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聖書、信仰、天国、永遠の命

小学生だった1973年に聖書に出会い、それから50年、聖書を読んでます。
10代の半ばまでは、聖書に書いてあることの多くは史実または事実が反映して書かれた記述だと思っていました。でも、読み進めるうちに聖書は矛盾だらけで、事実に反する記述も多いと気づきました。
それでも、私は聖書の中に普遍的なメッセージを感じてますし、イエスというお方の言葉やわざにとても魅力を感じています。

私は今まで一度も山が動いて海に入るのを見たことがありません。つまり、からし種ほどの信仰を持つ人さえ私の周りに誰もいなかった、ということです。
「信仰がなければ救われない」なら、いったい誰が救われるのでしょう。

私は、使徒行伝の時代の人たちとは違い、「人にできないことは神にもできない」と思うようになりました。でもそれは、「神のみこころは人の手によってなされてゆく」とも言えます。それは「信者の手によって」と言うより「神のみこころにかなう人たちの手によって」だと思います。

私は、神に従わないクリスチャンたちより、神のみこころにかなう非クリスチャンの方がよっぽど神様に近い所にいると思うようになりました。でも教会の側からは、その人が神様の近くにいるかどうかではなく、ちゃんと教会に所属して牧師に素直に従い維持費や献金をきちんと納入してくれる方が、運営上、いいんです。神のみこころにかなう非クリスチャンが教会の外にどれだけいたって教会の収入になりませんから。


天国とか神の国とかを、死んでからそこに行ける楽園みたいに思っている人が多いようです。たしかにそういう考えもあるんですが、死んでからそこに行きたいから信仰するなら、それは取引きですね。あるいは、天国という御利益(ごりやく)を求めて信じる御利益信仰です。イエスはそのような取引きや御利益を教えたんでしょうか?

キリスト教の中には死後の世界などないという考えもあります。天国(神の国)はこの地上の現実の中にあるという考えです。
そう考えれば、永遠の命というのは、永遠に変わらない普遍の理念を信じて生きた生き方だとも言えます。たとえば、紛争地域で何が起きているのかの取材を続けたジャーナリストの後藤健二さんとか、アフガニスタンの住民に尽くした医師の中村哲さんとか、普遍の理念に殉じたとも言えるわけで、死後もその理念は残るという意味で、永遠の命を得た人だと言えるのです。

大事なのは自分の死後の幸福を願うより、みんなの幸せを願いながら普遍の理念に向かうことではないのかと思うようになりました。だから、死後の世界があってもなくても、どっちでもいいんです。私は、「自分が死後に救われて天国に行くこと」が最も大切な教えだとは思っていません。


みんなが平和で幸福な未来に向かって進んでゆくことができますように!


フランシスコ・ザビエルに帰せられる次の祈りがとても好きなので、また引用します。

「十字架上のキリストへの祈り」

主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私を引きつけるのはあなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられたはずかしめと死です。
そうです 主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても私はあなたを畏れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。
望みが何もかなわなくても私の愛は変わることはありません。

(伊藤一滴)

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