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ユニアかユニアスか、この人は使徒なのか

前から気になっている箇所ですが、ローマ書16:7に出てくるユニア(ユニアス?)は女性で、使徒で、使徒たちの中でも活躍していた、という主張があります。たしかに、読みようによってはそう読めます。

「私の同胞でそして共に獄にあったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。彼らは使徒たちの中で注目されており、そして私より前からキリストにある人たちでした。」といった訳も可能なのです(ローマ16:7 私訳の試訳)。

この箇所については、いろいろな方が見解を述べておられますが、福音派の「クリスチャン新聞」に「【論考】苦難の意味 「福音の捕虜」になった女性ユニアとは?」という記事があり、興味深く読みました。

https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/?p=39984

これを読んで、なるほど、と思いました。

ギリシャ語は難しいと言われますが、単語の変化の多さもギリシャ語が難しい理由の一つです。格変化にしても(英語にも、I, my, me のような格変化がありますが)、ギリシャ語の変化は多く、名詞・代名詞はもちろん、形容詞、分子、冠詞も格変化し、人名などの固有名詞まで格変化するのです。しかも格が、主格、属格、与格、対格・・・とあって、日本語の中にいる私たちは混乱します。(上級者は、かえってわかりやすいって言うんですが、そんなことが言える人は凄い達人です。)

実はユニア(ユニアス?)の名前は、主格で出てくる箇所がありません。
以下、ユニアと仮定して書きますが、直訳すれば「アンドロニコとユニアに挨拶せよ」です。自然な日本語にすれば、上に書いたように「アンドロニコとユニアによろしく伝えてください」といった感じでしょうか。ユニアの名前が出てくるのは新約聖書中ここだけで、「ユニアに」という対格になっています。

誤解している人がいますが、女性名の写本と男性名の写本があるのではありません。ユニアもユニアスも、対格はどちらも同じで、ユニアンになるんです。(文字通り仮名にすればイオウニアンでしょうが、読めばユーニアンみたいになるんでしょう。もっとも、現代人で2千年前のギリシャ語を正確に発音できる人なんて誰もいませんけど。)

女性なのか男性なのかが議論になるのは写本の違いによるのではなく、歴史の中で、聖書の翻訳者や解釈者がこの人を女性と考えたのか男性と考えたのかの違いです。

私は、上記のクリスチャン新聞のように、ユニアは女性であった可能性が高いと考えています。
記事に補足すれば、教会の指導者が男性で占められるようになっていって、これはユニアという女性ではなくユニアスという男性だ、とする見解が広まったのです。ただし、ヒエロニムスはユニアという女性だと考えていたようで、カトリック教会はヒエロニムス訳の権威に従い、ずっとユニアと訳してきました。ところがルターは、ユニアスという男性と見なし、プロテスタントの訳の多くはずっとユニアスでした。(ただし、プロテスタントが用いてきた聖書でも、欽定訳をはじめ女性と見なした訳もあるので、すべての訳が男性としていたのではありません。)
ねじれていたのです。女性の司祭すら認めないカトリックが、ここはユニアという女性だと主張し、プロテスタントが女性の牧師を認めるようになっても、多くはユニアスという男性だとしていたんですから。

では、この2人は使徒だったのでしょうか。

いろいろ注解も見てみたのですが、これは、読みようでどっちにも取れます。
私も、「彼らは使徒たちの中で注目されており、」と、どっちにも取れる表現にしてみました。

つまり、

1.(彼らは使徒ではないが)使徒たちによって注目されている

2.(彼らも使徒であり)使徒たちの中でも注目されている

どっちもありなんです。

ちなみに、これまでの日本語訳だと、口語訳や新改訳は上記の1の見解、新共同訳は2の見解です。
最新の聖書協会共同訳はユニアと女性の名で表記しているのですが、2人を使徒と認めない1の解釈に戻っています。
ユニアは女性だが、女性使徒を認めるわけにはいかない、ということでしょうか。
もしかして、日本のカトリック側から横やりが入った? あるいはカトリック側に忖度した?
なんだか、聖書協会共同訳のこの箇所は、一歩進んで二歩下がったような訳文です。(下記の参考資料参照)

アンドロニコとユニアは、パウロより前からキリストにある人たちだったとあります。並べて書いてあるのは、この2人は夫婦だったからかもしれません。2人は初期の信者で、イエスから直に学んだ可能性もあります。この2人は十二使徒ではないけれど、イエスの直弟子だったのかもしれませんし、広い意味では使徒だったのかもしれません。


田川建三先生が「新約聖書 訳と註4」にこんなことを書いておられるんで、引用します。(349頁以下)

引用開始

これは「ユニアス」という男性名ではなく、「ユニア」という女性名だ、という議論がある。ここではこの名は Junian という対格の形で出て来るのだが、この対格は男性名の Junias の対格でもありうるし、女性名の Junia の対格でもありうるからである。従って、単純な文法的可能性だけからすれば、五分五分。一部の「キリスト教フェミニスト」を自称する珍妙な護教論者たちが、五分五分である以上女性に決まっている、この人物を男性とみなすのはけしからん、女性差別だ、と騒ぎ立てているが、五分五分は五分五分であって、男女どちらかわからない、と言うのが正しい。五分五分である以上女性に決まっている、などと決めつけるのは算術の初歩も知らないと言われよう。しかし、確かに名前の文法的形からすれば男女五分五分だが、パウロと一緒にどこかで逮捕されて同房の囚人となったというのだから、男性である可能性の方がはるかに大きい。いくら古代だからとて、つかまえた囚人を男女同房に放り込むなどということはあまり考えられない。

引用終了


現代でさえ、刑務所、拘置所、留置所、その他のいわゆる「牢屋」での人権侵害が問題になることがあります。牢屋って、そういう場所なのでしょう。
以前も書きましたが、中世になってさえ、男女を同じ牢に入れたりしてたんです。まして人権意識など無に等しかった古代、男女かまわず牢に入れることもあったのかもしれません。古代ローマで女性を牢に入れた記録があんまりないみたいなんで、断定する証拠はないんですが、私は、女性のユニアも一緒に牢に入れられたのではないかと想像しています。
それと、「単純な文法的可能性だけからすれば、五分五分」であっても、聖書外の史料でユニアという古代の女性の名が多数見つかっているのに、ユニアスという男性の名は皆無なんです。史料的には五分五分ではなく、女性の可能性の方がはるかに高いのです。

田川建三さんは荒井献さんたちを嫌ってるから、荒井献門下の訳はけしからん、荒井とその仲間がそう言うなら自分は逆のことを言ってやる、みたいになってませんか?


参考資料 戦後の日本聖書協会の訳

‭‭(ローマ人への手紙‬ ‭16:7‬ ‭口語訳 ‬‬1954年)
わたしの同族であって、わたしと一緒に投獄されたことのあるアンデロニコとユニアスとに、よろしく。彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、わたしよりも先にキリストを信じた人々である。

(ローマの信徒への手紙‬ ‭16:7‬ ‭新共同訳‬‬ 1987年)
わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。

(ローマの信徒への手紙‬ ‭16:7‬ ‭聖書協会共同訳 2018年)
私の同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアによろしく。この二人は使徒たちの間で評判がよく、私より前にキリストを信じる者となりました。

2018年の協会訳は、前の訳から30年かけて一歩進んで二歩下がる、でしょうかね。
‭そんなんじゃあ、聖書協会共同訳って、お金を出してまで買う価値があるのかって思っちゃうんですよ。くれるって言う人がいたらもらいますけど、この訳を買うのにお金を使うくらいなら別のことに使った方がいいように思えて、まだ買ってません。今回の引用はネットで見ました。

それより岩波の新約改訂版を買いたいです。佐藤研先生たちが大胆に改訳なさったようだし。でも、高いんですよ。岩波書店さん、この改訂版を岩波文庫に入れてはどうですか。きっと売れますよ。

さて、岩波の改訂版に対して、田川建三先生がどう出るか、非常に興味をそそられますが、田川先生はかなりご高齢で、最近はネットでも発信なさってません。

田川先生、「新約聖書概論」を完成させてください。ずっと待ってるんですから。
それと、「マルコ福音書」(注解)の中巻と下巻も待ってます。たとえ執筆当時と考えが変わった箇所があったとしても、そのことを序文に書いた上で出してくださればいいのに。

それにしても、新教出版社の現代新約注解全書シリーズって、確か1960年代から刊行が始まったと思うんですが、いつになったら全巻出揃うんですかね? あと100年くらいはかかるんでしょうか? もっとですか?

(伊藤一滴)

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