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非神話化2・ブルトマン以前の新約神話の扱い

聖書の神話は常に文字通り信じられてきたのであろうか?
否である。
ブルトマン以前の、たとえばハルナックのような自由主義神学の論者らは、新約聖書の神話を信じるのではなく除去することでキリスト教の本質に迫ろうとした。
近世も中世も、神話がすべて文字通りに信じられていたわけではない。
さらに以前の、古代教父の時代においてさえ、神話を比喩と捉える考えもあった。

それどころか、ブルトマンによれば、新約聖書の中にすでに非神話化が見られるという。
イエス自身は神話的な神の国の到来を信じており、終末がすぐそこに迫っていると告げたが、実際はイエスが言ったような終末は来なかった。
その説明のため、パウロによる非神話化があり、ヨハネ福音書はさらに非神話化を徹底させたという(詳しくは『キリストと神話』)。

パウロは、神話的な終末を否定こそしなかったが、パウロの書簡にはイエス・キリストによって終末は実現した読める箇所がある。
ヨハネ福音書は、すでに審きの時は来た、世の終わりは来た、と読める。

神話的な神の国の到来(=世の終わり)は、ヨハネにおいて既に実現したものとして非神話化された。宇宙的なイメージであった終末の出来事は、キリストを信じる者の勝利と解釈され、未来のことから現在のこととなった。
そう考えるなら、神の国とは、死んだ人が行く楽園のような場所ではなく、今、神の問いに対し、「人はどう決断し、どう応えるのか」であり、そこに神の国がある、という話になってゆく。

A.シュヴァイツァーが早くから指摘していた通り、イエス自身が終末論者であった。イエスは神話的に、もうすぐ実現すると考えていた終末について語っていた。イエスは杭(後に十字架と呼ばれるようになった刑具、原語は「杭」)に磔にされて処刑され、葬られた。このイエスは復活したとされ、彼をキリストだと信じた人たちは、終末はすぐに来ると考え、集まっていた。だが、来なかった。すぐに来るはずの終末はなぜ来ないのか、解釈の必要が生じた。

ヨハネはやがて来るとされていた終末を、すでに来たものとして非神話化した。すでに、信じる者は永遠の命を持ち、信じない者は審かれているとして、審判はなされたものとした。
ヨハネはイエスに語らせている。
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(ヨハネ11:25~)
史実のイエスがそう言ったというのではなく、これはヨハネが、イエスが言ったことにして書いた言葉だ。
審判はなされている、よみがえりの時はもう来ている、「あなたはこれを信じる」なら神の国はそこにある。
未来のことであった終末は、すでに到来したものとなった。キリスト者の勝利宣言としての、ヨハネによる非神話化である。

こうしてヨハネは、実際にイエスが語ったであろう終末を非神話化したが、ヨハネ自身もまた神話的な世界観の中に生きた人であり、別な面で壮大な神話を語っている。

ヨハネは、キリストだと信じられるようになったイエスのことを、彼は初めからキリストだったと描く。それこそ、天地創造の前からキリストはおられたと、壮大なキリストを描く。

こうした壮大な話はコロサイ書とも共通する。おそらく、グノーシス主義の「哲学」の流用なのだろう。
私は、ヨハネ福音書やコロサイ書は、広義ではグノーシス文書になるのだろうと考えている。

(続く)

(伊藤一滴)

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