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非神話化8の5・日常生活の中の十字架

(あまりに文章が乱れたので、書き直しました。すみません。)


前回、聖礼典(サクラメント、秘跡)の中にキリストの十字架と苦難は現存するというブルトマンの見解を書いた。その点、ブルトマンは、パウロの主張に従っている。

またブルトマンは、聖礼典においてだけでなく、日常生活の中にキリストの十字架と苦難は現存するとして、次のように言う。読みやすい文章ではないが、山岡喜久男訳の『新約聖書と神話論』から引用する。

「それから、さらに、キリストの十字架は、信徒の具体的な生活遂行において、現在なのである。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ5:24)。またパウロは、『わたしたちの主イエス・キリスト十字架によって、この世は、わたしに対して十字架につけられ、わたしもこの世に対して十字架につけられてしまったのである』(ガラテヤ6:14、ブルトマン訳からの重訳か、引用者)と語り、また『その死のさまとひとしくある』者として、『その苦難にあずかる』ことを経験せんと努めているのである(ピリピ3:10)。」

「いまや、『情と欲』とを十字架につけることが、それをとじ籠めることであり(私はこの見解に賛成しているわけではない、引用者)、また苦難に面しての恐怖と敗走とを克服することであり、また、苦難を引き受けることが、この世からの自由を獲得することであるかぎり、つねにそこで死が人間に働くところの苦難を喜んで引き受けることは、『イエスの死を、われらの身に負うている』ことであり、『イエスのために死に渡されている』ことなのである(コリント後4:10以下)。かくして、キリストの十字架と苦難は現在なのである。」

また、キリストの十字架と苦難は、過去の出来事に限定されるべきではないとして、次の箇所を挙げる。これは、パウロの弟子の一人がパウロの名で語った言葉であるという。

『いま、わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている』(コロサイ1:24)

以上、『新約聖書と神話論』より。

これらはみな、新約聖書に収められたパウロの言葉、およびパウロの名によって書かれた言葉である。
やはりブルトマンは、パウロの見解のある面は受け入れている。

(続く)

(伊藤一滴)


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