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非神話化1・ケリュグマと実存

ブルトマンによれば、新約聖書の中の神話的な表現を削除するのではなく、神話的な世界観からキリスト教の使信(ケリュグマ)を解き放ち、現代人がわかるようにすべきだ、ということになる。これが神話的表現の実存的解釈なのだという。

まさに、非神話化である。
非神話化によってキリスト教は現代人の宗教となり、未来に続く宗教となるのだろう。

ううむ・・・、ここで読者は(私も含めて)立ち止まる。

ケリュグマって何だ?
実存て何だ?

ケリュグマは、普通、「宣教」と訳されるギリシャ語だ。
(ケーリュグマ、ケールグマと書く人もいる。長音を無視するか否か、ギリシャ文字のυにラテン文字のYを当てるかUを当てるかだが、2千年前にどう発音されていたのかなんて、もう、誰も正確には再現できない。新約ギリシャ語をどう発音すべきかいろいろと意見もあるけれど、我々現代人がコイネーを読むなら、我々にとって便宜的な読み方でいいのではないかと思う。)


日本語版ウィキペディアに、「ケリュグマ(κήρυγμα)とは、新約聖書に8回出てくる語」とある。だが、その8回はどこに出てくるのか、箇所が示されていない。

新約ギリシャ語のコンコルダンスで κήρυγμα が使われている箇所を調べると、

マタ12:41
マコ16:20
ルカ11:32
ロマ16:25
1コリ1:21 2:4 15:14
2テモ4:17
テト1:3

えっ、9回出てくるんじゃないの?
そうか、マルコの箇所は明らかに後代の付加だから除くのか。

伝道を意味する語は他にもあるが、執筆者は何か意図があって κήρυγμα と書いたのだろうか?
マタイとルカはヨナの「宣教」という意味で使っているし・・・。


ブルトマンはケリュグマという語を「使信」という意味で使っている。わかりやすく言えば、新約聖書のメッセージを伝えるということか。

宣教者イエスは、被宣教者キリストになっていった。
宣教する者が、彼こそはキリストだと宣教される者になっていった。

史的イエスとケリュグマのキリストは違う。峻別すべき者なのだ。
キリスト教が信じるのは、史的イエスの教えではなくキリストの宣教(ケリュグマ)だ、ということか。

「『史的イエスとケリュグマのキリスト』といった分け方をしてはいけません。それは自由主義神学の間違った考え方です」みたいなことを言う人もいる。だが、これら両者を分けなければ、我々はキリスト教を信じることができなくなる。史的イエスの復元は、もはや不可能だ。古代の神話を文字通り信じるのも不可能だが、復元できないイエスの言葉を信じることはできない。新約聖書は、イエスの言葉を、彼の口から出た発言のまま保存してはいない。それを忠実にもとの発言に復元するのはもう不可能だ。それに、ブルトマンの主張は自由主義神学ではない。彼は様式史的研究と非神話化によって、19世紀の自由主義神学を乗り越えた人だ。原理主義者は自分たちと異なる神学のすべてに「自由主義神学」のレッテルを貼りたがるが、もういいかげん、やめていただきたい。視野が狭くレッテル貼りが好きな人たちはネトウヨと似ている。ネトウヨたちは自分たちが気に入らない論者のすべてに「左翼」のレッテルを貼りたがる。右翼団体の代表だった鈴木邦男さんまで、ネトウヨから「左翼」と呼ばれていて、びっくりした。


現代のキリスト教が信ずべきはケリュグマ(使信、キリストの宣教、つまり新約聖書のメッセージ)であり、神話ではない。
その際、神話を除去するのではなく、神話に込められたケリュグマを現代人の視点から読み取るべきだ。
新約聖書の記述の中の実存を、現代人がわかるように置き換える必要がある。
どうも、そういうことのようだ。


では実存とは何だろう。
存在とどう違うのだろう。

それって、もう、聖書学の話ではなく、哲学の話ではないか?

それを言うと、また、
「パウロはこう言っています、『あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。』(コロサイ人への手紙 2:8 新改訳)。哲学なんて、みな、だましごとです。この世に属する幼稚な教えで聖書を解釈すべきではありません」
なんて言ってくる人がいる。
そんなことを言われるたびに、あきれる。いいかげんにしてもらいたい。新約聖書の文書を執筆した人が20世紀の哲学を知っていたはずがない。ぜんぜん時代が違う。
どちらも「哲学」だからと、話をごちゃ混ぜにしたら、もう、話にならない。当時のコロサイ書の著者が知る範囲の「むなしいだましごとの哲学」を、他の哲学にも当てはめ、20世紀の哲学にまで当てはめようとするのは牽強付会も甚だしい!
当たり前すぎるくらい当たり前だが、また同じことを言われる前に先手を打っておく。


「存在」も「実存」も、どちらも「ある」ということであるが・・・、
哲学では、「存在」と「実存」とを使い分けている。

「存在」という言葉は日常的に使われるが、「実存」とは何だろう?
人間の実存であれば、現実の体験を持ち自らの存在の認識や自覚を有する人のあり方を言うのだろう。
生まれたばかりの赤ちゃんや人間以外の生物や非生物であっても、それが他者に何らかの影響を与えているのならば、それも、そのものの実存と言えるのだろう。
つまり実存とは、他者(または自己)に何らかの働きかけをして影響を与える存在である、ということか。

それなら、「実存」ではない「存在」なんてあるんだろうか。
たとえば、人が頭の中で作り出した架空のイメージで、その人もすぐ忘れてしまったイメージなら、頭の中に一時的に存在していても実存とは言えない、ということになるのか。もっとも、そのイメージをずっと忘れなかったり、絵などで表現したり、誰かに語って影響を与えたりすれば、架空のイメージも実存になるのかも知れないが・・・。

なんか、やはり話が抽象的な哲学の世界に入っていく・・・。
(だから、ブルトマンの主張が理解できない人たちから「むなしいだましごとの哲学」なんて言われちゃうんだな。)


「実存」について考えてゆくと、古代人の実存も現代人の実存も、あまり変わらないのではないかと思えてくる。どちらも人間なのだ。古代人だって、日々の暮らし、体験の中で、喜びも悲しみもあり、何かを考えたり願ったりして、実存的に生きていたのだ。

イエスはキリストだと信じた人たちは、当時の神話的な世界観を前提に、語り、受け継ぎ、まとめ、記した。

キリスト教の核心部分は神話にあるのではなく、実存的なケリュグマにある、ということになる。


私は先に、ブルトマンが言う「史実史」と「歴史」(実存史)の違いに触れたが、「史実史」は存在としてあり、「歴史」は実存としてある、と言えるのだろう。
そして、(ブルトマンの影響を受けたであろう)遠藤周作が言った意味での「事実」は存在としてあり、「真実」は実存としてある、ということなのだろう。

19歳、20歳の頃にブルトマンの著書を読んでも、わからないことが多かった。
今になって(もうすぐ私は60歳だ)、やっと、ここまでたどり着いた。

(続く)

(伊藤一滴)

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