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「怖れに根ざした信仰」 その源流はカルヴァンたち?

herem=killer氏が、ネット上で公にした「聖書信仰を問い直す」を読んでます。
これはすごい。
こちらのサイトです。

http://herem-killer.com/index.html

氏は「怖れに根ざした信仰」という論文を公にし、特に「(1)聖書に名を借りた支配」の箇所で、完璧なくらいキリスト教原理主義・聖書カルトを批判し尽くしています。
これを読んでいて、私が書いたキリスト教原理主義や聖書カルトへの批判など生ぬるいと思いましたよ。

かなり詳しいので全部読むには覚悟がいりますが、キリスト教原理主義や聖書カルトのどこがどう問題なのか、徹底的に論じていますから、関心のある方は是非ご覧ください。


私(一滴)も感じていますが、原理主義化・カルト化の源流にあるのは、16世紀の宗教改革の思想、特にカルヴァンの主張とその解釈なのかもしれません。

もちろん、カルヴァンらの業績を否定するわけではありませんが、原理主義者やカルト信者の主張の源流を探ると、どうも、カルヴァンやその後継者たちの見解に行きつくことが多いように思います。

原理主義者やカルト信者と思われる人が、聖書的根拠がはっきりしないことを言い張るので、
「聖書のどこにそう書いてあるのですか?」
と聞くと、
「神様がお決めになったのです」
とか、
「プロテスタントは伝統的にそう信じてきたのです」とか、答えるんですね。

「聖書に書いてないのに神様がお決めになったと、どうしてわかるのですか?」
と聞くと、
「聖霊の働きによって明らかです」
みたいな答えです。

聖書のどこにも書かれておらず、証明も、理論的な説明もできないことを「聖霊の内的なあかしによって明らかである」という話に持って行くのはカルヴァンの論法です。

「聖書は66巻である」とか、「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか、聖書のどこにも書かれていません。「聖書はすべて神の霊感によるもので~」と書いてありますが、「聖書は誤りなき神の御言葉」とまでは書かれていません。
テモテヘの第二の手紙の著者は、「聖書はすべて神の霊感によるもので~」(3:16)という箇所の「聖書」とは何を指すのか書いていません。何を聖書と言うのか示していないのです。
書かれた時代を考えれば、おそらくこの著者が言う「聖書」とは七十人訳聖書、または当時のシナゴーグで朗読されていた聖書でしょう。どちらにしても、旧約聖書続編(アポクリファ)が含まれており、新約聖書は含まれていません。

「聖書はすべて神の霊感によるもので~」という聖句を「聖書は誤りなき神の御言葉である」という根拠にすれば、続編も誤りなき神の御言葉であるが新約聖書は「聖書」に含まれない、という話になってしまいます。


「プロテスタントは伝統的に~と信じてきた」と答える人もいますが、それはプロテスタントの聖伝です。

「それはつまり聖伝ですね」
と聞くと、
「違います。信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません。私たちは正しい伝統を受け継いでいます」
みたいなことを言うんです。

それって、単なる言葉の言い換えです。自分たちなりの聖伝を「正しい伝統」と言い換えているんです。聖書のどこにも書かれていない伝統的な見解は、聖伝です。カトリックの聖伝は認めないが自分たちは自分たちなりの聖伝を受け継いで信じるという二重基準です。


今もカルヴァンの見解を受け継ぐクリスチャンは多数います。
その大多数は健全な信仰を持つクリスチャンだと思いますが、一部に(特に「福音派」と称する中の一部に)原理主義化・カルト化がみられます。彼らは、律法主義的で、とても熱心に、とても強く主張するので、そうした人が多数いるような気がしてしまうのですが、実際は少数派です。それを言うと「正しさは数の問題ではありません」と言い返されます。具体的な数値を挙げても、理論的に説明しようとしても、すべて鋼鉄の甲冑で跳ね返すようなその姿勢はエホバの証人や統一協会とよく似ています。

同じカルヴァンを受け継いで、なぜ「健全な信仰者」と「原理主義者やカルト」に分かれてしまうのでしょうか。

もう少し、考えたいです。

(伊藤一滴)

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