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ぼんやりと鏡に映った姿のようなイエスについて行こうと思った

イエスはいつどこで生まれ、誰から洗礼を受けたのだろう?

私は10代の頃、「イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれ、30歳の頃にヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けた」と素朴に思っていた。

その頃は、新約聖書の記述は基本的に事実に基づいて書いてあると思っていた。

「キリストのご降誕」を描いた西洋の絵画を見ながら思った。
「東の博士たちは馬小屋に来て、黄金、乳香、没薬を渡したのだろうか? でも、マタイ伝には「家に入って」って書いてある。家? 馬小屋じゃなかったの?」
1980年代のはじめ、10代の私は何人かのクリスチャンに聞いてみた。そしたら、答えはまちまち。
「出産後に馬小屋からどこかの家に移動したんでしょう」
って言う人もいるし、
「イエス様が生まれた時に星が現れ、その星をたよりに博士たちが出発し、ベツレヘムに着いたのは2年後くらいなのでしょう。ヘロデ王はベツレヘムとその周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしているのですから、博士たちが到着したときイエス様は2歳くらいだったと考えられます」って言う人もいるし、私の頭はハテナ???
2年後なら、なんでマリアとヨセフはイエスと共にベツレヘムにいたんだろう?
2年間、何をして暮らしていたのだろう?

ご降誕の絵を見ながら心に浮かんだ疑問。このあたりから、だんだんに、聖書にはつじつまの合わないことも書いてあるようだと思うようになった。

ヘロデ王というのはユダヤの領主ヘロデ大王のことで、紀元前4年に没している。だから、イエスがヘロデ王の時代に生まれたのなら、イエスの誕生は紀元前4年かそれ以前になる。2歳以下の男の子を皆殺しにしたというのだから、イエスは紀元前6年頃に生まれたのかもしれない。もっとも、ヘロデによる嬰児虐殺の話は、旧約の預言が成就したことにするためのマタイの創作だろうけれど。

じゃあルカ伝にある「クレニオ(キリニウス)がシリアの総督だったとき」の人口調査はいつなのだろう。
クレニオは紀元後6年にシリア州の総督になっている。そして、当時ローマの直轄となったユダヤで人口調査が行なわれている。紀元6~7年のことである(紀元前6~7年ではない)。

マタイの記述とルカの記述は十年~十数年違う。
このズレは埋めようがない。

「ヘロデ大王が生きていた時代に、クレニオは一時的にシリアの総督になり、そのときに人口調査があったのでしょう」といった主張もあるが、これは聖書の記述を史実とするためのつじつま合わせだ。まず、ローマ側にそんな記録がない。皇帝アウグストゥスの勅令で「全世界」の人口調査が行なわれたのなら各地に記録がありそうだが、新約聖書のルカ伝以外、まったく記録がない。

それに、ヨセフはダビデの家系だからダビデの町ベツレヘムで登録するというのも変な話だ。
今の私はダビデ王というのは架空の人物の可能性があると考えているが、もし実在の王であったとしても、ダビデの時代とヨセフの時代は千年も違う。親や祖父母の出身地に行くのではない。千年前の先祖の町だ。我々は役所に何らかの登録をする時に千年前の先祖の町に行くだろうか? 千年と言えば、今の時代と紫式部の時代くらい違う。役所への登録で平安時代の先祖の町まで行くなんて、想像もつかない。

マタイによれば、ヘロデが幼な子の命を狙っていると知ったヨセフは、マリアとイエスを連れてエジプトに逃れたという。このときイエスが2歳くらいなら、子連れの一家族がシナイ半島の沙漠を越えるのは、かなり難しかったろう。
もし、イエスが生まれたばかりのときのことだと考えれば、新生児を連れてのエジプトへの逃避は、まず、不可能だったろう。
エジプトへの逃避の話もまた、旧約の預言が成就したことにするためのマタイの創作だと考えられる。マタイはエジプトに行ったことなどなくて、パレスチナからエジプトに行きまた戻るのがどれほど大変か解っていなかったのだろう。

「人にはできないことも神にはできます」と言う人もいるが、神は十年かそれ以上の時間をずらしたりなさるのか。紀元後6~7年に行なわれた人口調査を紀元前4年より前にずらしたりなさるのか。そして、勅令による「全世界」の人口調査の事実を、新約聖書以外のあらゆる古文書や考古学的記録から、すべて消し去ったりなさるのか。
たとえ神ならできるにしても、神は何のためにそんなことをなさる必要があるのか。

つまり、ルカ伝にあるイエスが生まれたときの人口調査の話も、創作と考えるべきだ。これも、イエスをキリストとして描くために創作された物語なのだ。


それに、どうしてイエスはナザレ出身なのか。
そもそも、イエスの時代、ナザレという町はあったのか?
ナザレは今もあるし、中世には大きな町だったというが、現在や中世の話ではなくイエスの時代の話だ。

ナザレという町は旧約聖書に一度も出てこない。タルムードにも出てこないという。フラヴィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代史』や『ユダヤ戦記』にも、まったく出てこないという。小さな町の名まで数多く記したヨセフスにしては不自然ではないか。
それに新約聖書には、イエスが故郷で崖から落とされそうになる場面が出てくるが、ナザレにそのような崖はないという。

今の私は、「新約聖書に出てくるナザレという町の存在自体が架空だ」と考えている。おそらく、イエスをナジル人(ナザレ人)とするために作られた架空の町の名なのだろう。イエスはナザレの出身だからナザレ人(ナジル人)なのだという伝説がある程度広まってから、ガリラヤのある町がナザレと名乗るようになったのではないだろうか。

「新約聖書に死海がまったく出てこないからといって、当時死海がなかったという話にはならない」と言う人もいるけれど、それはまた別な話だ。死海は、イエスとの関係が近すぎたのだ。
イエスの師(または先輩)と考えられるバプテスマのヨハネも、イエス自身も、クムラン宗団のメンバーから分派したのかもしれないし、メンバーでなくとも、かなり影響を受ける近い関係にあったのだろう。関係が近すぎるが故に、新約聖書は死海のほとりのクムラン宗団を黙殺し、エッセネ派を黙殺し、死海の存在まで黙殺したのだろう。

イエスがいつ生まれたのか、はっきりとは分からない。どこで生まれたのかも分からない。育ったのは、ガリラヤだろうが、どこの町なのかも分からない。
イエスについては、わからないことだらけだ。

イエスは30歳の頃にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたと数年前まで思っていた。
だから、このブログにも、そう書いたこともあった。
イエスはヨハネから洗礼を受けた可能性は高いと思う。だが、断定はできなくなってきた。

ヨハネによる洗礼をはっきり書いているのはマルコとマタイだけだ。ルカ伝を素直に読めば、イエスが洗礼を受けたときにヨハネは獄中にいたように読める。そしてヨハネは斬首され、生きて帰ることはなかった。

イエスが洗礼を受けると「そしてすぐに、霊がイエスを荒野に追いやった」という(マルコ1:12)。「そしてすぐに」だ。イエスは荒野で「四十日四十夜、断食をした」という(マタイ4:2)。ところがヨハネ伝によれば、イエスは受洗の翌日に弟子の召命をやっている。バプテスマのヨハネも捕らえられていない。その後もイエスは、カナの婚礼に行ったりニコデモと対話したり、ちっとも荒野に行く気配がない。マルコは「そしてすぐに、霊がイエスを荒野に追いやった」と言っているのに。

その先も、福音書はどこまでも矛盾だらけだ。

「聖書は信ずるに値するのか」、「キリスト教は信ずるに値するのか」、10代後半から20代初めの私は、ずっと考えていた。

小学校3年で聖書に出会って以来、夢中になって福音書を読み、10代半ばで新約聖書を全部読み、10代後半で旧約聖書も全部読み、毎日毎日聖書を読んでいた私が、信ずるに値するのかと思うようになっていた。

子どもの頃、まず思ったのは、聖書の記述と科学的な事実(と考えられていること)の食い違いだ(たとえば進化論など)。だがこれは、信仰と科学は初めから次元の違うものと考えることで、つまずきにはならなかった。私は小さい頃から、それぞれ次元の違う話だと思っていたから、進化論を疑ったことはない。

だが、

聖書の記述と歴史的な事実(と考えられていること)の食い違いをどう考えるのか(上に挙げたような話)、

聖書そのものに、箇所により出来事の食い違いがあるのをどう考えるのか(たくさんあるけれど、イエスが処刑されたのは過越しの食事の前か後かのように、どうがんばってもつじつま合わせのしようがない矛盾もある)、

出来事だけでなく、箇所により著者の考え方に食い違いがあるのをどう考えるのか(各福音書、パウロ書簡とヤコブの手紙など)、

といった点は、簡単に説明がつかなかった。

教会の牧師や信者に質問したりもしたが、誰からも納得のいく答えを得られなかった。
(原理主義者にそういった話をしたら急に火がついたように怒り出し、「聖書には一切食い違いなどありません!」と激しい剣幕で叱られた。彼らにそういう話はしないほうがいい。)


その頃読んだ本の一部だが、

遠藤周作『イエスの生涯』

同『キリストの誕生』

同『死海のほとり』

三浦綾子『道ありき』

同『塩狩峠』

山形孝夫『レバノンの白い山』

同『治癒神イエスの誕生』(のち『聖書の奇跡物語』と改題)

波多野精一『基督教の起源』

同『原始キリスト教』

赤岩栄『キリスト教脱出記』

荒井献『イエスとその時代』

八木誠一『イエス』

同『新約思想の成立』

田川建三『イエスという男』

同『マルコ福音書 上巻』

ブルトマン『イエス』

同「共観福音書の研究」(『聖書の伝承と様式』所収)

同『新約聖書と神話論』

ドレウス『キリスト神話』

幸徳秋水『基督抹殺論』

吉本隆明「マチウ書試論」(『藝術的抵抗と挫折』所収)

等々だった。
(もっといろいろ読んだけれど、特に印象が強かった本を思いつくまま挙げてみた。人に勧めるような本ではないけれど。特に、八木誠一『イエス』は大変参考になったし、田川建三『イエスという男』は痛快だった。)

読書と、思索と、対話と、労働と、沈黙の時を繰り返しながら、結局、「キリスト教を否定することはできない」と思った。

私たちはもう、イエスはどんな人で、何を語り何をしたのか、はっきりとはわからない。
だが、私たちは聖書から、イエスが人々に伝えようとしたメッセージの反映を感じることはできる。イエスの言葉は伝承され編集されているから、私たちが聖書から知ることができるのは、イエスのメッセージの「反映」だけだ。それこそ、ぼんやりと鏡に映った姿を見るように。

遠くて近い神は、近くて遠い神なのかもしれない。
神は遠いと考えれば遠く、近いと考えれば近いのではないか。
罪の赦しを、イエスに求めるのかどうか。イエスの言葉を信じるのかどうか。
イエスの言葉と言っても、我々はイエスのメッセージの「反映」を感じるくらいしかできないのだが、人としてこの地上を生きたイエスが伝えようとした言葉は、本当に真理なのか。神は本当に存在するのか。イエスは本当に神から遣わされた神の子であり、子なる神そのものなのか。

これはもう、賭けだ。
科学的に証明することなどできないのだから、信じるか信じないか、それはもう、賭けによる決断しかない。

そして、それでよいのではないかと思った。
聖書が史実に反していても、矛盾だらけでもかまわない。それは古代人の証言なのだから。
私は、ぼんやりと鏡に映った姿のようなイエスについて行こうと思った。

(伊藤一滴)

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