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非神話化8の6・現存の十字架

話を戻す。

聖礼典(=サクラメント、秘跡)の中に、また、日常生活の中に、キリストの十字架と苦難は現存するという話だった。

「クリスチャンは神の国と神の義を第一に求めるべきであり、政治や社会の問題に口出しすべきではありません」といった主張があるが、それは十字架の現存に反する。政治や社会の問題は日常生活と深く関わっており、その日常生活の中にキリストの十字架と苦難が現存するのなら、政治や社会の問題への取り組みも神の国と神の義の希求の一環だと考えなければ筋が通らない。

信者は聖礼典によって、また日常生活においてもキリストの十字架と苦難と共にある。


どこまでを聖礼典の範囲とするのかは、教派によって異なる。多くのプロテスタントは洗礼と聖餐の2つを聖礼典とし、カトリックは7つのサクラメントを主張する。カトリックの場合、サクラメントは、洗礼、堅信、聖体、叙階、婚姻、告解、終油の7つとされてきた。近年は、告解と言わずに「ゆるしの秘跡」、終油と言わずに「病者の塗油」と言うことが多いようだ。正確でわかりやすい表現に換えているのだろう。
無教会のように、目に見える形での聖礼典を執り行なわない集まりもある。この場合は、精神的なサクラメントの内にある、ということなのかもしれない。

クリスチャンの中に、サクラメントが何より大事みたいな雰囲気を感じることがあった。もちろんごく一部であり、全体がそうだというのではない。
サクラメントを大事にすることを非難などしない。だが、それは他の何よりも優先すべきことであろうか。
たとえば、聖餐を受けることを優先して病気の家族を家に置いて教会に向かったなら、それは神の御旨にかなうのだろうか。あるいは、教会に向かう途中で行き倒れの人を目撃したが、聖餐式に遅れるといけないから知らんぷりして通り過ぎた、という場合はどうか。聖礼典は何より大切な信者の義務で、他のすべてに優先することなのか?

イエスの教えの頂点にあるのは「心から神を愛し、隣人を愛すること」であろう。サクラメントの否定ではなく、優先順位の問題なのだ。「イエスの教えに従うなら何を優先するのか」という話だ。


先に史実史と歴史(実存史)について述べたが、イエスの苦しみと死は、史実であると同時に、信じる人にとっての歴史(実存史)でもある、ということになる。

この歴史は、単に、終わってしまった過去の出来事ではなく、現在の出来事でもある。
今、十字架は、聖礼典(サクラメント)の中にあり、日常生活の中にある。
こうした主張はキリスト教界には広くあって、ブルトマン独自の主張ではない。ブルトマンは、十字架の現存に関しては、正統的な教義を受け継いでいると言える。


新約聖書は、読みようによっては、審判の時は既に来ており神の国は到来しているとも読める。十字架の意義は、世に対する審判であり、人に対する審判なのである。
イエスの十字架の死は、我々を解放するのであり、自分自身を十字架につけてイエスに従うのかどうかが問われている。

何か、こうやって、ブルトマンの主張を要約しようとすると、保守的なキリスト教と重なる部分がかなりあるようだ。ブルトマンはキリスト教を破壊したのではなく、キリスト教の側に立って護教的な主張をしたのだと思う。
見方によっては、科学が進んだ20世紀におけるキリスト教の生き残りの道なのかもしれない。


「ブルトマンは異端です」などと言う人たちに近寄らないほうがいい。それはカルト思考の人たちだ。強力なイデオロギーの支配下にあって、頭の中が古代や中世から進化していない。彼らにとってブルトマンは都合が悪いのだ。
「ブルトマンは教義の一部を変更した」と非難する人もいるが、ルターやカルヴァンだって、当時の教義を一部を変更しているではないか。プロテスタントが枝分かれしたのだって、さらなる教義の一部変更があったからだ。見方によっては、それは教義の進歩、進化とも言えるのではないか。教義の一部変更を否定するのなら、プロテスタントを否定しないといけなくなる。カトリックが公会議を開いて教会の刷新をはかったことも否定しないといけなくなる。
だいたい、「ブルトマンは異端です」とか「ブルトマンは教義の一部を変更した」とか言って非難する人たち自身、新約時代の教えを忠実に受け継いでいるわけではない。彼らは、聖書のどこにも書かれていないことを強く主張する一方で、聖書に明白に記された言葉の一部を無視している。
日曜日は安息日だとか、日曜礼拝参加は義務だとか、飲酒は一切禁止とか、どこにも書かれていないことを言い張る。聖書は66巻だとか、信仰の論拠は聖書のみとか、聖書は誤りなき神の言葉であるとか、こういったことも書かれていない。誰も先生と呼んではいけない、一切誓ってはいけない、女性は教会で教えてはいけない、これらは書いてある。書いてあるのにこっちは無視か。
ブルトマンが熟慮の末に出した見解を「聖書に反する」と簡単に否定しておいて、自分たちの「聖書のどこにも書かれていない主張」や「書いてあるのに無視する主張」は理屈をこねて正当化するのか。
ああ、いけない、こうした話になるとまたまた脱線する。


「イエスの十字架の死は旧約の完成である」とか「イエスは十字架で私たちの罪を贖った」とか、「正統」の人たちは言うが、こうした見解には、ブルトマンは否定的だ。
やはりこれは、受け継がれてきた教義の一部変更ということになろう。

「イエスは十字架で私たちの罪を贖った」という贖罪説は当然のように語られてきたが、実は、はっきり聖書にそう記されてはいない。贖罪説はパウロの書簡から導かれた見解であるが(ロマ3:23~24など)、これは新約全体を貫く主張とは言えない。特にヘブル書は、イエスの十字架の意義を論じながら、贖罪説がまったく出てこない。私は、ヘブル書は、贖罪説への反論の書かと思った。

「聖書はすべて神の霊感によって書かれた誤りなき神の御言葉です」などと言っていると、聖書の各文書の考え方の違いが見えなくなってしまう。

先にも言ったが、「聖書はすべて誤りなき神の御言葉である」という言葉はもちろん、「信仰の論拠は聖書のみ」とか「聖書は66巻である」とか、聖書それ自体のどこにも書かれていない。これらは、時代の状況の中で主張されたことだ。
時代の状況の中での主張をイエスの教えと同等に置くことはできない。時代的な主張を、時代を超えた普遍の真理のようにせず、なぜそう主張されたのかをふまえ、場合によっては見直す勇気も必要であろう。


ブルトマンは十字架を実存的に捉えようとする。
イエスの十字架は、神話論的に捉えるべきではなく、実存論的に捉えるべきだということになる。
だが、実存論の解釈は分かれるかもしれないし、やがて実存論的解釈だって、20世紀の時代の風潮、時代の制約の中で主張されたことだと言われてしまうかもしれない。
また、実存論のような抽象的な考えを一般庶民に伝道し、それを信じて受け入れる人がいったいどれだけいるのだろう。教会は大学の哲学科の学生だけを対象に伝道しているのではない。
実存論的理解は一部の人たちの信仰となり、大衆を切り捨てることにはならないのだろうか。
疑問はいろいろと残る。

(伊藤一滴)

(次回は、「イエス・キリストの復活」を予定。そのあたりで一旦終了しようと思います。でも、もしかすると、「キリストの再臨」「永遠の生命」まで話が行くかも。)


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