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現代科学を否定する無理な信仰

今となっては数は少ないだろうが、今も日本国内に、北朝鮮を支持する人とか、日本の社会主義革命を信じる人とか、いるにはいるようだ。

ひとたびそういう考えを持つとなかなか改められないのかもしれないが、今の日本に住み、普通に情報を得て、それでなお考えを改めないというのは、かなり無理な信じ方をしているのではないか。

そんなことを思ったのは、福音派の中の一部の人たちの無理な信仰と似ていると感じたからだ。
福音派と称する中に、成り立たないことを、かなり無理をして、かたくなに信じている人たちがいる。(注1)

今の日本で、普通に教育を受け、普通にテレビや新聞やネットから情報を得て、それでなお、地球が出来たのは紀元前4004年頃だとか、ノアの洪水の時に恐竜が絶滅したとか、生物は一切進化していないとか、そういったことを言い張るのは無理がある。


ここに進化論の要点を書こうかと思ったが、私のような素人が書いたものより専門家が書いたものを読む方がずっといいと思うので、書くのをやめた。進化論や進化については、入門書から専門書まで数多く出ている。日本語版ウィキペディアの「進化」の項を読むだけでもとても参考になると思う。

反進化論者は、最初から答えがあって、客観的に真実を求めるのではなく、答えに合致するよう話を持って行く。だから、データを挙げて理論的に説明しても話は平行線になる。
それは間違った演繹法の使い方だ。演繹法は、まず万人が認める事実が前提にあり、なぜその事実が成り立つのかを論理を積み重ねて結論を出す方法だ。
たとえば、高い山に登れば上に行くほど寒くなるのは万人が認める事実である。「そんなことはない、上に行くほど太陽に近くなるから暑くなるはずだ」といくら言ってみても、事実に反する。なぜ上に登るほど寒いのか、その理屈を求めるのが演繹法だ。

反進化論(創造論)は、世の万人が認める事実とは言えない。だから、演繹法は使えない。
演繹法を使えない分野に使おうとするから話がおかしくなる。


また、事実に反する主張も、理屈をつけて事実であるかのように説明することが可能な例はいくつもある。もちろん間違った理屈だが、一見、事実のように話を持って行くことができるのである。

有名な例に、アキレスと亀の話がある。古代ギリシャのゼノンのパラドクスだという。

足の速いアキレスと、亀が競走した。
ハンディを考慮し、アキレスはだいぶ後ろからスタートした。
わかりやすいように、アキレスは亀より100メートル後ろからスタートしたとする。
後ろからスタートしたアキレスは、絶対に亀を追い越せない。
アキレスが100メートル走るうち、亀は少しは進んでいる。アキレスが100メートル走った時点で亀が10メートル進んでいれば、アキレスは10メートル先の亀を追い越そうとする。アキレスが10メートル走る間、亀は1メートル進んでいる。アキレスが1メートル走る間に亀は10センチ進んでいる。アキレスが10センチ走る間に亀は1センチ進んでいる。
差は小さくなっていくが、どこまで行っても追い越せない。アキレスがどんなに速かろうが、亀を追い越せない。

もちろん事実ではないが、事実でないことも、筋の通った話のように持って行くことができるのだ。
反進化論者の理屈を聞くと、私はこの話を思い出す。


今、私の手元に、
ダーウィン『種の起源』の他に、
ドーキンス『利己的な遺伝子』、
同『進化の存在証明』、
同『悪魔に仕える牧師』
などがある。
あとは、
ブライアン・スウィーテク『移行化石の発見』
などもある。

私は、これらの本について、ここには論じない。
私は進化論に関してまったく素人だし関心分野でもないから、深入りしないし質問されても答えられない。

ただ、素人なりに思うことを少しだけ言っておく。

ある人たちが言うように、天地創造は6日(1日は24時間)で行なわれたのなら、恐竜はいったい何日目に創造されたのだろう。
以前、ある原理主義者に恐竜は何日目に創造されたのかと聞いたら、
「恐竜なんていませんでした。聖書のどこにも恐竜のことなど書いてありません。恐竜の化石とされているものは天地創造の真理をごまかすためにサタンが造ったのでしょう」
という答えだった。
うちの息子にその話をしたら、
「恐竜が地球上にいたのは数時間か、長くても数日だろうね。天地創造はたった6日間で、恐竜は人類の発生より先に絶滅してるんだから」
と、冗談ぽく言っていた。

創世記の冒頭を文字通り読むなら、太陽ができる前から地球があり、光があり、地上には植物が生えていたことになる。
太陽ができる前の光って、何?
太陽ができる前の1日って、何?
太陽のない太陽系で地球は自転公転していたのか?
先に造られた地球が、あとから造られた太陽の周りを回り出し、月が地球の周りを回り出したのは、どういう理屈なのだろう? 天体の引力と遠心力のつり合いは滅茶苦茶になる。
「できたばかりの地球は厚いガスに覆われていました。空が晴れて、太陽や月が見えるようになったときのことを2つの天体の創造としているのです」
と言っていた人がいたが、そんなことは聖書のどこにも書かれていない。
「神様は物理の法則など超えています。神様は何でもおできになるのです」
と言う人もいたが、いったい神は何のためにそんなことをなさる必要があるのか。

ネアンデルタール人をはじめ、現生人類以外のヒトの化石も見つかっているが、彼らは何日目に創造されたのか? 彼らはアダムの子孫ではないのか? もしアダムの子孫でないなら、原人や異種のヒトは誰が創造し、どこから来たのか。これも、「ネアンデルタール人なんていませんでした。化石は天地創造の真理をごまかすためにサタンが造ったのでしょう」となるのか。

遺伝子の研究によって、現代人とネアンデルタール人との混血も明らかになっているが、アダムの子孫と出所不明のヒトとの混血をどう説明すればいいのか?
この日本にだって、4万年近く前には人がいたようだが、彼らもアダムの子孫なのか? アダムは紀元前4004年頃に創造されたのに、はるか昔に日本に人間がいたのは、なぜ?

「アダムもエバも架空の人で、神と人との関係を説明するために創作された物語の中の登場人物」と考えれば、すべて説明がつくのに。
「アブラハム以前の話はすべて神話的な物語」と考えるのは、神の否定でも信仰の否定でもない。実際、現代のプロテスタント主流派やカトリック信者の多くはそう考えている。

参照 聖書の史実性
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2023/08/post-4179.html


反進化論者は、「かつて科学的に正しいと考えられていたことが誤りだった例はいくつもあります」と言う。確かにその通りだが、それは「新しい科学が過去の研究を乗り越えた結果」であり、「科学と宗教とが対立して宗教が勝利した結果」ではない。

私は、現代の科学は万能だなんて思っていないが、科学を乗り越えるのはさらなる科学であり、宗教的な先入観が科学を乗り越えることなどないと思っている。

仮に進化論が誤った仮説なら、今後の科学がそれを乗り越える日を待つべきだろう。聖書にこう書いてあるから、ああ書いてあるからと、「聖書的に」介入すべきことではない。

実際、歴史の中で、教会が科学に介入したことがたびたびあった。そして、その結果は、教会の側の全戦全敗だった。全敗の結果、多くの教会は、聖書の記述から科学に介入してはいけないことを学んだ(注2)。今日、エキュメニズム派(プロテスタント主流派やカトリックの教会)が、聖書の記述をもとに科学に口をはさむことは、まず、ない。過去の歴史を省みて、聖書の記述を科学を論ずる場に持ち込んではならないと、よくよくわかっている(注3)。


聖書と科学は初めから次元が違う。

これがわかっていない人たちが、プロテスタントの一部にいる。宗教上の見解と科学的見解を混同しているのだ。
その思考は、科学的事実が明らかになる前の中世的な世界観であり、現代の思考ではない。もちろん、未来に向かう思考でもない。(注4)

(伊藤一滴)


注1:無理な主張は、時に、陰謀論者やネット右翼(ネトウヨ)等と共通することがある。無理な主張が否定されると、感情的になって食ってかかってきたり、話の論点をずらしたり、だんまりを決め込んだりする。そして別の場で、また無理な主張をする。以下は「福音派」の話ではないが、無理な主張の一例を挙げておく。
「関東大震災後の朝鮮人虐殺はなかった」といった類の主張があるが、朝鮮人と間違えられて殺害された日本人がいるのをどう説明するのか。間違えられて殺された日本人はいたが、本当の朝鮮人は殺されていないとでも言うのか。
「虐殺というのは惨たらしくなぶり殺しにすることで、一気に殺すのは虐殺とは言わず殺害と言う。朝鮮人殺害はあったが、虐殺はなかった」みたいなことを言うネトウヨもいるが、それは安倍晋三派お得意の御飯論法だ。「朝、パンは食べたが御飯(白米)は食べていない。だから、朝御飯は食べていない」と言うに等しい。

注2:A.D.ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』(岩波新書)にポイントがまとめられている。この本は戦前に出版され、1968年に現代表記の改訂版が出されている。改訂版のほうが読みやすいが、改訂版では、残念なことにガリレオ・ガリレイへの判決文などが削除されている。この判決文もキリスト教の歴史を考える上で大変参考になるので、旧仮名遣い・旧漢字でもいいという方は改訂前の版でお読みになるといいと思う。
なお、森島恒雄著『魔女狩り』(岩波新書) も、キリスト教の歴史を考える上で大変参考になる。

注3:核兵器や原子力発電に反対したり、遺伝子組み換えに反対したりするのは、科学への介入ではなく、人間や地球の環境を脅かすものへの反対だ。
原子物理学の理論や遺伝子の理論そのものに反対しているわけではない。

注4:全員がそうだとは言わないが、進化論否定論者のクリスチャンの中に、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人たちがいる。迷惑な話だ。

誤解されるといけないから何度も繰り返して言うが、進化論に否定的な人はみなタチの悪い原理主義者やカルト、というわけではない。
心優しく善良なクリスチャンの中にも、進化論に否定的な方々がおられる。
前から何度も言っているとおり、進化論についての自分の思いを正直に書くと、そうした、私に親切にしてくださった心優しいクリスチャンたちの顔が浮かんできて、胸が苦しくなる。恩人を悪く言うようで、申し訳ない。だが、私は、自分の考えを偽ったり、あいまいにしたりしたくない。

福音派を名乗る人に、「カトリック教会や主流派のプロテスタントについてどう思うか」を聞けば、穏健な福音派なのか原理主義系なのかの判別になる。だが、「進化論についてどう思うか」は、そうした判別には使えない。

原理主義者(自称「福音派」)による他派批判の主張の多くは、勝手な思い込みであり、正確で正当な批判ではない。最近の事情を反映していない戦前の本や、そうした本を孫引きしたような本、不正確な伝聞などを使って非難する。他派と対話せず、勝手にこうだと思い込む。また、他派が出している手引書などをどこかで手に入れてきて非難する。そうした手引書類は、その教会の指導者が解説することを前提に書かれたものなのに、解説を聞かずに勝手に読んで勝手に解釈して非難する。
迷惑な話だ。
「それは違います」と言っても聞く耳を持たない。真理の側にいる自分たちは、間違った側の話など聞く必要はないと考えているようだ。

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