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聖書の史実性

聖書の記述のどこまでを史実と考えるのか、クリスチャンの間でも意見が分かれている。
保守的な信者だと「聖書に書いてあるのですからすべて事実です」と言う人もいるが、聖書には文字通りの事実ではないことも書いてあると認めた上で信仰している人もいる。今は、後者の方がはるかに多い。


以前私がお世話になった先生の1人は、真面目で熱心なプロテスタントの信者で、長年、教育や福祉に尽くしてこられた方だったが、
「旧約聖書のアブラハム以前の話はすべて神話です」
と、はっきりおっしゃっていた。
その先生は、
「神話だから意味がないというのではなくて、神様は、神話や比喩や象徴的表現など、さまざまな手段を用いて人間に大切なことを伝えてくださっているのでしょう」
と言っておられた。

その話を聞いて、なるほど、と思った。


アブラハム以前の話が神話なら、聖書の記述から地球が出来た年代を求めようとする試みなど、まったく無意味になる。
同様に反進化論も、無意味になる。

そう。無意味なのだ。
聖書の史実性を真剣に信じている人たちは不快に思うかもしれないが、そもそも史実性を持たない物語から史実を読み取ろうとすること自体無理で、無意味なのだ。

聖書に記された天地創造の記述は、現代の宇宙論や古生物学とは相容れない。
聖書と科学を調和させようとする試みもあるが、アブラハム以前の物語に史実性がないなら、そうした試み自体が無意味だ。


そもそも聖書は歴史的事実や科学的事実を述べることを目的に書かれた書ではない。
聖書は神を信じた人たちの信仰の証しであると共に、神と人との契約を人間の言語で記した書だ。著者たちは歴史的事実や科学的事実を伝えようとしたのではなく、神はどういうお方で人とどういう関係にあるのかを伝えようとした。また、当然だが、古代人には現代のような科学的認識もなかった。聖書の記述は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の、その時代の表現だ。


「アブラハム以前の話はすべて神話です」というのは、当然そうだと私も思う。
では、アブラハム以降はどうなのだろう。
今の私は、アブラハムという人物の存在も含めて、旧約聖書の話の多くは神話や比喩や象徴的表現であり、創作されたものだと考えている。

「モーセ五書はモーセの作です」と頑張る人たちがいるが、モーセという人物自身がかなり高い確率で架空の人なのだから(何らかのモデルがいた可能性はあるにしても)、架空の人が執筆できるはずがない。
出エジプトに関しても、エジプト側の記録はまったくないし、奴隷にされていた民族が大移動したという考古学的な証拠もない。これもまた架空の話か、何らかの物語がかなり誇張されて伝わった話と考えるべきだ。

近年は、ダビデ王やソロモン王といった著名な王さえも、架空の人物であるとする説が有力になっている。彼らが著名なのは旧約聖書に書いてあるからであり、旧約聖書以外、こうした王が本当にいた証拠がまったく見つかっていない。(※)


聖書に書いてあるから事実なのではない。
また、聖書に書いてあることをすべて文字通りの事実と信じることが、キリスト教信仰の条件でもない。もしそれが条件なら、プロテスタント主流派や現代のカトリックは成り立たないことになるが、実際はちゃんと成り立っている。そして、多くの方々が、教育、福祉、医療、その他の多くの分野で、地の塩・世の光となって活躍しておられる。
むしろ、「聖書に書いてあることをすべて文字通り事実と信じます」と言う人の中に、身勝手で、排他的で、攻撃的な、かなり問題のある人が多いように思う。(トランプ支持派など、まさにそうだ。)


聖書に書いてあっても書いてなくても、事実は事実だし、事実でないことは事実でない。

「聖書には一切矛盾はありません」と言い張って延々とつじつま合わせに明け暮れることをイエスは求めるのだろうか?
「すべての真理は聖書にあります」と言い張って学術的な研究に感情的に噛みつくことをイエスは求めるのだろうか?

大切なのは、「イエスは人々に何を伝え、何を求めたのか」ではないか。

これまで何度も書いたことを繰り返すが、
イエスが人々に求めたのは、

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、
等々であろう。

そして、肝心なときに、イエスの求めに合致する人こそが、真のクリスチャンだろう。

イエスは人々に決断を求めたのだ。
神の国が近い今、どうすべきなのか、自分で考え、判断し、決断し、行動することを求めたのだ。

イエスは「旧新約聖書66巻には一切矛盾はありません」とか「聖書に書いてあることをすべて文字通りに信じ、文字に縛られて生きなさい」などと言っていない。

(伊藤一滴)


※ ダビデ王も架空の人物とする説の方が今では有力なのかもしれないが、私は、架空と言い切るのにためらいを感じている。
民族の英雄として架空の王様を創作するのなら、その不祥事を書くだろうか?
部下の妻を横取りし、その部下を死に追いやったと書くだろうか?
私は、ダビデ王のモデルになった人物は本当にいて、本当に部下の妻を横取りしたのではないかと想像している。


付記
リベラルなプロテスタント信者に、とてもいい人たちがいる。
一般の(原理主義でない)福音派にも、とてもいい人たちがいる。
カトリック信者にも、とてもいい人たちがいる。

しかし、「福音派」を自称する原理主義者の教会の牧師や信仰歴の長い信者で、いい人に会ったためしがない。

彼らには共通の特徴がある。「聖書に書いてあることをみな文字通り信じています」とか「私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンです」などと言いながら、ひじょうに独善的、排他的、不寛容、攻撃的なのだ。聖書を信じると言いながら、肝心なときにするりと逃げる、責任を負おうとしない、社会の諸問題にまるで無関心、非キリスト信者に協力しない、困っている人のため指一本動かそうとしない、嘘や誇張を混ぜた話で他教派を非難する、といった点も共通している。
自分たちは正しく、自分たちの外の世界は(他教派も含めて)サタンの支配下にあると考えているようだ。

実を見れば木が分かるように、どういう人たちが集まっているのか見れば、その教会や信者を判別できる。

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