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非神話化の前提となる神話的な世界像2・神話

ブルトマンは、神話的な世界論の中にいた人たちの目からこの世界がどう見えていたのかを語る。神話的な思考について語る。
それは、先にも述べた通り、天界の勢力も下界の勢力も地上に来て人間に影響を及ぼす世界であり、超自然的な現象も普通に起きる世界である。

ブルトマンは、「神話的な世界論の中にいた人たちの目からこの世界がどう見えていたのか」を語るが、「そもそも神話とは何か」について多くを語らない。


神話とは何だろう。

私は、神話とは、科学的な認識が広まる以前の人たちの哲学的な思索等やその答えを当時の表現で伝えた物語ではないかと思っている。

以前私はこう書いた。
「古代人は私たちとは違います。地球が丸いことも、地球が太陽の周りを回っていることも知りませんでした。病原菌やウイルスの存在も知らず、病気を悪霊の働きと考えたり、悪霊のように体に入って来るものと考えたりしていた人たちです。」
「私たちが知るような科学を知らなかったのです。それは、科学的な事実が解明されていなかったからであり、古代人の知的な水準が低かったのではありません。古代人は、古代人の暮らしの中でさまざまな経験をしながら認識や存在を問い、考えたのです。この世界とは何か、人間とは何か、人が生きるとはどういうことなのか・・・・。古代人は思索を積み重ね、それを当時の世界観の中で、神話として表現し、伝えたのです。」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/02/post-2cdb.html

19世紀の自由主義神学の時代、新約聖書から神話的な記述を取り去ることで歴史的事実としてのイエスの姿に迫れるという考えもあった。だが、そうして描かれたイエス像の多くは、著者の思いや、19世紀の時代の風潮や理想の反映でしかなかった。

神話の除去による史的イエスの再現は、現代でも不可能だ。
聖書外の史料が少なすぎるし、新約聖書にしても、執筆者は史的イエスを描こうとしたのではなく、当時の神話的な表現でキリストとしてのイエスを証ししたのだから、そこから神話的な部分を取り去ったら、ほとんど何も残らなくなる。


我々は、過去の神話的な世界論を受け入れることはできない。この世界を神話的に見ていないし、神話論に立つ思考をしていない。
だが、新約聖書は、過去の神話的な世界論の中に生きていた人たちによって、当時の世界観を前提に書かれている。

現代の我々は、もう、キリスト教を信じることはできないのだろうか?

現代人がキリスト教を信じるためには、二千年前の世界観に立って、非科学的な目で現代の世界を見るしかないのだろうか?
たとえば、頭が痛いとかお腹が痛いというときに、「それは悪霊の働きかもしれない」と考え、紛争や災害や事故が起きれば「サタンの仕業ではないか」と考える、そうした思考でないと、純粋にキリスト教を信じることはできないのだろうか?
あるいは、現代では都合の悪い聖書の記述は適当に誤魔化し、現代科学にも適当に妥協して、聖書と科学の間で両者を宙ぶらりんに受け入れて、「聖書を信じています」と言い続けるのだろうか?

それとも・・・、何らかのやり方で、現代の科学的な世界観に立ったままでキリスト教の使信を受け入れることができるのだろうか?


ブルトマンは、第二次大戦中、神話的な世界論に立つことなく使信を受け入れる方法として非神話化論を主張した。

私の理解では、非神話化論の要旨は次のようになる。

新約聖書には神話的表現が多く見られる。特に神について語る中に見られる。
神話的表現は当時の表現であり、現代人はそのまま受け入れることはできない。文字通りに神話を信じるよう求めれば、現代人はそれにつまずき、聖書の真理まで聞けなくなってしまうだろう。
現代、神話をそのまま受け入れることができないからといって、神話的表現を削除すべきではない。大切なことが神話的に表現されているのだから、そこに込められた意味を現代人がわかるよう解釈して読み取るべきだ(これは合理化ではない)。
これを、非神話化と呼ぶ。

(『新約聖書と神話論』、『キリストと神話』などによる)

ブルトマン自身、非神話化という言葉を「不満足な表現」だと言っているが、この用語は定着し、広まった。神学界に論争を巻き起こし、戦後は広く人口に膾炙して大論争になったという。

(続く)

(伊藤一滴)

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