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非神話化の前提となる神話的な世界像1・古代人が見ていた世界

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新約聖書の世界は古代人の世界であり、その時代の人々の世界像は現代の我々が思い描く世界像とはかなり違っている。
彼らは、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか、知らなかった。細菌やウイルスが原因で病気になることも知らなかった。経験的に知っている現象も、科学的に説明することができなかった。
当然だが、当時の人たちは現代人より「頭が悪かった」のではない。彼らには「今日のような科学的な認識がなかった」のだ。当時は知るすべもなかったのだから。

そのような古代人が執筆した聖書を、現代人の我々が「文字通り」信じることができるのだろうか?
答えは否である。
もし、聖書を「文字通り」信じるなら、我々は古代人と同じ世界像を受け入れなければならなくなる。聖書は当時の世界像を前提に書かれているのだから、その世界像を受け入れることができないのなら、文字通り信じることなどできないのだ。

今日でも「聖書を文字通り信じています」と言う人はいる。だが、そう言う人の多くはかなり無理な信じ方をしているように思える。


新約聖書の人々がイメージしていた「地球」は(「地球」と書くが、球ではない)、真ん中に大地があって、大地の上には天界があり、下には下界がある三層の世界であった。天界は神や天使の場所であり、下界は漠然と陰府の世界とされていたが、下界には悪魔や悪霊たちの居場所もあると考えられていた。天界の勢力も下界の勢力も地上にやって来て、超自然的な業を為し、人の考えや行動にも影響を与えると考えられていた。当時の人たちにとっては、奇跡も、当然起きることであった。

聖書は文字だけで伝えられており、図はない。(図入りの聖書もあるが、それは後代に描かれた図だ。)
もし、文字と共に執筆当時の図も伝えられていたとしたら、上述のような三層の世界が描かれていたことだろう。

ブルトマンは「イエス・キリストによる神の救済の業」も当時の神話論的に記述されたと言う(『新約聖書と神話論』)。
神話的な世界観の中でイエスに出会った人たちが、体験し、語り、伝承され、まとめられた記述が神話的になるのは当然だと私も思う。
新約聖書の救済論は、その時代の考えであり、黙示思想とグノーシス的救済神話の影響を強く受けているという。使徒信条、ニケア信条等の信仰告白もこの救済論のもとにある。


我々現代人が信仰を受け入れるためには、古代人がイメージしていた神話的な世界像も受け入れなければならないのだろうか?
これがブルトマンの問いである。
我々は、現代の科学を知ってしまった。我々は古代人でも中世人でもなく、科学的な思考を身につけた現代人だ。化学や物理の法則、地球や宇宙の姿が、科学的に論じられる前の世界に戻るのは、もはや不可能だ。

こうした話をすると「科学は万能ではない」とか「現代の科学も仮説でしかない」とか言ってくる人たちがいる。私は「科学は万能だ」とか「現代の科学はすべて正しい」などと言っていないし、思ってもいない。話をすり替えないでもらいたい。
現代の科学は、これまでの長い研究の積み重ねによって、今日の段階でたどり着いた成果である。すべての面で絶対ではないし、完全でもない。分野によっては今後の研究でかなり修正されたり乗り越えられたりするかもしれない。未来には、「今では考えられないような話ですが、21世紀の初頭には、まだ~も解明されておらず、当時の人たちは~と考えていたのです」などと言われるのかもしれない。それは、今後の科学的な研究によるのであって、聖書の神話的な記述が科学の成果を乗り越えるという話ではない!

ブルトマンは言う、神話的な世界像の容認が不可能である場合「ついで起こる問題は、新約聖書の宣教は、神話的世界像に依存しない真理を持っているか否かということである。そのような真理があるとすれば、その場合には、キリスト教的宣教を非神話化するということが、神学の課題となるであろう」(『新約聖書と神話論』)。

ブルトマンは、神話的世界像を受け入れるよう求めるのは不可能だし無意味だという。
そして、そもそも、神話的世界像は、キリスト教だけに見られる独自のものでもない。実際、病気を治す奇跡にしても、死と復活にしても、他の宗教や神話の中にも見られる。決して、キリスト教のオリジナルではない。
ユダヤの民に限らず人類が科学的な思考を身に付ける以前の世界では、人々は、広く神話的世界像の中にいた。それは、ブルトマンに言わせれば「過ぎ去った時代の世界像に過ぎない」のだ。

今日、そのような世界像を受け入れるよう伝道するのは無意味である、という。現代人に対する宣教は、新約聖書の使信(ケリュグマ)を伝えることであり、ケリュグマにこそ神話的世界像とは別の普遍の真理があるのだから、聖書を非神話化する必要がある、という。
私の理解では、ブルトマンが言っていることは、そういうことだ。


1983年、19歳の私は、仙台市内の福音派の教会で教えを受けていた。牧師さんはとてもいい人で、お話をうかがうのは楽しかった。その牧師さんは、他教派や他宗教も含めて誰のことも悪く言わなかった。カトリックのことも、リベラルなプロテスタントのことも、仏教や神道のことも、決して悪く言わなかった。誰に対しても優しく、人の話をよく聞いて一緒に考えてくれる人だった。本当にいい人だった。そんないい人でも、やはり、福音派の一員として譲れない立場があった。
私はその牧師さんが好きだった。だが、心の中には「理性や知性を犠牲にしないと成り立たない信仰が本当に正しいのだろうか」という思いもあった。
その頃たまたま本屋で見かけた山形孝夫や八木誠一の本、ブルトマンの本の日本語訳などを手にし、心に電流が走るような衝撃を受けた。そして、だんだんに、正しさはこちらにあるのではないかと思うようになっていった。

ブルトマンはキリスト教の信仰を否定したのではないし、神話的世界像を削除しようとしたのでもない。彼は神話的世界像を文字通りに受け入れるのではなくそこに込められた本当の意味を求め、ケリュグマにこそ普遍の真理があると考えたのだ。

(思索の途上です)

(伊藤一滴)

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