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非神話化6・イエス・キリストの処女降誕

ヨハネ福音書やコロサイ書などに見られるキリストの先在性、つまり天地創造の前からキリストはおられたといった壮大な話は、グノーシス主義の影響を受けた神話であると書いた。
広義のグノーシス主義はキリスト教より前から存在し、キリスト教の成立に影響を与えたと書いた。

では、イエスの処女降誕はどうなのか。この話は史実なのか。

「聖霊の働きによって処女マリアが懐胎したという話は史実か否か」といった議論をしても仕方がない。
福音書の著者は初めから、史実を正確に書き残そうとする意図などなかった。彼らは、イエスはキリストであると信じ、ケリュグマのキリストを証ししたのだ。

超自然的な誕生はイエスだけの話ではない。聖書の人物以外にも古代の偉人の中には超自然的に生まれたと伝えられている人たちがいる。これは、ユダヤの民に限らず、広く古代人に共通する神話的な世界論によるものである。


ブルトマンは処女降誕が史実かどうかといった話に関心を示していないが、関心のある方のために、私の知る範囲で書いておく。

処女降誕の話は初期の伝承にはなかったから、パウロはこの話にまったく触れていない。最初の福音書であるマルコにも処女降誕の記述はない。パウロが書簡を書いた頃も、マルコが福音書を書いた頃も、まだ処女降誕の話は広まっておらず、2人とも知らなかったのだろう。

この話は旧約聖書の訳をもとに形成されたのか、あるいは、巷で言われるようになった話が旧約聖書の訳で理屈づけされたかのいずれかであろう。

「見よ、若い女が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(旧約聖書イザヤ書7:14)という箇所を、七十人訳ギリシャ語聖書が「処女が身ごもって男の子を産み~」と訳した。これが、イエスは処女から生まれたとする話の起源か、あるいは語られていた話がこの箇所と結び付けられたかのどちらかだろう。
イザヤ書のこの箇所は、アハズの息子ヒゼキヤ王の誕生を預言したという形で書かれた箇所だ。これをイエスの誕生と結び付けるのはかなり強引な解釈と言わざるを得ない。
なお、ヘブライ語の「若い女」は文脈によっては「処女」という意味になるから誤訳とは言えないという主張もあるが、七十人訳はこの言葉の持つ意味を狭めている。
マタイはイザヤ書7章とイエスを強引に結びつけたが、新約聖書の中でイエスが「インマヌエル」と呼ばれている箇所は他にまったくない。マタイにおける旧約の引用は、無理な結び付け方が多い。

マタイもルカも、七十人訳聖書は読んでいたが、もとのヘブライ語でどう書いてあるのかを確認しなかったのだろう。

「旧約聖書の原典はヘブライ語です」と頑張って言ってみても、新約聖書の文書を執筆した人たちは普段から七十人訳ギリシャ語聖書を読んでいた。彼らの論考は七十人訳によるものであり、引用の多くも七十人訳からである。ヘブライ語の聖書ではなく、七十人訳ギリシャ語聖書の方が新約聖書に多く反映されている。この事実は無視できない。


医学的に処女懐胎はありうるのかを問う人たちもいる。
ネット上では「生物学的に処女懐胎はありえない」と断言する人もいるが、実は、そうでもない。
私は門外漢であるけれど、性行為なしの妊娠があることくらいは知っている。

これはだいぶ前に読んだ謝国権氏(医師、医学博士)の著書にあった話だが(『性生活の知恵』のシリーズの中の記述、第何巻か忘れてしまった)、まったく性行為をしたことのない夫婦がいて、妻が妊娠した例があったという。性教育などなかった時代、夫も妻も性行為のことを知らなかったという。着衣のままの妻(おそらく下着姿)と抱き合っているうちに、夫が精を漏らすということがあり、それで妻は身体的には処女のまま妊娠したという。医者が真面目にそう書いているのだから、本当にあった話なのだろう。

さらに今では、通常の性行為による妊娠は難しいが子どもは欲しいという場合、男性の(夫がいれば夫の)精液を注入することで妊娠させる方法だってある。「シリンジ法」というもので、この器具のキットも市販されている。シリンジ(注射器)に針ではなくシリコンの管をつけた器具を用い、排卵日を狙って膣内に精液を注入するのだという。人口受精の一種である。

本当にするかどうかはともかく、シリンジ法を使うことで、男性経験のない女性が精液の提供を受けて処女のまま妊娠することも、やろうと思えば技術的には可能になっている。

かつては、性行為があれば妊娠の可能性があり、妊娠のためには性行為が必要だった。それが、現代の技術によって、妊娠させない性行為や、性行為なしの妊娠も実現している。妊娠と性行為との分離である。これは生命倫理的にどうなのかといった議論もあろう。

ご参考までこんな話を書いたが、もちろんキリスト教の信仰は、処女懐胎は史実かどうかとか、医学的にありうるのかといった話ではない。

新約聖書のイエスは、ケリュグマのキリストである。それこそ、史実史に属する出来事ではなく、それを受け入れる人にとっての歴史(実存史)である。遠藤周作の言葉を借りれば、事実の分野ではなく真実の分野の話になる。
事実それがあったのかどうかではなく、イエスを信じる者にとって、処女懐胎・処女降誕は実存としてある、となる。
ブルトマンは言う。
「イエスの先在、或いは、処女降誕についての叙述においては、信仰に対するイエスの人格の有意義性をのべる点に、その意図がある事は明瞭であろうとおもわれる。」(『新約聖書と神話論』)
この引用文中の「イエス」とは、福音書のイエス、つまりケリュグマのキリストのことである。また、「信仰」とは、イエスを信じる者の信仰のことだ。
つまり、キリストの先在性や処女降誕の話は、それは史実かどうかを問うようなものではなく、我々の信仰に対するイエスの人格の有意義性を述べる意図で書かれたものだという。
実存論的理解である。

ただ、そのように実存的な意義を求めるのは、キリスト教を否定したくないブルトマンの護教論ではないかとも思えてくる。

(続く 次回は「イエス・キリストの奇蹟」を予定)

参照 マリアの「処女懐胎」と沖縄
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/02/post-29fd.html

(伊藤一滴)


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