向が違っているのですから。
人に恐怖心を与えて支配する教会を離れ、恐れによる支配を断ち切らなければ、イエスが望む方向に向かうことはできないだろうと私は思います。

(伊藤一滴)

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。