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キリスト教原理主義は駄目な宗教

宗教はいろいろです。宗教が人や社会をより良い方向へ向かわせる場合もあります。宗教をみな一緒くたにしてこうだなんて言えません。良い影響を与える宗教がある一方で、世にはまるで駄目な宗教もあります。信じる人を苦しめ、より悪くし、まわりにも害を与えてしまうのです。
有名なところではエホバの証人や統一協会がありますが、キリスト教原理主義もそうした駄目な宗教、困った宗教の1つです。

原理主義者は、何でも2つに分けようとする傾向があります。

「それは正義か、悪か。聖書的か、反聖書的か」のように。

実際は、そんな単純に2つに分けられないものが多いのです。
だのに物事を何でも単純に2つに分けようとするのは、強い先入観に支配されていて、現実を見ようとしないからです。

一神教はみな駄目だとは言いませんが、自分たちの立場を絶対に正しいと信じて他をすべて否定するような原理主義や、福音派を名乗る人たちの中に見られる原理主義的な考え方の部分は、一神教に見られる駄目な部分です。

原理主義者や原理主義に近い人たちは聖書を絶対視し、聖書にすべての真理があるのだから、聖書からすべてがわかると考えます(そう言いながら聖書に書かれていない主張もかなりしています)。そうやって、自分たちと立場の異なる人たちを「真理を求めない人たち、わかっていない人たち、救いの中にいない人たち」だと下に見て、蔑みます。また、学問的な研究より聖書の記述を上に置き、時には学問を馬鹿にし、学問に介入してきたりします(特に進化論、聖書学)。でも現実には、この世には聖書に書いてないこともたくさんありますし、聖書に書いてあることの中には歴史的事実・科学的事実との食い違いもあります。また、聖書の記述それ自体に多くの矛盾点もあります。それを指摘すると激しく怒り出すのも原理主義者の共通の特徴です。「あなたは救いの中にいません」「あなたが言っていることは自由主義神学の影響を受けた間違った考えです」「あなたはサタンの側にいます」等々、私はすいぶん言われました。

何が真実なのか、真理なのか、そんなことは簡単にわかることではありません。だのに簡単にわかったつもりになって、「自分は聖書を信じているんだから真理の側にいる、救われている」と思い込み、異なる他者を一方的に非難し、断罪したりします。そうした人たちを「正しい聖書信仰に立つ」って言うんでしょうか?

大貫隆先生は『イエスという経験』(岩波書店 2003)の中でこう言っておられます。
「イエスは『神は言われる』という言い方はしなかった。神の権威を持ち出さず、『私は言う』と自分の名前と責任で語った」

その通りです。
「~と言われているのをあなた方は聞いています、しかし私は言います」というのがマタイが伝えるイエスの姿勢です。イエスに従いたいなら、イエスの姿勢にこそ従うべきではないのですか。
「それはイエス様だから言えることです。一般の人がそんなことを言ってはいけません。教会や牧師先生に従うべきです」って言うんですか?
(以前、私は本当に「クリスチャン」からそう言われて叱られました)

今この状況でイエスのメッセージに従うならこうすべきだと、自分の頭で考え、判断し、行動することが、イエスに従うことではないのですか。

聖書にこう書いてあるんだからこうなんだという硬直した原理主義に染まると、思考停止しになってしまい、一般のヒューマニズムから離れ、イエスの求めからさえ離れてしまいます。原理主義教会の教えを正しい教えと信じて支配され、聖書の表面的文字面への依存、現代の律法主義、現代のファリサイ主義に陥ってしまうのです。
「文字は殺し、霊は生かす」(2コリント3:6)とあります。旧約の律法の文字を指すのでしょうが、原理主義においては新約に記された言葉まで殺す文字と化しているのです。
私は、自称「福音派」の原理主義者たちが、罪や悪魔や地獄の恐怖で人を脅すだけで、困っている人たちのために指一本動かそうとしないのを見てきました。

この私は言います。
キリスト教原理主義は駄目な宗教です。当人たちは純粋な信仰だと思っているのでしょうが、人の精神を支配し、心を殺す宗教です。アヘンのように一時的には苦しみを忘れて救われたような気になるのでしょうが、じわじわと信じる人を苦しめ、その人の家族や周りの人たちも巻き込んで苦しめる宗教です。

(伊藤一滴)


付記
上記を途中まで書いていたら、能登半島で大きな地震が発生しました。
山崎製パン(ブランド名はヤマザキパン)が中心となり、製パン会社が大量のパンを被災地に供給しています。
今のヤマザキの社長の飯島延浩氏が福音派の信者であることは有名な話です。氏が聖書に向かう姿勢は超自然的・霊的な感じで、私とはだいぶ違いますが、飯島氏は今この状況でイエスのメッセージに従うならこうすべきだと、自分の頭で考え、判断し、行動しておられるのでしょう。立派だと思います。
山崎製パンは、これまでも災害時にパンの供給をしてきました。「食品企業としての当社の社会的使命」と言いながら、助けられた人たちの感謝の声をまったく宣伝に使っていません。それも立派です。

何度も言いますが、私は福音派と原理主義を分けて考えています。教義の一部が重なるようですし、中間的な部分もあるのでしょうが、両者は向かってゆく方向がまるで違います。

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