カトリック教会の皆様へ
教皇フランシスコ様のご逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。
皆様方のご心痛を拝察いたします。
皆様の上に慰めと平安がありますようお祈り申し上げます。
伊藤一滴
教皇フランシスコ様のご逝去を悼み、心よりお悔やみ申し上げます。
皆様方のご心痛を拝察いたします。
皆様の上に慰めと平安がありますようお祈り申し上げます。
伊藤一滴
(2019-12-06 初出)
福音派・聖霊派を自称する原理主義者やカルト(「教派ではない」と自称する人たちも含めて)に感じるのは、自己保身的な「信仰」です。
地獄に行きたくないから、だからイエス様を信じます、みたいな。
地獄の不安を解消する手段に、イエス・キリストの十字架を使っているのです。
どこまでも自分が中心であって、イエス・キリストは自分が地獄を免れるのに利用する手段です。
それってエゴイズムの一種ですよ。
えっ、違う?
違いません。
福音書に記されたイエスのメッセージに従うなら、今、この状況で、こうすべきだというときに、するりと逃げる。巧みです。
「聖書に書いてあることを文字通りに信じています」なんて言いながら、イエスが命じることを実行しない。なぜ実行しないのか問うと、「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」って。
冗談じゃありません。イエスが命じていることからするりと逃げて実行しない信仰って何ですか。
信仰義認での、人を義としない「行ない」というのは、聖書を文字通り受け取ろうとしてどこまでも文字にとらわれ、そうやって、心がないがしろにされてゆくような行為ではないのですか。たとえば躍起になって進化論を否定するような、そういう行為。自分たちなりの「聖書の真理」で人を断罪して責めまくるような行為。そのような行為で人が救われるのではないと私は受け取りましたけど。
目を覚ましてほしいと思います。
早く目を覚ませば、それだけ残りの人生を有意義に使えるのに・・・・。もったいない。
ボランティアの学生さんたちが可愛らしい手作り品を作っていました。売上金をペシャワール会に寄付すると聞いて、私も買いました。
学生さんたちは実行していました。
神様のみこころにかなうであろうことを実行していました。
キリスト教の信仰を持つ、持たないにかかわらず。
中村哲先生は、「神は共におられる」と信じ、徹底した実行者になりました。
そして、召されていきました。
さまざまな人が住むこの世界が、少しずつでも、平和に向かっていってほしい。庶民の暮らしが、少しずつでも、よくなっていってほしい。そういう願いが、一瞬の暴力で踏みにじられたのがくやしくて、やるせない思いです。
中村先生と同乗者らは、なぜ銃撃されて、殺されてしまったのでしょう。
なぜ全能の神がそんなことをお許しになるのでしょうか。
全能の神の全能とは、政治的、軍事的、あるいは超自然的な全能ではないのでしょう。神は、政治、軍事、病気や事故や自然災害その他ひとつひとつ全部に直接介入したりなさらない。だから、現世の御利益を求めても、御利益はありません。神は、そのいつくしみにおいて全能であり、完全ないつくしみで人に関わり、人の心に働きかけ、人を動かしてくださる、そういう意味で全能なのでしょう。
私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならば、どのように応えるのか、それが問われているのだと思います。
神に栄光が、地に平和がありますように。
(伊藤一滴)
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(2019-12-04 初出)
昨日(2019.12.4)の午後6時、運転中の私は、カーラジオのニュースで中村哲氏が襲撃されて死亡したと知りました。
井戸を掘る医者として知られた中村哲氏のアフガニスタンでの活動も、ペシャワール会のことも、ネットで検索すればたくさん出てきますので、ここには繰り返しません。
お会いしたことはありませんが、氏のお人柄はよく耳にしていました。誠実なクリスチャンだと聞いていました。
私がたまに寄るある団体の方々が、ささやかな手作りの品を作り、その売上金をペシャワール会に寄付していました。私はそこに寄るたびに手作り品を購入していました。わずかでもペシャワール会の資金になってくれたらいいと思いながら。ほんの少しでも、協力したかったのです。
それが・・・・。
あの中村先生が、銃撃されて殺されるなんて・・・・。
くやしくて、くやしくて、なりません。
犯人が憎いというのではありません。
私は、誰も憎みたくありません。
憎しみから良いものは生じませんから。
憎いのではなく、くやしいのです。
築き上げてゆくのは大変なのに、破壊するのは一瞬です。
くやしくて、くやしくて、なりません。
(伊藤一滴)
追記 2027.4.2(4月になりましたが、昨日も今日も山里は雪です。)
ドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす~医師・中村哲 現地活動35年の軌跡~』を見ました(アマゾンなどで買えます)。何度も見ましたが、何度見ても素晴らしい映画です。
中村先生はあまりにも不公平な世の中に丸腰で向かって行きました。大国の経済力や軍事力を利用するのではなく、一民間人として、どこまでも非武装・非暴力で庶民と共に歩む道を選びました。そういう人が暴力的に殺されるなんて・・・。
映画は中村先生がクリスチャンであることにまったく触れていません。それよりも、もっと大事なことを伝えたいのでしょう。
中村先生は西南学院中学3年のときにバプテスト教会でバプテスマ(浸礼)を受けています。(バプテスマは一般に洗礼と呼ばれますが、バプテスト派では浸礼という訳語が使われています。)
「(中村さんは)内村鑑三『後世への最大遺物』を読んで、「自分の将来を日本のために捧げる」という使命感を持ち、また「山上の垂訓」(マタイ5~7章)は暗記するほど読んだという。」(クリスチャンプレス 2019.12.04)
アーサー・ホーランド牧師の見解も載せておきます。
「クリスチャンであると報道されている中村さんの宗教の垣根を超えた活動に、アーサー・ホーランド牧師は「こういう素晴らしい人がこういう形でこの世を去っていくというのはなんでだろう、こういう人こそ長生きして活動を続けていってほしかったと思う。彼の働きを見て思い出したのが“敬天愛人”という言葉で、信仰的なバックグラウンドに凝り固まらず、本質的な部分で宗教の壁を超えて世のためになる働きをしていく。宗教によって戦争が起こっている中で、その教えが世界共通だということを身をもって表した。今教育が話題になっているが、彼のように自分が生きて体験したことを見せてくれる教育こそ世の中に必要で、僕も爪の垢を煎じて飲みたいぐらい」と讃える。」
出典:https://ameblo.jp/daikouchou/entry-12553660661.html
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(2019-12-04 初出)
前にも書きましたが、私が学生の頃、「福音派」とか「正統プロテスタント」とか「教派ではありません」とか自称するキリスト教原理主義者や聖書カルトたちが学内にいて、さかんに「伝道」していました。「何々派と言うのは分派した団体であって、私たちは派ではありません。聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じていますから、教派ではなく純粋なキリスト教です」などと称するグループまでいて、特にこの「教派ではなく純粋なキリスト教」派が強力でした。
それは、地獄の恐ろしさをことさら強調し、信じなければ永遠の地獄の火で永遠に焼かれるのだと恐怖心を煽って人を引っ張り込むような、恫喝的な「伝道」をする人たちでした。イエスの教えよりも神の愛よりも、地獄の恐怖で頭が一杯なようでした。
真面目な学生が何らかのきっかけでマインドコントロールされてしまったのかもしれません。
たとえて言うなら吸血鬼にやられた人が自分も吸血鬼になって吸血鬼を増やしてゆくように、カルト教会の被害者がカルト信者になって被害者を増やしているように見えました。説得を試みたのですが「あなたはキリスト教というものがまるで分かっていませんね」とか、「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」とか、「あなたは救いの中にいないようです」とか言われて叱られただけでした。どうも、専門的なノウハウを持つ人でないと説得は難しいようです。1980年代の半ば、私は二十歳の学生でした。当時は今のような大学のカルト対策や相談窓口もなく、どうすることもできませんでした。
ちゃんとした教会の牧師さんに相談したこともありますが、こんなふうに言われました。
「たしかに、福音派の中にはかなり極端なことを言う人もいますね。地球が出来たのは紀元前4004年でそれ以前の歴史はないとか、天地創造の事実をごまかすためにサタンが化石を造ったのかもしれないとか。そういうことを本気で言っている人たちと正面から議論しても仕方がないんです。私は、『ああ、そうですか』とかわして、本気で議論しないことにしています。労力の無駄ですし、他教派の悪口を言っているなんて言われたくないですしね」
そう言われても、特に「教派ではなく純粋なキリスト教」派がやたら議論を吹っかけてくるんで、私は受けて立ちました。
でも、フェアじゃないですね。あっちは何人もで私を囲んで、自分たちの主張をまくしたてるんですから。
彼ら:あなたは誤解しているようですが、救われるのは正しい聖書信仰に立つ本当のクリスチャンだけです。
カトリック教会は聖書にないことを教えているので正しいキリスト教ではありません。日本基督教団などのリベラルな教派も、聖書を文字通り信じていないので、正しいキリスト教ではありません。
救いの中にあると言えるのは聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じる本当のクリスチャンだけです。
私:あなた方のような特に保守的なキリスト教はごく少数です。世界的にはカトリックが多いし、現代のプロテスタントも主流派はリベラルです。
彼ら:正しさは数の問題ではありません。数が多くとも、間違った聖書理解では救われません。
サタンは巧妙に人を惑わします。キリスト教会やキリスト教の団体、キリスト教系の学校にまでサタンのパン種が入り込んでいます。サタンの影響下にある間違った聖書理解に惑わされてはいけません。
聖書をすべて文字どおりに信じ、正しい聖書信仰に立つべきです。
私:文字通りに信じると言うなら、あなた方は聖書のこの箇所をどう読むのですか。(鞄から「口語訳聖書」を取り出して)
「 3:19こうして、彼(キリスト)は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。 」(ペテロの第一の手紙 口語訳)
死後に捕われている霊にさえ福音が宣べ伝えられるのに、まじめに生きた異教徒には救いのチャンスがないと言うのですか。
彼ら:それは万人救済論を主張する間違った信仰の人たちがよく引用する箇所ですね。浅い聖書の読み方で誤って解釈される代表のような箇所です。
よく読んでください。「捕われている霊たち」とありますが、どこにも黄泉(ハデス)とは書かれていません。そこは黄泉ではなく、地獄に送られる霊たちが捕われている獄と考えられます。19節に「宣べ伝えた」とか「福音を伝えた」とか意訳される語が出てきますが、原文に福音伝道という意味はなく、単に「宣言した」という意味の言葉が使われています。イエス様は地獄に送られる霊たちに向かってご自分の勝利を宣言されたと読むのが正しい聖書信仰です。異教徒や未信者には、一切救いはありません。生きているときにクリスチャンにならなかった人でも死後に救われるチャンスがあると考えるのは間違った聖書解釈です。もし死後に悔い改めができるなら、この世で信仰する意味がなくなります。
しかもこの箇所はノアの方舟の時代に従わなかった霊たちのことであり、その後の死者の霊のことにはまったく触れていません。
私:納得できません。地獄に行く霊とはどこにも書かれていないじゃないですか。ノアの方舟のときに従わなかった霊たちを代表に挙げ、神に従わなかった霊たちでさえ死後に福音を聞くことができる、と言っているのではないのですか。
それに、3章19節に福音という言葉が出てこないにしても、4章6節にはこうも書いてあります、「4:6死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。」(ペテロの第一の手紙 口語訳)
こっちには福音という言葉が出てきます。
彼ら:あなたはずいぶん聖書を読んでいるようですが、キリスト教の初歩的なことも分かっていないようですね。あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです。正しい信仰に照らして読むなら、死後の悔い改めという発想は出てきません。
その箇所でいう「死人」というのは、生きているうちに福音を聞いて信じ、今はもう死んでいる人という意味です。生きているうちに福音を信じなかった人に死後に福音が宣べ伝えられることなど、ありえません。
このあたりまでは、一応、議論でしたが、そのあと彼らの一方的な話を延々と聞かされました。
それで感じたのは、彼らが地獄をとてもとても恐れていることでした。
延々と持論を聞かされたあとで、私も反撃に出ました。
私:あなた方の話は、とても極端な、超保守派の聖書理解で、そのような考えの教派は少数だと思います。
彼ら:何度言ったらわかるのですか、私たちは教派ではありません。聖書を文字通り信じる正しいキリスト教です。
私:いえ、教派ではないと主張する教派です。あなた方は、聖書を信じていると言いながら、人間が作り出したイデオロギーを信じているようです。あなた方に救いの実感がありますか。イエス・キリストによって救われているという喜びがありますか。自分の救いの確信がありますか。
私に延々と「説教」していた人の顔が青ざめ、震えているのがわかりました。
彼らの中心人物が、震えながら、怖い顔で言いました。
「私は、本当に自分は救いの中にいるのだろうかと思うときがあります」
本音だったのでしょう。青ざめた顔でさらに言いました。
「でも、もし私が救いの中にいないなら、あなたは私以上に救いの中にいません!」
彼らは、自信たっぷりに語るのに、自分は本当に救われているのだろうかとおびえながら「信仰」していたのです。もし救われていなければ、永遠の地獄で永遠に焼かれてしまうという恐怖におびえていたのです。
私はさらに説得を試みたのですが、彼らはまったく聞く耳を持ちませんでした。
彼らには、先に答えがあるのです。聖書にどう書いてあっても、自分たちの答えに合致するように解釈してゆくのです。
当時の私は彼らを思いやる余裕もなく、とり囲まれてとっちめられて、しまいに頭に来て言いました。
私:あなた方は神は唯一だと信じているのでしょうが、そんなことは悪霊たちだって知っています。イエス様は聖なるお方だと思っているのでしょうが、悪霊たちもそれを知っておののいています。はっきり言います。あなた方の信仰は悪霊のレベルです。終わりの日にイエス様はあなた方に『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』とおっしゃることでしょう。
彼ら:今の言葉ではっきりしました。あなたは正しい聖書信仰を侮辱し、聖霊を冒とくしています。聖霊を冒とくする者は決して許されることがありません。あなたは決して救われることがなく、永遠の地獄で永遠に苦しむことでしょう。
私:その言葉は、そっくりそのままあなた方にお返しします。あなた方の信仰は悪霊のレベルですから。終わりの日に、仏教徒もイスラム教徒も無神論者もアブラハムの食卓につくときに、あなた方は炎の中で泣いて歯ぎしりすることでしょう。
当時の私は、彼らが原理主義者・聖書カルトだという認識もありませんでした。福音派の中の特に保守的な人たちくらいに思っていました。それに、彼らの思考もよくわかっていませんでした。
その思考パターンが見えてきたのは90年代にジェームズ・バー著『ファンダメンタリズム』を読んでからです。また、福音派と原理主義との見分けは、やがてなんとなく感じるようになりましたが、数年前に読んだマーク・R・アムスタッツ著『エヴァンジェリカルズ』ではっきり知りました。
東方教会の伝統的な考えの「キリストの地獄くだり」(黄泉くだり)も知りませんでした。
当時、ブルトマンの著作も読み始めていたのですが、聖書を書いた古代人の神話的な世界観、天界・地上・下界の三層からなる世界のイメージもよくわかっていませんでした。
また、その当時の私は、理屈のつけようで聖書の言葉を引用してまったく正反対の主張もできるということがよくわかっておらず、聖書の御言葉を慎重に検討すれば正しい理解に行きつくような、そんな思いがありました。
今なら言えます。
彼らが言う「神様」はいません。
神様はいないと言うのではありません。
原理主義者やカルトが言う意味での「神様」はいないのです。
そのような「神様」はいないのだから、おびえることはありません。いない者が、人を審いたり、地獄に突き落としたり、地獄の火で永遠に焼いたりすることはありません。いないのですから。
一部の人間が、聖書をこねくり回して、屁理屈で作り出した「神様」を恐れることはありません。そんなものは人間が頭の中で作り出した偶像ですから。
なぜいないと断言できるのか。それは、福音書から察せられるイエスのメッセージと明らかに食い違うからです。
イエス・キリストは、地獄に送られる霊たちが捕われている獄に行って自分の勝利を宣言したりするのでしょうか。何の救いも希望もなく、今から悔い改めるチャンスもなく、あとはただ地獄に送られて永遠に焼かれる哀れな霊たちの所にわざわざ行って、勝ち誇るのでしょうか。
原理主義者やカルトは、自分たちがそういう価値観だから、自分たちの価値観をイエスに当てはめているのではありませんか。
原理主義者やカルトの見解には非難すべき点が多数ありますが、この一点だけ見ても、彼らが言う意味での「神様」はいないと断言できます。
(伊藤一滴)
ちょっと補足します。
上記の、「教派ではなく純粋なキリスト教」派に反論した私は、二十歳の私です。
今なら、「神話的な世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて、人は死んだらこうなりますなんて言ってもしょうがないですね。人が死んだらどうなるかなんて、誰も断言できないのですから。でも、キリスト教には希望があります」とでも答えるでしょう。まあ、包括主義か、多元論か、あるいは別な何かがあるのか。
私は万人救済論者ではありませんよ。万人ではありません。神のみこころにかなう人たちに救いがあるのです。その人がクリスチャンであろうが、なかろうが。
「イエス・キリストは、地獄に送られる霊たちが捕われている獄に行って自分の勝利を宣言した」なんて言っている人たちに、はたして、本当の救いがあるのでしょうか。
なお、死者が行くとされる「よみ」は、黄泉と書いたり陰府と書いたりしますが、意味は同じです。パソコンで変換したら黄泉と出たのでそう書いただけで、何か意味があって黄泉と表記したわけではありません。戦前の文語訳聖書以来ずっと陰府と書かれることが多いので、もし戸惑われた方がおられたらすみません。新約ギリシア語のハデスのことです。英語のHades(ヘイディーズ)です。
それと、ノアの方舟は最近は箱舟と書くことが多いようですが、方舟も箱舟も同じものです。
(2019-12-04 掲載分をそのまま再掲)
追記 2027.3.27
ジャン・カルヴァンの主張の中に「多数意見だから正しいとは限らない」という意味のことが書いてあり、私が学生時代にキリスト教原理主義者(あるいは聖書カルト)たちから「正しさは数の問題ではありません」と言われたのを思い出しました。
もちろん、多数意見が必ずしも正しいとは限らないのは事実ですが、「多数意見だから間違っている」とは言えません。
実際は多数意見の方が大筋で正しい場合が多いのです。
聖書には、「正しさは数の問題ではない」とか、「多数意見だから正しいとは限らない」とか、はっきり書いてある箇所はありません。
ただし、次のような箇所はあります。
「多数に従って悪に加わってはならない。」(出エジプト記 23:2 新共同訳)
「人の目にはまっすぐに見える道でも、それは死に至る道となることがある。」(箴言 14:12 新共同訳)
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々としており、そこから入る者が多い。しかし、命に至る門は狭く、その道も細い。それを見いだす者は少ない。」(マタイの福音書7:13~14 新改訳)
「わたしがあなたがたを世から選び出したのです。」(ヨハネの福音書15:19 新改訳)
「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ人への手紙12:2 新改訳)
どうも、原理主義者・カルトは自分たちの正しさを確信し、「多数派は間違っている」「世は間違っている」と信じ込んでいるようです。自分たちは少数派で世とは違う特別な存在である、世の人々がわかっていない真理を我々は信じている、だから正しい、ということのようです。
現代のキリスト教の多数派であるエキュメニズム派(カトリックや主流派のプロテスタント)は間違ったキリスト教で、真理の側である少数派の自分たちこそ正しい、となるようです。
彼らは「真理だから少数派」なのではなく、「イエスのメッセージとは異なる特異な主張を掲げているから少数派」なのに。
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私が育った家は反宗教の家で、私は小さいときから宗教批判を聞いて育った。
なんとなく無宗教みたいな人が日本には多いのかもしれないが、私の父母は単なる無宗教ではなく、断固とした反宗教だった。(つまり私は「反宗教2世」として育った。ただし、私自身は反宗教にはならなかった。)
今でこそ父母は年をとり、私の妻の対応もあって丸くなっているけれど、私が子どもの頃は宗教的なものを読んだり見たりしているとひどく叱られた。何度も言うが、子どもだった私は隠れて聖書を読んだ。
私が覚えている父母の宗教批判を書き残しておく。
母の宗教批判
昔はみんな貧しく、生活が大変だった。食料の確保が大変だったし、煮炊きも冬の暖房も大変だった。機械化される前の労働はきつく、危険も多かった。怪我をしたり病気になったりしても、今のような医療も福祉もなかった。庶民の生活は不安定で、不安な中で生きていた。昔は科学的なこともよくわかっていなかったから、庶民は理屈で因果関係を考えるのではなくて、本当は結び付かないことを結び付けて考えたりしていた。そうした中で、人は何かにすがろうとして、存在しない神や仏を作り出し、すがり、崇め、受け継いだ。安心を得るためだった。つまり宗教は、もともとは、人々の不安定な生活や不安な心が生み出した幻想なのだ。人々の不安定な生活や不安な心は続いたし、教えに反することをすれば悪いことが起きるのではないか、死んでから苦しい目にあうのではないかといった思いもあって、宗教はずっと続いてきた。また、今は苦しくてもあの世で幸せになれると、この世の苦しみを誤魔化すのにも使われてきた。だが現代は、庶民の生活が向上し、生活水準が高くなり、宗教信仰は薄くなっている。今後さらに科学が進んで人々の暮らしがよくなれば、やがて宗教は消滅するだろう。今はその過渡期なのだ。衰退してゆく宗教は必死になって人をつなぎとめようとするだろう。そうした宗教にだまされてはいけない。神様も、仏様も、霊も、死後の世界も、みな架空のものであり、実際は何もない。ないものを信じたり、ないものにすがったりしてはいけない。架空の宗教ではなく、この世界で、現実に、みんなの幸せを求めていくべきだ。
父の宗教批判
すべての宗教は、金儲けや支配のために人間が作りだした架空の教えに過ぎない。宗教は人をおかしくする。実際、宗教を強く信じている人にはおかしな人が多い。宗教は、信じる人の心を支配し、正常な判断力を奪い、ひたすらぼったくる。特に、障害者や病人、またその家族や、困難な状況にある人たちが狙われる。宗教は人の弱味、苦しみに付け込んでくる。程度の差こそあれ、すべての宗教に悪しき面がある。それは宗教の根本が人間が作った架空の教えで、解釈次第でどうにでもなるからだ。たとえその宗教の内部に良い人がいたとしても、神や仏が架空で、その教えが架空なのだから、ヌエのようにどうにでもなり、人や社会を悪い方に導くことにも使われてしまう。宗教の良い部分と悪い部分を比べたら、悪い部分の方がずっと大きい。
宗教に関わってはいけない。宗教系の学校に進んではいけない。宗教にだまされてはいけない。
私は戦争中に子ども時代を過ごした。日本は神国であって必ず戦争に勝つ、神風が吹くと教えられた。みな嘘だった。当時の日本は神がかりの宗教国家になっていた。神道は間違いだがキリスト教は正しいということでもない。キリスト教国のアメリカは日本の街を焼き払い原爆まで落として多数の非戦闘員を殺し、その後も朝鮮やベトナムで殺戮を繰り返している。アメリカもヨーロッパも、イスラム教の諸国も、みなおかしい。自分たちの正しさを主張し、戦争・紛争を繰り返してばかりいる。宗教が正しいのなら、その教えを信じる人はみんな幸せになるはずなのに、現実はそうなっていない。宗教という人間が作りだした架空の教えが人を支配し、国を支配し、争いの原因を作っている。平和な世界を目ざすなら、まず宗教を否定すべきだ。宗教的な考えから世界を見ることを否定し、科学的な見方からこの世界の現実を見て、人類の平和と幸福を考えてゆくべきだ。
参照
信仰継承? 信仰強要?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/08/post-bf35.html
反宗教の両親の変化
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/10/post-3752.html
(伊藤一滴)
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3月になって山里もやっと春めいてきました。2月はずいぶん雪が降り低温が続きました。日々の除雪でちょっと疲れました。まあ、作業だと思わないで冬の体力づくりだと思えばいいんでしょうけど。
また、味噌を仕込みました。
作り方は、去年書いた通りです。(半量ずつ2回作りました。)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/01/post-697c.html
大豆は自家栽培のものを使いました。
一昼夜水に浸して十分に吸水させた大豆を、親指と小指に挟んでつぶせるようになるまで柔らかく煮ます。ぱかっと2つに割れたらまだ固いです。ぐちょっとなるまで煮ます。
鋳鉄製の大なべを使い、沸騰するまではガスコンロで、あとは薪ストーブにかけて煮ました。特に煮初めにクリーム状のアクが浮いてくるんで、これを取り除き、ときどき水を足しながら5~6時間煮ました。
柔らかく煮えた大豆をザルに移して水を切り、冷ましておきます。
煮汁なんですが、味見すると、うまみと少しえぐい味があり、とろみもあります。うまみもあるんで、なんか、捨てるのがもったいなくて、カレーに少し入れ、シチューに少し入れ、クラムチャウダーにも少し入れ、残りは米ぬかと混ぜてニワトリにやりました。煮たときのクリーム状のアクもエサに混ぜました。
人が食べないものも、ニワトリにやるか肥料にするかしてますから、「生ゴミ」というものがまったく発生しない暮らしです。ニワトリのフンも熟成させて肥料です。ニワトリは地べたで飼ってるんで、フンはほとんど臭いません。
今住んでいる古民家の前の住人が置いて行った底が抜けたホーローの浴槽があったんで、これにふたを作り、畑の隅においてコンポスト容器に使っています。大きくてたくさん入るし、プラスチックのと違って大雪でも潰れないし、重宝してます。
麹は麹屋さんから買いました。妻と息子に手伝ってもらい、たらいでほぐしました。本当は木のたらいを使いたいのですが適当なのがなくて、プラスチック製です。以前骨董市で買った木のたらいがあるんですが、たぶん、前の持ち主が洗濯などに使ったろうし、食品に使うのがためらわれ、新品のプラスチック製を使っています。
山形市内の中古屋で買った味噌切り器を使ってます。ハンドルを回す手動式のものです。2千円だったか、3千円だったか、それほど高くない値段でした。これで、ひき肉を作るみたいにして煮た豆を潰します。
手が汚れたんで、この先の写真はないです。
潰した豆と、ほぐした麹と、塩(天日塩)をたらいで混ぜて、おにぎりくらいの球を作ります。熱湯で消毒した味噌おけを用意し、味噌球をおけに叩きつけるようにして入れていきます。空気を抜くためです。
最後に表面をならし、なるべくカビを少なくするため去年の味噌でふたをして、その上全体に塩をふっておきます。木のふたをし、完全に密閉はしません。
これで仕込み完了です。
暑い季節になったらよく混ぜておきます。稲刈りの頃には食べられます。
原料は、自家製大豆、地元の伝統的な麹(山形県産米)、天日塩、これだけです。防腐剤も味の素も何も入ってません。
鉄のなべで豆を煮たんで、鉄分はあるでしょう。
銅は抗菌効果があるんで、味噌作りには使っていません。
できれば麹も作りたいんですが、まだハードルが高くて、今後の課題です。
天然麹菌を採取して培養する方法が書いてある雑誌やネットの記事もありますが、天然麹菌の採取は危険だと詳しい人から聞きました。天然酵母でパンを作るのとは違います。麹菌の仲間には毒性があるものもあって、素人には見分けがつかず、プロだって簡単には見分けられないとのことです。
市販の麹菌は長い歴史の中で安全性が確認されたものです。これが種麹として販売されています。
(伊藤一滴)
私(一滴)の勝手な妄想です。ネタバレあります。
第1話
「君は誰なんだ? 大切な人なのに、忘れたくない人なのに、忘れちゃいけない人なのに、名前を思い出せない。あいつの名前は? そうだ、あの子、俺の手のひらに細マジックで名前を書いてくれたはず。これを見れば・・・。これは、『一』か。はじめさんていう名前か。なんか男みたいな名前だな。かっこいいな。お~い、はじめ~! おまえが世界のどこにいたって必ず探す。ストーカーじゃないよ。おまえのことが大好きだ!」
「君は誰なの? 大切な人なのに、忘れたくない人なのに、忘れちゃいけない人なのに、名前を思い出せない。そうだ、あの人、私の手のひらに名前を書いてくれたんだ。えっ、『すきだ』って。そうか、あの人すきだ君っていうんだ。すきだ君てどういう字を書くんだろう。数寄田かな、鋤田、須喜多、それとも・・・。今度会ったら漢字を聞いておこう。すきだく~ん。私、あなたが世界のどこにいたって必ず探す。ストーカーじゃないよ。あなたのこと大好きだからね!」
「はじめ~!」
「すきだく~ん!」
第2話
「やっと会えたね。さっき新宿駅からここまで来る途中、もしかしたらと思って新宿御苑に寄って探したんだ。入場料、けっこうするね。君を探せなかったけど、あずまやのところで君よりちょっと上くらいの女の人が板チョコ食べながら缶ビール飲んでて、そばで高校生くらいの男の子が靴や足の絵を描いてたんだ」
「それ、別の話じゃないの。それに、今日、晴れてるよ」
(注:新宿御苑内は飲酒禁止です。)
第3話
「みつは、さん、俺より幾つか年上なんですよね。俺、てっきり同級生だと思ってたから、生意気な口きいてすみませんでした」
「いいのよ。『三葉!』って言ってくれないと、瀧くんらしくないよ」
「そう、かな?」
「そうよ」
「で、幾つ年上?」
「三つかな」
「(じゃあ奥寺先輩と同じ年なんだ。ガーン。)三葉さん、あなたは・・・」
「ちょっとー、瀧くん。私のことは三葉って呼んで。それと、敬語は禁止」
「だって、年上の人に、言いにくいなあ。あのー、君は、彗星災害の糸守町の出身だよね」
「そうよ。瀧くん、行ったことあるの?」
「高二のときに。友だちと先輩と三人で」
「そうなの。君が高二のときだと、被災から三年目よね。被災前の糸守町は見たことがないんだね」
「それが、なんか俺、行ったことがあるような気がするんだ」
「不思議ね。私も高二のときに君に会ったような気がするんだぁ。それだと年が合わないのに。ねえ、瀧くん。カラオケ行こうか。歌ってると何か思い出すかも」
「いいね。何歌おう?」
「瀧くんは何がいい?」
「『前前前世』かな」
「じゃあ私、『なんでもないや』にしよう。上白石萌音ちゃんみたいに歌うよ」
第4話
「はじめまして。立花瀧です」
「宮水俊樹です。あなたのことは三葉から聞いています。どうぞ、楽にして」
「あの~、たしか、お父さんも神主の資格をお持ちですよね」
「ええ」
「ではご自分で口噛み酒もお作りになるんでしょうか?」
「いや、あれは代々若い女性が作るんです。私はやりません。以前は妻の二葉も作ってました。今は三葉と四葉が担当です」
「それを伺って安心しました。『これは私が作った口噛み酒だから飲みなさい』なんて言われたらどうしようかと思ってたんです」
第5話
「ちょっと瀧くん。あなたと私、また入れ替わってるよ」
「え~っ、結婚した初日からこれかよ~」
「あのね、さっき結婚式で飲んだお酒、あれ、私の口噛み酒だったかも」
第5話 その2
「瀧くん、あなた、私と入れ替わってるとき、胸触ったでしょ」
「三葉、おまえだって俺のチンチン触ったり見たりしたろう」
「触りも見もしないでどうやってオシッコすんのよ。不慣れで大変だったんだから」
「こっちだって、生理になって戸惑ったよ」
「女性の大変さがわかったでしょ」
「うん。ごめん。これからは許可なく胸を触ったりしない」
「許可するわよ。瀧くん、あなたは大好きな夫だもん♡ 大切な夫だもん♡♡」
第5話 その3
「ねぇ、瀧くん。私のどこが好き?」
「胸、かな」
「え~っ」
「嘘、嘘だよ。冗談。俺、三葉の全部が好きだ。君は俺の人生最大の宝だ。全全全部好きだ」
第6話
「三葉、もうすぐ出産だね」
「うん、女の子だったら名前は五葉にするからね」
「もし、下に妹が生まれたら?」
「名前は六葉」
「その下にも生まれたら?」
「七葉」
「その下は?」
「八葉」
「こういう名前、どこまで続くんだ!」
第7話
「いつはぁ~、起きて~、朝ごはんよ。あれ、五葉、夢見てる? ん? あなた五葉じゃないわね」
「えっ、どうしてわかる?」
「そりゃあ、私、五葉の母親だもん。私もね、今の五葉と同じ十七歳のときに、男の子と入れ替わったことがあるんだぁ。それが今の夫なの。で、中身のあなた、男の子なの?」
「は、はい」
「高校生?」
「はい」
「もしかしてあなた、五葉のこと、好き?」
「えっ、あ~、その~、そうかも」
「だったら五葉を大切にしてあげてね。胸を触ったりしちゃ駄目だからね。そんなことしたら、変態!って言われるからね」
第8話
「ねえママ、五葉お姉ちゃんが男の子と入れ替わってるみたいだけど、大丈夫かな」
「六葉、それは心配ないと思うよ。私とパパだって高校生のとき入れ替わったけど、何とかやったんだし」
「でも、入れ替わりが起きてるってことは、何か災害が起きる前かもしれないよ」
「それは違うと思う。五葉ったら『口噛み酒ってどんな味がするの?』ってずいぶん気にしてたのよ。隠れてこっそり味見したみたいよ」
第9話
「六葉、あなたも最近入れ替わりが起きてんじゃないの?」
「ごめんなさい。一回だけだよ。一回だけ。口噛み酒の味が気になって、指につけてちょっとだけなめちゃったの」
「あなたまだ小学生なんだから、お酒は駄目よ」
「ごめんなさい。もうしません」
「それで、男の子と入れ替わったの?」
「ううん、女の人だった。うちのお姉ちゃんくらいの女の人。けっこう胸が大きかったから、こうやって両手で揉んでみたの」
「もう! そんなことするの、誰の血統よ!」
「ごめん、俺の血筋だと思う」
「あれ、パパ、聞いてたの?」
(新海誠監督『君の名は。』をご覧になっていない方には意味不明の話ですみません。全部ギャグです。)
コミックス・ウェーブ・フィルム(CWF)の「二次創作に関するガイドライン」はこちら
https://www.cwfilms.jp/about/guideline.html
このガイドラインに反しない範囲で書いたつもりですけど・・・
(伊藤一滴)
昨年末にタブレット端末を買い替えた。ドコモショップで値段を聞いたら、アマゾンプライムに入ることで割安になるという。その割引額はアマプラの年会費よりずっと大きい。天下のドコモがこういう抱き合わせのような販売をするのか。しかも他社と。
仕方ない。アマプラに入った。無料期間内に使って、あとはやめてやろう。
せっかく入ったんだから、正月に新海誠氏のアニメ映画作品を見た。
『君の名は。』以降と、それより前とで、作風がやや違う。
初期の作品はかなりシリアスだし、見終えたあとに煮え切らないモヤモヤ感が強く残る。
『君の名は。』以降は大衆路線になったのか、深刻な問題提起もあるが笑える場面も多い。特に『すずめの戸締り』は、おもしろくてかなり笑った。もちろん、これも巨大地震が突然来るかもしれない日本への警告作品と見ることもできるのだが。
新海誠作品には、次のような共通点を感じた。
絵が美しい。背景など、実に見事だ。空とか、雨とか、風景とか、実写かと思える場面も多い。カメラアングルというか、角度の決め方も見事だ。そしてストーリーの展開も動きも見事。見ていて引き込まれてゆく。これは、高く評価されるわけだ。
必ず高校生(およびその前後の若い人)が出てきて、登場人物の独白と言うか、独り言のようにしゃべり続ける場面がけっこう出てくる。この点は評価が分かれるかもしれない。なんか、文学作品の朗読を聞いているような感じになる。『言の葉の庭』が特にそうだった。
そして、結末はどうなったのかはっきりしなくて、いつも作品鑑賞者の側の想像に委ねられる。『君の名は。』よりも前の作品は、特に、見終えたあとすっきりしない。そんな終わり方って、あり? 『秒速5センチメートル』の場合、悪い人が出てくるわけでもなく、登場人物はみな善良なのに、なんで? 見終えたあと、私はしばらくモヤモヤしていた。これは独白場面の多さ以上に評価が分かれるだろう。
「主人公もまわりの人たちも、いろいろあっても基本はいい人たちなんだから、幸せになってほしいと思う」って言ったら、
「そんな、水戸黄門じゃあるまいし」
って、妻は言う。
高校生の娘からは、
「好きな人と結ばれたらそれでずーと幸せって言える?」
と言われてしまった。
(伊藤一滴)
正月休みに、オリオン・クラウタウ著『隠された聖徳太子 近現代日本の偽史とオカルト文化』 (ちくま新書 2024)を読んだ。読みながら、いろいろ考えてしまった。
聖徳太子にまつわる話は、なかなかおもしろい。今日に至るまで、聖徳太子はさまざまな伝説・創作を交えて語られている。聖徳太子は架空の人物だという説まである。そうした点は、イエスに関する伝説、創作、架空説とも似ている。
著者は、異説をトンデモ論として切り捨てるのではなく、その裏面に秘められる意図を考慮すべきだと言う。そうだと思う。「トンデモ論だ、論じるに値しない」と無視するのではなくて、なぜトンデモ論が主張され、トンデモ論の本が売れ、どう考えても成り立たないような「論」を一定数の人が信じてしまうのか。文化的、社会的に考えるべきだと思う。
聖徳太子はキリスト教と関係がある?、古代日本はキリスト教の影響を受けていた?、日本人とユダヤ人は同祖である? そして、さまざまな「マイ聖徳太子」の出現などもある。そういった「論」や、それに対する反証が多角的に紹介される。
佐伯好郎、E.ゴルドン、中里介山、
内村鑑三、手島郁郎、
久保有政、イザヤ・ベンダサン、五島勉、
梅原猛、山岸凉子、井上章一、雑誌「ムー」、
他、いろいろ、
と、まあ、そっち方面の「論」者から、学術的な研究者、漫画家、オカルト雑誌まで、いろいろ出てきて興味が尽きない。
それにしても、なぜ、一定数の人が、どう考えても成り立たない「論」を信じ、反証されても、「論」のネタや嘘がばれてさえ、それでもなお信じ続けるのだろうか。これは、原理主義、カルト宗教、陰謀論、極右や極左の主張などを本気で信じる人が一定数いるのと似ているように思う。
(インターネットのおかげでフェイクも広まりやすくなったが、逆に、トンデモ論のネタや嘘を検索しやすくもなった。)
くだらない、馬鹿馬鹿しいとされ、まともに相手にされなかったトンデモ論やオカルトに、文化的、社会的に光を当てて学問的に論じたのが、このオリオン・クラウタウ氏なのだろう。外国人が日本の古典から雑誌「ムー」まで読みこなし、日本語で論ずる能力にも圧倒される。
この本の主要なテーマとはやや異なるのだが、偽書や偽史って、いったい何だろうかと考えていた。
偽書という言葉からまず思うのは、『シオン賢者の議定書』(=『シオンの議定書』)だ。「第一回シオニスト会議」でのユダヤ人の長老による決議文という形で書かれたこの偽書は、本当に決議された文書と見なされて各国語に訳され、反ユダヤ主義を煽り、ナチスによる大規模なユダヤ人迫害にもつながったという。
日本においては、『上記(うえつふみ)』『竹内文書(たけのうちもんじょ)』『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』といった書が、偽書とされ、知られている。
一般には、本物に見せかけた偽の文書を「偽書」と呼ぶようだ。そして、そこに記された嘘の歴史が「偽史」なのだろう。
だが、学問的に歴史を論じるのに使われる史料にだって、不正確な記述や誤った記述もある。ある立場から都合よく書かれたものもある。
いったいどこからが「偽書」「偽史」になるのだろう。
私の手元に「金田一京助」の名による辞書が何冊かある。実際は、金田一京助先生は辞書の編集など1冊もしていなくて、すべて名前を貸しただけだそうだ。ではこれらの辞書は偽書なのか。
私が学生のとき、ある授業の教科書が、A先生とB先生の共著となっていた。私はB先生の授業を受けたのだが、B先生は授業中に「この教科書は全部私が書きました。A先生は有名だからお名前を借りて共同執筆ということにしたんです」と言っていた。学者の世界ではよくあるらしい。これも、著者名に偽りがある偽書なのか。
さらに、聖書はどうなるのか、仏典はどうなるのか、と思った。
マルコ福音書、ルカ福音書の著者については議論の余地があるにしても(田川建三訳註参照)、マタイ福音書が使徒マタイの著書でないこと、ヨハネ福音書が使徒ヨハネの著書でないことは、今では明白だ。では、これらは偽書なのか。
パウロの書簡とされている書の中にはパウロの作でないものが含まれているし、ヤコブ、ペトロ前後書、ヨハネ3巻、ユダ、黙示録など、実在したヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダらとは何の関係もない。これらも偽書になるのか。
旧約聖書はもちろん、新約聖書に記された「歴史」も、史実とはだいぶ違うようだ。つまり、偽史なのか。
仏典にしても「仏説〇〇経」が多数あるが、実際の仏陀がそうおっしゃったというのではなくて、ほとんどが後に書かれたものだという。では、仏教のそうした経も偽書なのか。
うーむ。
モルモン経はどうなるのだろう。
「モルモン経なんて偽書で、内容は偽史だ」というのなら、聖書も仏典も偽書で、内容は偽史ということにならないか。
何をもって偽書、偽史と言うのか、難しくなる。
そんなことを考えていた。
(伊藤一滴)
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1.キリスト教の唯一の論拠は聖書?
キリスト教原理主義の人たち(原理主義に近い「福音派」を含む)は、「キリスト教の唯一の論拠は聖書です」と強調して言う。
だが、「唯一の論拠は聖書」と言いながら、「伝統的にこう信じられてきたのです」とか、「古代の教父の証言にこうあります」とか言いだす。さらに「〇〇教会会議(カトリックから見れば公会議)で〇〇信条が定められました。これを信じるのが正統で、この信条を認めないのは異端です」とまで言い出す。
そんなことをいろいろ言っていたら「唯一の論拠は聖書」じゃないじゃないか!
「唯一の論拠は聖書」なんて言いながら、実は、教会の伝統や、伝統的に受け継がれた解釈も論拠に使っている。
「教会の伝統や、伝統的に受け継がれた解釈」を信じてはいけないとは言わないが、その教派の独自の見解や、その教会の牧師の主観的な主張まで、ごちゃまぜにして使っている。
「唯一の論拠は聖書」と言ってはいるが、実は、彼らの主張は、数々の「人間の側の理解」から寄せ集めた切り貼りだ。
「キリスト教の唯一の論拠は聖書なら、聖書が成立する前の正しい信仰とは何だったのですか?」と聞くと、答えられなくなる。
何もないところに聖書が与えられ、それを読んだ人たちに信仰が生じたのではない。
信仰が先だ。
神を信じる信仰を持つ人たちによって聖書は執筆され、やがて正典として確立した。
信仰の成立より先に聖書があったのではない。
「文字としての聖書がなかった時代も神様の御心の中に聖書66巻はあったのです」といった主張があるが、聖書のどこにもそんなことは書かれていない。「聖書は66巻である」とも書かれていない。
「旧新約聖書66巻だけが正典であることは、カルヴァンの著書やウエストミンスター信仰告白にもあります」って? だから、それ、宗教改革時代に人間が書いた文書でしょ。それとも、そうした文書も聖書と並ぶ正典だって言いたいの?
2.聖書は誤りなき神の言葉?
「聖書は誤りなき神の御言葉です」。これも彼らがよく言うが、これもまた、聖書のどこにも「聖書は誤りなき神の言葉」とは書かれていない!
聖書のどこにも書かれていないことを言いながら「唯一の論拠は聖書」と言い張る。
パウロに帰せられる書簡の中に「聖書はすべて神の霊感によるもので~」とあるが(2テモテ3:16)、この著者にしても「聖書は誤りなき神の言葉」とまでは言っていない。また、聖書とは何か、どの文書を聖書と呼ぶのかについての言及もない。時代を考えれば、当然だが、著者が言う「聖書」に新約聖書は含まれない。新約聖書の確定は4世紀の末である。まだないものに言及できるはずがない。「パウロは霊感によってやがて新約聖書が世に与えられるとわかっていたのです」といった主張まであるが、むちゃくちゃな主張だ。仮にこの書の著者がパウロだとしても、当時まだなかったものをテモテに読むよう勧めるはずがない。
3.聖書は神の霊感を受けて書かれており、原典において何の誤りも含まない?
「聖書はすべて神の霊感によるもので~」とパウロを称する人物が書いているので、この主張の前半の「聖書は神の霊感を受けて書かれており」には「聖書的根拠」がある。ただし、先に書いたとおり、このパウロを称する人物の頭の中に新約聖書はない。つまり、霊感を受けたのは旧約聖書であり新約は含まれていない、となる。また、旧約聖書の範囲についても書かれていないので、続編部分の扱いもはっきりしない。著者の念頭にあったのが七十人訳ギリシャ語聖書なら、翻訳された旧約聖書も聖書であり、七十人訳に含まれる旧約続編(アポクリファ)も聖書である、ということになる。著者がシナゴーグで朗読される聖書を念頭に置いていたとしても、新約聖書は含まれない。
「聖書は原典において何の誤りも含まない」といった類の主張が最初から破綻しているのは、以前私が書いた「シカゴ声明批判」参照。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/04/post-e9aa.html
4.空中携挙のときが来る?
「忠実な信者たちは、地上の大患難期が始まる前(またはその間)に突然天に引き上げられ、空中で主に会う」という、いわゆる「空中携挙」の主張があるが、これはキリスト教の伝統的な見解にない新興神学である。
私が知る限りカトリックにも東方教会にもこうした主張はないし、ルターやカルヴァンの主張にもない。
携挙論は、19世紀の新興キリスト教の中に生じた主張のようだ。(古くから携挙論はあったとする主張もあるが、たとえそうだとしても歴史の中で廃れた見解であり、キリスト教が伝統的に受け継いできた見解ではない。)
伝統的に、新旧両派共、キリスト教の主流の側は、終末に起きる出来事は神の摂理に委ねるべきだとして、人間が細かく予測したり時間区分を論じたりしてこなかった。
こうした伝統に反し、19世紀のジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)らは「ディスペンセーショナリズム」(時代区分説)という新興神学を提唱し、聖書の歴史を複数の時代に分けて、神がそれぞれの時代に異なる方法で人類に働きかけているとした。そして、この新興神学の広がりの中で携挙論も広まっていった。
つまり、カトリックも、正教会も、プロテスタント主流派も(自由主義神学やその後の神学も含めて)、キリスト教の伝統を受け継ぐ伝統派のキリスト教であるが、ディスペンセーショナリズムの主張は伝統から逸れた新興神学なのだ。
逆ではない。
逆のように聞こえるが、エキュメニズム派、リベラル派と呼ばれる人たちが、実は伝統派であり、保守的福音派(コンサバティブ)とされている人たちが、新興神学、新興キリスト教なのである。
携挙の根拠は1テサロニケ4:16~17などだろうが、これは「世の終わり」や「主の再臨」がなかなか来ないことを問われたパウロの苦し紛れの答弁だろう。パウロが、当時、彼が置かれた状況の中で想像して答えた話であり、ここから終末の時にはこうなると具体的に話を導くのは無理がある。
イエス自身も終末論者であって、世の終わりが突然来るようなイメージを持っていたようだが、福音書が記すイエスの教えの中に空中携挙の話はない。
空中携挙論だと、忠実な信者は特権的に救われて大患難に遭わずに済むことになる。これは、イエスの教えと相容れない。イエスは「聖書の教えに忠実な人たちに特権が与えられる」といった主張をしていない。むしろ、教えを守りたくても守れない徴税人や遊女らが真っ先に救われると説いている。
キリスト教の頂点はイエスの教えである。キリスト教の中には種々の立場や考え方があり、簡単に正誤の決めつけはできないにしても、私は、イエスの教えとの整合性を欠く空中携挙論のような主張を認めることはできない。
5.非クリスチャンは救われない?
これも、以前書いた通りなので、下記を参照していただきたい。
キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-9e3e.html
救われるのはクリスチャンだけ?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2023/05/post-6fbb.html
6.「正しい教会」?
「正しい教会」とは何だろう?
原理主義者は自分たちの教会を正しい教会とし、カトリック教会や主流派のプロテスタント教会をやたら非難する。そして、自分たちのことを「正統」、「福音的」、「聖書的」、「正しい聖書信仰」などと言う。そう言って自分たちを正しいとし、「他派は間違いだ、異端だ」と非難を浴びせてくる。
新興キリスト教である原理主義者が伝統的キリスト教を「間違っている」だの「異端だ」だのと言うのも噴飯ものであるが、そんなに自分たちが「聖書的」なら、「聖書に出てくる教会が正しい」とすべきだろう。
新約聖書に出てくる教会は、現代の一般の教会とかなり違う。(本当は集会と訳すべきなのだが、伝統的に教会と訳されている。)
新約聖書の教会は、建物としての教会(教会堂)ではない。信者は日曜日に一般の家庭に集まっていた。家庭での集会だった。職業としての牧師もいなかったし、牧師の説教が中心の礼拝でもなかった。讃美や祈りがあり、預言や異言もあった。集まった人たちはパンを割いて分け合っていたが、聖餐の儀式というより共同の食事だった。
とことん聖書的であろうとするなら、教会の建物や、職業としての牧師や、牧師の説教なども否定するか、「あってもよいが、なくてもよい」となるのではないか。聖書に書いてある通り、預言したり、異言を語ったりすべきではないのか。女は髪を切らない、教会で発言しない、被り物を被る、女性牧師など言語道断、となるのではないか。
原理主義者は「唯一の論拠は聖書」と言いながら、聖書に出てくる教会と一致しない原理主義教会の実態に矛盾を感じないのだろうか。
7.聖書は十全霊感の書であり、部分霊感説(=部分的霊感説)は間違っている?
原理主義者は、「聖書は十全霊感の書です。聖書66巻は信仰や生活の規範として無謬であるだけでなく、科学的・歴史的な面でも一切誤りのない無誤の書です」と言う。そして、「エキュメニズム派(プロテスタント主流派やカトリック教会など)は、十全霊感を信じておらず、部分霊感説を主張しているので間違っています」とくる。
何を言っているのだろう。私は、プロテスタント主流派やカトリック教会の人から「私たちは部分霊感説を信じています」なんて話は一度も聞いたことがない。私が知る限り、プロテスタント主流派やカトリックの神学に「部分霊感説」などという言葉はないし、おそらく「部分霊感」という概念さえないと思う。
「部分霊感説」という言葉は、原理主義者や原理主義に近い「保守」的な福音派が、他派を非難する文脈の中で用いる言葉で、要するに、他派へのレッテル貼りに使う言葉だ。
彼らの主張だと、「部分霊感説というのは、聖書の記述の中の信仰上の事柄にだけ神の霊感が及んでおり、科学や歴史の分野では聖書に誤りがあるとする説」で、「エキュメニズム派はこの説を信じている」。これは「十全霊感と対立する誤った説」だから「エキュメニズム派は間違っている」とくる。
そのような主張をしていなのに、「彼らはこう主張するがそれは誤りです」などと言わないでもらいたい。
私が知るエキュメニズム派の人は誰一人「部分霊感」などと言っていない。
聖書には科学的・歴史的な事実に反する記述も多い。現在、原理主義者は別として、ほとんどのクリスチャンがそう認めている。だからといって、科学的・歴史的な事実に反する記述には神の霊感が働いていないとか、神の霊感が薄いとか言っているわけではない。
「聖書は神の霊感によって書かれた書である」という主張と、「聖書には科学的・歴史的な事実に反する記述も多い」という主張は対立するのだろうか。
「神は、古代の神話や伝説や創作などのいろいろな話を用い、当時の人たちが受け入れられる表現で、人間に大切なことを伝えてくださったのだ」と考えるなら、2つの主張は対立しなくなる。
他派が言っていないことを言ったことにして自分たちを正当化する「正しい聖書信仰」の人たちに正しさなどない。
8.おわりに
上記で私が批判した原理主義者の見解は、教派にもよるが、原理主義でない教会の中にもある。
キリスト教原理主義を非難すると、部分的には、原理主義でないクリスチャンの見解まで非難しているようになってしまう。
書きながら、私に親切にしてくださった善良なクリスチャンたちのことが頭に浮かんできて、恩人の信仰を悪く言うようで、心が苦しかった。だが、私は、理屈の通らないことを認めることはできないし、自分の考えを偽ることもできない。
原理主義者の一番の問題は、罪の意識や地獄の恐怖が常に信仰の中心にあって、いつもおびえていることと、他者に対する極めて不寛容で攻撃的な姿勢だ。そして、自分たちが持つ不安の中に他者を引っ張り込んで、不安な思いを共有させることを福音伝道だと思っている。
うちの次男が言っていた、「創造論とか進化論否定とかより、罪や地獄を強調して脅すことや、善意の他者を一方的に非難することが問題なんだよ! 不寛容な態度が問題なんだよ! それ、イエス様の姿勢と違うよ」って。
(伊藤一滴)
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ヨセフさんだね。あんた、ナザレのヨセフさんだね。前に一緒に働いた俺だよ。思い出してくれたか。そっちは奥さんかい。マリアさんていうの。マリアさん、おめでたなのか。そりゃあ旅はきついだろう。それにしてもヨセフさん、あんたに会うのは久しぶりだな。ガリラヤ湖の近くで一緒に大工仕事をしてた頃がなつかしいよ。あれからいろいろあってな、今、俺は一家でベツレヘムで暮らしてる。
あんたもベツレヘムで登録か。まったくお上のやることはよぉ。どうせ人頭税の徴収や強制徴用のリスト作りなんだろうけどよ、居住地での登録ならともかく先祖の出身地で登録しろって、お上は何を考えてんだ。手間がかかるだけで、旅費も出ねえし、みんな自己負担じゃねえか。おかげでユダヤ中が大混乱だ。
で、あんた、今晩どこに泊まるんだい。えっ、泊まる所が探せないって。そうか、宿屋はどこも満員か。そりゃあ、この混雑じゃな。よかったら俺んちに来るか。俺、大工と兼業で民宿もやってんだ。俺んちも満員だけど、土間でもよければ寝床の用意ぐらいはできるぞ。馬と一緒に泊まったって野宿よりはましだろう。実はな、大工仕事より民宿のほうが稼ぎがいいんだ。人口調査の登録でベツレヘムにけっこう人が来て、うちにも泊まってくれるから、いい稼ぎになってる。なんか、ローマ帝国にぶら下がって食ってるみたいで、胸くそ悪いけどよ。
おーい、俺だ、帰ったぞ。昔の仕事仲間に会ったんだ。ヨセフさんていってな、奥さんと一緒だ。今晩うちに泊まってもらおうと思って・・・。
何っ、奥さんが陣痛。産気づいてるって。そりゃあ大変だ。
おーい、かかあ。すぐにお湯を沸かしてくれ、たくさんお湯がいる。それと、たらいと布の用意だ。急いでくれ。俺は産婆さんを呼びに行ってくる。すぐ連れて来るからな。
はっ、はっ、はっ。すまん、ほうぼう探したけど、産婆さんが見つかんなくて。ちょっと水を飲んだら隣町まで走って探してくるから・・・えっ、もう生まれたって。男の子。初産にしちゃずいぶん早いな。赤ちゃんもマリアさんも元気なんだな。じゃあ、あとはかかあに任せよう。うちのかかあは何人も子を産んでるから、勝手がよくわかってる。俺たち男衆の出る幕じゃないよ。そうだ、赤ちゃんの寝床がいるな。何かないかな。そうそう、俺が作ったかいばおけがある。うちの家畜用の予備に作っておいたんだ。俺も大工だからな、作りはいいぞ。まだ使ってないからな。汚くなんかないぞ、新品だ。今持ってくる。かいばおけに布を敷いてと。
この子ったら、生まれたばかりで凛とした顔をしてるね。きっと大物になるぞ。
あんたら、しばらくうちに泊まるといい。ひとまず俺たち夫婦の部屋を貸すから。ああ、気にすんな。俺もかかあも土間でいいから。奥さんを休ませてやってくれ。そのうち客室もあくだろう。
いやー、びっくりしたなあ。羊飼いたちが来たかと思ったら今度は異国の博士かよ。一体この子は何者なんだ。東方から来たとかいうあの博士たち、拝むみたいに挨拶して、何か、すげー宝物を置いて行ったな。とんでもない値打ちもんかもよ。こりゃあ、すげえな。一生の記念になるな。えっ、あの博士たちって、異邦人で、異教徒で、しかも星占い師だって。そうか、ヨセフさん、あんたはユダヤの民がそういう人から贈り物をもらっていいのか悩んでんのか。あんた、真面目だからな。でも考えてみろよ。俺たち庶民が律法を隅々まで守ろうとしたら、生活できなくなっちまうぞ。それに、今さらどうやって返しに行くんだ。素直にもらっておいたらいい。何かの役に立つかもよ。
大変だ、ヨセフさん、聞いたか。あのヘロデの野郎が軍隊を送ってこの辺の男の子を皆殺しにしてるらしい。特に二歳以下の子が狙われてるみたいだ。あの野郎、畜生め。この子も危ない。すぐ逃げたほうがいい。
何、夢でエジプトに逃げるようにお告げがあったって。エジプトかぁ。こっからだとかなりの距離だな。どうしてもエジプトに行くんなら、うちのラクダを使うといい。テントや衣類もうちのをやるから使ってくれ。それと、飲み水の用意だ。食料もいる。食料は途中で買うか。お金がいるな。そうだ、例の博士たちがくれたお宝がある。お金にしたらどうだ。大事なものでもしょうがない。今は命がかかってる。俺に渡してくれるか。今からマーケットに行って、お宝をお金にしてくるからな。すぐ戻るからな。
けっこうな金になったぞ。やっぱり博士のお宝はかなりの値打ちもんだった。これで旅費と当面の滞在費は間に合いそうだ。ラクダと旅の荷物を用意しないと。夜が明けたらすぐに出発しよう。シナイ半島の近くまで俺も行く。エジプトに行く隊商に頼んで合流させてもらおう。あんたらだけでシナイ半島を越えるのはきつすぎるからな。下手したら命が危ないぞ。
ふう、やっとここまで来た。こっから先はシナイ半島だ。隊商に同行できることになって本当によかった。お頭には俺からもよくお礼を言っておくよ。
それにしても、ヘロデに殺されちまった男の子たちや家族があんまり気の毒だ。なんにも悪くないのに。それに、あんたみたいな真面目な大工がよ、なんでこんな目に逢うんだろう。俺には神様のお考えがわからない。
ヨセフさん、マリアさん、達者でな。それとこの子、イエス君っていうのか。君はきっと将来の大物だ。元気で大きくなってくれよ。
噂じゃな、ヘロデはもう長くないらしい。だから疑心暗鬼の塊みてえだ。ヘロデの時代が終わったら戻ってくればいい。戻ったら俺んとこに寄って無事を知らせてくれよ。
じゃあな、達者でな。あんたらの無事を祈ってるからな。
(伊藤一滴)
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田川建三訳の新約聖書がある。分冊には詳しい註がついていてなかなか読み進まない。私は註も全部読むようにしているし、他の訳とかなり違う箇所や気になる箇所は、他の訳やネストレ校訂版と照らし合わせて読んでいる。そういう読み方なので、1冊読むのに半年~数年かかる。最初に刊行された『マルコ福音書・マタイ福音書』を読み終えるのに5年くらいかかってしまった。もっとも、その当時はまだ子どもに手がかかったというのもあるけれど。私が生きているうちに最後まで読めるんだろうかと思うこともある。
読んでいて、田川訳は正確に訳そうとかなり努力した訳だと思う。ただ、原文のギリシャ語自体、そんなに正確ではない。「言語に正確さなどあるのか。多くの人がそういう使い方をし、それで意味が通じるなら、それが正確な言語ではないか」、という考え方もあろう。新約聖書の場合、何人もの人たちが執筆しているし、後に書き加えられたのではないかと考えられている箇所もある。文体も不統一であり、文法上、また単語の用い方も、疑義のある点が多い。
「聖書は誤りなき神の言葉なのだから、原語の文法や単語に誤りがあるはずがない」という考えがあって、語学的に正しくない箇所も(黙示録に特に多い)、これはこういう独自の文法なのだろうとされ、「適当に」訳されてきた。
田川氏は原語の釈義に厳しい。だが、それでも、田川訳を読んでいると、こういう訳し方でいいんだろうかと思う箇所もある。それに、意訳もあるし、文や訳語の不統一もある。
田川訳は、基本的にネストレ校訂版からの訳だが、一部ネストレの読みに従っていない箇所もある。田川氏のことだから、ご自分で各写本を検討し、本文校訂(ほんもんこうてい)をなさったのだろう。だったらそのギリシャ語の文を示してほしかった。ネストレ校訂版をそのまま訳した箇所はネストレを見ればいいが、違う校訂の箇所は、その独自の本文校訂の文を載せてほしかった。延々と他の訳の批判や余談みたいなことを書かなければ、それくらいのスペースは確保できたろう。だいたい、高いお金を出してわざわざ田川訳を買って読むくらいの人は、日本聖書協会や岩波書店の聖書の翻訳に問題点があることくらい知っている。
田川氏は、これまで新約ギリシャ語を正確に訳した日本語の聖書はなかったと言うが、実は、かなり正確な訳がある。永井直治訳『新契約聖書』である。
ただ、これはネストレからの訳ではなく、ステファヌス校訂第3版から訳されたものだ。言うまでもないが、永井先生はネストレよりステファヌスが良いと思っていたわけではない! 彼は、ステファヌス版からネストレ版に至る新約聖書本文校訂の流れの一覧を作り1冊にまとめようとしていた(※1)。
壮大な計画であった。だが、不幸なことに、ちょうど日本はアジア太平洋戦争に進んで行った時代であり、ステファヌス第3版の訳だけは『新契約聖書』という題で刊行されたが、あとの計画は中断になってしまった。そして永井先生は戦争末期に亡くなられた。
そんな時代でなくて、永井先生に時間も資金も十分にあったならと惜しまれる。
『新契約聖書』はすでに著作権が切れていて、インターネットに全文が公開されており、無料で読める。これは故植田真理子氏らのご努力による。
翻訳者の永井直治先生に対してはもちろんのこと、これを電子データ化し公開なさった植田真理子先生に心から感謝申し上げたい。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A5%91%E7%B4%84%E8%81%96%E6%9B%B8
また、明治学院大学図書館がこの本の全頁の鮮明な写真を公開しておられる(翻訳者のサイン本だった※2)。
これは、「明治学院大学図書館 デジタルアーカイブス 新契約聖書」で検索できる。
国立国会図書館が公開している本は白黒だが、明治学院大学図書館のは鮮明なカラー写真だ。明治学院様、ありがとうございました。
私は、偶然、ある古本屋で、「ギリシャ語新約聖書ステファヌス校訂第3版」を入手した(※3)。英国欽定訳との対訳本だ。おそらく古本屋さんは何の本だかよく分らなかったのだろう。手書きの帯に「洋書、キリスト教?」と書いてあり、千円均一本の中にあった。
これを永井直治訳『新契約聖書』と照らし合わせてみて、永井訳の正確さに驚いている。翻訳には時代的制約があるとはいえ、訳語の統一といった点では田川訳より確かだ。
ふつう、歴史的な流れを知ろうと思えば過去から現在へと向かう。永井直治もそうしようとしたのは当然だと思う。だが、もし逆に、永井先生が当時から過去へと向かって訳していたなら。つまり、当時のネストレからステファヌスに(あるいはエラスムスに)遡ってゆく翻訳を計画なさっていたとしたら、第一冊目がネストレからの訳となり、我々は、ネストレ版を非常に正確に訳した日本語訳新約聖書を手にすることができたろう。
ステファヌス校訂本の訳もたいへん価値があるとは思う。だが、優先順位からしたら、まずネストレ校訂版からの翻訳がほしかったと思う。
(伊藤一滴)
※1
「新契約聖書」の「小引」にこうある。
引用開始
併しステハヌスを學び、またそれを仔細に和譯することが、私の研究の主眼ではありません。私の主眼とする處は、等しくステハヌスを基本としまして、ベザやエルゼビル、ミルやグリスバッハ、尚ほその他の多くの學者等を經て、ラハマン、ツレゲレス、チシェンドルフ等の學者に傳はり、遂にヱストコットやワイス等よりネストレに落ち込みました。その流、その修正、またはその變化を一見して明らかなる樣、一册のテッキストに歴史的に總括することでした、本書はその基礎であり、またその一部分であります。
引用終了
永井先生は、ティシェンドルフも、ウェストコット(およびホート)も、ヴァイスも、ネストレも、否定していない。
※2
明治学院大学図書館は翻訳者自身の書き込みもモザイクなどかけずに載せておられる。サインや書き込みも歴史的価値があるものだと思う。
最近は、個人情報がうるさいからだか、古本屋で売られている本にも、著者のサインと思われる箇所が塗りつぶしてあるものがある。なんてことをするんだろう。
※3
あとから、「ギリシャ語新約聖書ステファヌス校訂第3版」は電子書籍化されていて安価で売られているのを知った。アマゾンのキンドルで購入できる。
ネストレ・アーラント校訂第28版は、ドイツ聖書協会が無料で公開しているときもあるが、いつもではない。いつも参照するためには、紙の本か電子書籍か、どちらかを購入する必要がある。
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今から10年以上前ですが、ロケットストーブを作り、薪ストーブと合体させて使っていました。(上は当時の写真)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2012/11/post-38fd.html
手前の薪ストーブの上部はいらないと考え、鉄工所に頼んで作ってもらったのがこれ。やかんを置く部分が減りましたが、暖房効果はぐんと高まりました。ロケットストーブの部分はそのまま10年以上使っています。びくともしません。焚口を改良してこの冬で3年目になりますが、以前よりさらに少ない薪でよく暖まります。内部のヒートライザー(煙突効果の縦の管)が熱せられると煙はおさまりますし、おき(炭が燃えるような状態)になった薪を手前に移し、この部分を大火鉢(囲炉裏?)のように使えば暖房効果抜群です。
電気暖房・石油暖房等、ほとんど使わなくなりました。
山の中の古民家に住んでるんで、こんな暮らしができます。
(伊藤一滴)
私市元宏(きさいち もとひろ)著『聖霊に導かれて聖書を読む』(新教出版社1997)という本を読みました。それほど厚い本ではありませんが、内容が濃くて、なかなか読みごたえのある本です。※1
この本に書いてある「第二の聖書」という箇所を引用します。(23頁)
「第二の聖書」と言っても、特殊な考えの人が書いた聖書以外の正典とかの話ではないです。
引用開始
第二の聖書
ところで「第二の聖書」という言葉を読者はご存知でしょうか。この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉です。神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられる。いわば、自然は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」(the Second Bible)であるという意味です。この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言い表わしていると思います。なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。人はいわば聖書と共に自然を「読ま」なければなりません。神をよりよく知ろうと思うならば、聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことが必要なのです。この場合、自然は、活字になっている聖書のテキストと同じくらいに重要な意味を持ってきます。すなわち、自然という「テキスト」を読むのです。このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが「第二の聖書」の意味なのです。
引用終了
私、一滴も思うのですが、「神が天地を創造なさったのであり、自然界の万物は神の被造物である」というなら、自然の中に神様からのメッセージを感じるというのは自然な感覚でしょう。
「信仰の論拠は文字で書かれた聖書66巻だけです。自然の中に神様からのメッセージを感じるといった考えはアニミズム的な発想であり、正しいキリスト教ではありません」みたいなことを言う人がいました。有名な大学の文学部の学生でしたね。
私は、アシジのフランチェスコや井上洋治神父の言葉を引用したりしながら、自然の中に感じられる神の働きの話をしたんですが、その人には全く通じませんでした。どう言っても、ことごとく、そういう考えは正しいキリスト教に反すると否定されただけでした。まるで、鋼鉄の甲冑で身を固めているかのようでした。そういう人、いるんです。
あとから、「読むべきものは聖書である、学ぶべきものは天然である、為すべき事は労働である」という内村鑑三の言葉を知りました。※2
「学ぶべきものは天然である」って、内村鑑三は、すでに明治時代に言ってたんです。もっと早くそれを知っていたら、あの大学生に紹介したかったですね。
そう言えば、ターミナルケアの先駆者であるエリザベス・キューブラー・ロスも、大自然こそ神について教えてくれる偉大な教師であるという意味のことを書いてましたね。視野の狭い牧師たちは正しく神を伝えないが、大自然は正しく伝えてくれるって。
(伊藤一滴)
※1 私市元宏『聖霊に導かれて聖書を読む』は現在絶版のようですが、ネットで無料で読めます。
http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/kowaindex.htm
まずここを開くと、「現代および未来へ向けて」というのがあって、そこに「聖霊に導かれて聖書を読む」があります。
※2 内村鑑三「聖書之研究」(明治41年)にこうあります。
引用開始
読むべきものは聖書である、小説ではない、政論ではない、然り、神学ではない、聖書其物(そのもの)である、神の言(ことば)にして我が霊魂の声なる聖書である、聖書は最も興味深き最も解(げ)し易(やす)き書である、世々の磐(いわ)より流れ出づる玉の如き清水である、之を哲学的に解釈せんとせず、之を教会の書として読まず、神が直接に霊魂に告げ給ふ言として読んで、聖書は其(その)最も明瞭なる意味を我等(われら)に供給する、我等はすべての物を読むのを止めても、然り、時々すべての物を読むを止めて、一意専心聖書を読んで之をして我等の霊魂を活き復(かえ)らしむべきである。
学ぶべきものは天然である、人の編みし法律ではない、其(その)作りし制度ではない、社会の習慣ではない、教会の教条(ドグマ)ではない、有りの儘(まま)の天然である、山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、獣である、是(こ)れ皆な直接に神より出で来りしものである、天然は唯(ただ)天然ではない、神の意志である、其(その)意匠である、其中に最も深い真理は含まれてある、天然を知らずして何事をも知ることはできない、天然は智識の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。
為すべき事は労働である、口を以てする伝道ではない、筆を以てする著述ではない、策略を以てする政治ではない、手と足とを以てする労働である、労働に由(よ)らずして智識以上の智識なる常識は得られない、労働は労働としてのみ尊いのではない、信仰獲得井(ならび)に維持の途(みち)として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、キリストに於ける信仰は文に頼(たより)て維持することは出来ない、語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄る者である、福音は神学ではない労働である、聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である、労働なくして身は飢え、智識は衰へ、霊魂は腐る、労働を賤む者は生命を棄る者である、労働是れ生命と云ふも決して過言ではない。
引用終了
今の私は、山形県の山間部に住む兼業農家です。
自分自身が天然自然の中に身を置いて、聖書を読み、農作業をし、思考する日々ですから、「第二の聖書」も「学ぶべきものは天然である」も、とても心に響きます。
(伊藤一滴)
2023-09-20 掲載、一部を改め再掲
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ルカ福音書のイエスはシモン・ペトロに「人間を捕る漁師にしよう」とは言っていない。
ルカ5:10の後半にこうある。
καὶ εἶπεν πρὸς τὸν Σίμωνα ὁ Ἰησοῦς,
Μὴ φοβοῦ· ἀπὸ τοῦ νῦν ἀνθρώπους ἔσῃ ζωγρῶν。
訳せばこうなる。
そして、イエスは、シモンに言った。「恐れてはなりません。今からあなたは人を生け捕るようになるでしょう。」(私訳)
どこにも「漁師」という単語は出てこない。
「人間を捕る漁師」という言い方は、マルコの文や、マルコを写したマタイの文に出てくる。ルカの福音書を訳すとき、なぜ、マルコやマタイの文を組み込んで「漁師」と訳すのか。(口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳他)
こうした訳者らは、マルコやマタイの記述につられて原文にない言葉を「訳」してしまったのだろう。
写本はいろいろあるのだろうが、かなり高い確率で、ルカ自身のオリジナルには「漁師」とは書かれていなかったと考えられる。写本記者が他の福音書と合致する箇所をわざわざ別の表現に書き換えるとは考えにくいからである。
天下の「口語訳聖書」、「新共同訳聖書」、「聖書協会共同訳聖書」といえど、原文にない「漁師」という言葉を「訳」してしまう、その程度の訳なのだ。
ここは新改訳が正しく訳している。新改訳は、ときに、はっとするくらい的確に訳していることがある。なお、文語訳も、またRSVなどの英訳も「漁師」という訳語は使っていない。戦後、日本の口語訳聖書の訳者がうっかり「人間をとる漁師」と誤訳し、1980年代の新共同訳聖書の訳者も、最近の聖書協会共同訳の訳者まで、同じように誤訳し、チェックした人たちも見落としたのだろう。まだネストレ校訂本がなかった明治13年版だって「懼るる勿れなんぢ今より人を獲べし」と、ちゃんと訳しているのに、より正確な底本を使った後の人たちが誤訳とは。戦後間もない頃の口語訳はともかく、新共同訳や聖書協会共同訳まで同じように誤訳とは。)
これは想像だが、ルカは、「漁師が魚をとったら魚は死んでしまう」と思ったのかもしれない。自分でそう思ったのか、誰かがルカにそう言ったのか、ルカが属していた信者のグループの中でそういう話があったのか。
マタイもそうだが、ルカも間違いなくマルコ福音書を手元において福音書を書いているので、ルカ自身がマルコ福音書の記述を書き換えたと考えられる。
ブルトマンなどは、イエスが実際に「人間を捕る漁師」という発言をしたことに否定的でこの言葉を後の伝承と考えているが、ガリラヤ育ちの庶民イエスの口からそうした発言が出た可能性を完全には否定はできないと思う。イエスは「人間を捕る漁師」と言ったと伝えられていて(本当に言ったかどうかはともかく、そう伝えられていて)、最初の福音書マルコはそれを記し、マタイも同様に記したのだ。
それを、ルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうと思ったのか、マルコ福音書の記述を書き換えた可能性が高い。
ここは、伝えられたイエスの言葉がどのように変わっていったのか、イエスの言葉の伝承の変遷に関わる重要な箇所ではないか。
福音書は、それこそ、「原典において」すでに書き換えられていたと考えられる。それを他の福音書に合うよう「訳」していいんですかね? 日本聖書協会さん。
「聖書は原典において無誤である」と主張する人たちがいるが、原典において、原著者の手で、すでに書き換えられていたようだ。
無誤の原典て、いったい何?
(伊藤一滴)
ご参考:ルカ5:10後半のこれまでの訳
イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(新改訳)
「そして」(あるいは「すると」καὶ )が省略されているが、基本的に正しく訳されている。
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(口語訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(新共同訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
聖書協会共同訳も同様
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聖書には、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度の反映がみられるが、それらが「正しいから」聖書に書かれたのだろうか?
聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?
聖書を執筆したのは古代人である。執筆者は古代の世界観・宇宙論を素朴に信じていた。彼らは、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていて、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか思っていなかった。もちろん、星の遠心力と引力とのつり合いなど知らなかったし、万有引力も知らなかった。
聖書を文字通り信じるなら、三層からなる世界を信じないといけなくなる。地球は丸いとか太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていないし、聖書から導くこともできない。(聖書から太陽系はこうなっているといった話を導く人もいるが、それは屁理屈による強引な解釈だ。無理な屁理屈を使えば何とでも言える。正反対のことも言える。)
むしろ、聖書の記述を素直に読むなら、地球が丸いことや太陽の周りを回っていることを否定するのが自然な解釈ではないか。科学的な見方と聖書の記述はそれぞれ違うものであり両立はしない。
創世記の天地創造の記述によれば、太陽より先に地球があり、太陽がなかったのに光があった。そして、まだ太陽がなかったときの地球に植物が生えたいた、ということになる。そう書いてある通り、その通りに信じなければ「聖書を文字通り信じています」とは言えないのではないか。
パウロは上に立つ権威に従うべきだと説いて、ローマ帝国による支配を認めている。また、奴隷制を否定していない。女は髪を切るなとか、被り物を被れとか、男に教えるなとか、教会では黙っていろとか、いろいろ言っている。
ローマ帝国のような帝国が権威として君臨し、強力な軍隊を持ち、各地を植民地のように支配する、そういう世の中が聖書的な価値観なのだろうか。さらに、奴隷制を認めてよい。女は男の下にあると考えるべきだ。女は教会の中で発言してはいけないのだから、女性牧師を認める教会は反聖書的な異端の教会だ。女は男に教えてはいけないのだから、女性教員のいる学校に男の子を行かせるべきではない。「聖書を文字通り信じる」ならそうなるのではないか。
(パウロの名誉のために言うが、バート・D・アーマンによると、パウロ書簡の中の女性差別的な記述は後に別人によって書き加えられた可能性があるという。もし、後からいろいろ書き加えられたとすれば、「聖書の権威」って何だ?)
現代のプロテスタント主流派やカトリックはリベラルになっており、上述したようなことが問題になることは、まずない。彼らは、基本的に、現代の科学的・歴史的な研究の成果を受け入れている。だから、原理主義者から「リベラル派は聖書を文字通り信じていないので、まちがったキリスト教です」などと言われる。えっ、「聖書を文字通り信じる」って、聖書が書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度を正しいと信じることなの?(カトリックの場合だと、司祭は男性に限るといった制度がまだあって、問題視されることもあるが。)
上述の問題は、福音派内の問題と言える。
福音派も一枚岩ではないから、内部には、「聖書には科学的事実に反することも書かれている」と認める人たちもいる。彼らの考え方だとこうなる。たとえば、親が幼い子どもに、「クリスマスにはサンタさんが良い子にプレゼントを持ってきてくれるよ」と言ったとする。こうした発言はアメリカをはじめキリスト教の文化圏では珍しくないと思うが、そう言う親は、噓をついて子どもをだましているのだろうか。そうではなく、幼い子どものレベルに合わせてそう言ったと言えるのではないか。
同じように、神様は、古代人の知識・認識のレベルに合わせて大切なことを教えてくださったと考えることができる。だから、聖書に書いてあるからといって、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度まで、現代の人が受け入れなければならないということではない。
こうした考え方だと進化論を否定する必要もなくなる。
それを聞いて自称「福音派」の原理主義者らが怒り出す。
「聖書は一字一句に至るまで、神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉で、すべて文字通りの事実です。福音派の内部にまで、聖書には科学的事実に反することも書かれているなどと言う人がいるのは、自由主義神学の悪影響を受けたリベラル化です。これはサタンの仕業です!」
はぁ。目覚めない人たちはどこまでも目覚めない。
何が真実なのか真剣に道を求めていけば、プロテスタント主流派も、福音派も、カトリックも、かなり近い所に行くのではないかと思う。だからエキュメニズム(教会再一致運動)の動きもあるのだ。
広い視野に立って真剣に道を求めることに背を向け、狭い世界に閉じこもり、自分たちの先入観を上にして現代科学を否定し、エキュメニズムを否定するのは、たとえ「福音派」を名乗っていてもカルト思考の原理主義であり、現代の律法主義、現代のファリサイ派ではないか。
(伊藤一滴)
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アメリカの大統領選挙でトランプ氏の当選が確実になったという。
アメリカの国民が選んだことではあるが、誰が大統領になるのかによって、その影響は日本を含む世界に及ぶ。
トランプ氏が率いるアメリカがどういう方面にどう動くのか、専門家でも予測が難しいようだ。
今後どのような状況になっても、我々はその中で生きていくしかない。
そして我々にやれることをやるしかない。
・・・・・・・・・・
10月上旬に稲刈りをし、自家用分は天日干しにしました。
天日干しの米は乾燥状態をみて脱穀し、籾(もみ)袋に入れて保管しています。籾のままだと翌年の秋になってもおいしい状態が保たれます。
家の周りには猫軍団がいます。我が家の飼い猫は現在2匹(これまで最大10匹)。集落の猫はかなりの数で、人より猫が多いです。この猫軍団のおかげで、ネズミの被害を受けずに済んでいます。
・・・・・・・・・・
私の母(88歳)が、老健からグループホームに移りました。グループホームは老健や特養よりは費用がかかりますが、自由度が高くていいようです。
母は、軽度の認知症があるのですが、あいかわらず新約聖書(新共同訳)を読んでいます。
面会に行ったら、
「何か、聖書の解説ない?」
って聞かれたんですが、これは難しいですね。
特定教派の立場のなら聖書の入門書も注解書もいろいろありますけど・・・。
教派を超えたもので、かつ初心者向きとなると・・・。
私が思いつくところでは、
田川建三著『イエスという男』とか、
富田正樹著『信じる気持ち はじめてのキリスト教』とか、
聖書やキリスト教の初心者にはおすすめですけれど、ある程度一般教養を学んだ人ならともかく、教育を受けていない高齢者向きではないですね。
私の母は、戦中戦後の時代、貧しい母子家庭で育ちました。成績は悪くなかったのに、家が貧しくて進学をあきらめ、中卒でずっと働いてきました。
母には、三浦綾子著『道ありき』あたりかな。これは聖書の解説書ではありませんが、聖書を信じる人の生き方を示した名著です。同著『塩狩峠』も。
うちの息子に、
「おばあちゃんが読めるような聖書の解説書って、何かないかな?」
って、聞いたら、
「日本聖書協会の『スタディバイブル』あたりがいいんじゃない」
って言ってました。
それもありかな。
・・・・・・・・・・
(伊藤一滴)
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この夏、荒井献先生が逝去された。
今度は佐竹明先生が召され、
そして、グスタボ・グティエレス先生も。
1980年代~90年代、こうした方々の著書を読みふけっていた私は、時代が変わってゆくのを感じている。
荒井献先生や佐竹明先生の新約学は手ごわかった。
グティエレス先生の『解放の神学』は、山田経三先生(当時、上智大学教授)の訳で読んだ。山田経三先生にお会いしてお話を伺う機会もあり、幸いだった。
フィリピンにいたときにグティエレス著『ヨブ記』の英訳を見かけ、関心があったのだが英語で読み通す自信がなく、買わなかった。帰国してから銀座の教文館に寄ったら、山田経三訳の日本語版が出ていた。手に取って値段を見たら、ずいぶん高い。
フィリピンと日本の物価の違いを思い知った。高いな~と思ったが、読みたかったから買った。
荒井献先生や佐竹明先生らの新約学研究に、キリスト教界はきちんと応えてきたのだろうか?
グスタボ・グティエレス先生らの「解放の神学」に対しては、どうなのか。
私の妻(クリスチャン4世)が、「ベネディクト16世の生前退位は解放の神学に対する敗北の表明」と言っていた。妻によると、頭脳明晰なベネディクト16世(ラッツィンガー)は、グスタボ・グティエレスやレオナルド・ボフらの見解に勝てないと判断し、退位し、革新派に道を譲ったのだろうという。なるほど。
グティエレス著『解放の神学』(山田経三訳)はかなり難解なので、関心のある方には、まず、ホアン・マシア著『解放の神学』をお勧めしたい。
(伊藤一滴)
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衆院選が終わり、自公が過半数割れとなり、それに対していろいろな方がいろいろとコメントしておられる。
石破茂氏の責任を問う声もあるようだが、これは石破氏の責任と言うより、これまでの自公政権のやり方に対する国民の審判であろう。
特に安倍政権、菅政権は、数の力でやりたい放題のことをやってきた。マスコミに睨みを利かせて政権批判を抑え、安倍氏・菅氏を有能な指導者であるかのように報道させ、アベノミクスは順調であるかのように、旧民主党政権は駄目な政権であったかのように報道させた。NHKをはじめ、報道は忖度報道・翼賛報道と化して、まともに機能していたのは少数のマスコミとインターネットくらいだった。
国民の多くは安倍・菅の政権を力強いと思ったのかもしれないが、実際は、民主主義を踏みにじり蝕む政権であった。
岸田政権となって、やっとまともな日本が戻ってきて、民主主義の機能不全が改善した。その結果が自公の大敗だ。
当面、政治も経済も混乱が生じるだろう。それでよい。それが民主主義なのだから。
混乱のない社会は、つまり、強力な権力が君臨する社会なのだ。よい権力がよい支配を続けてくれるならともかく、そうした権力が長く善政であったためしがない。
権力は腐敗する。
絶対的な権力は絶対的に腐敗する。
モリカケサクラ裏金と続いても、与党政治家は、誰も逮捕も起訴もされない。
自民党と韓国系カルトが癒着して、それで愛国を言うって、いったい何?
一般の国民はささいなことでも罪に問われるのに、与党政治家は誰もお咎めなし。
国民にはインボイス制度を強いておいて与党政治家は裏金を着服。
おかしいではないか。
日本の警察は一般国民には強く振舞いながら与党の有力政治家や関係者には手を出せないのか。
日本の検察は無実の人を罪に陥れ、政治家の罪には沈黙か。
警察や検察の幹部は国民の選挙で選ばれる人ではないし、国民審査もない。これは、我々がまともな政治家を選び、まともな政治が続くことで、まともな人に幹部になってもらうしかない。人事に露骨に介入する安倍流の政治を認めてはいけない。権力に媚びることで地位を築いた公務員には失脚してもらったほうがいい。
今後も我々は、確実に投票に行き、選挙権を行使することで、民主主義を守るしかない。
どうせ変わらないと諦めてはいけない。
民主主義は国民の不断の努力で保持される。
(伊藤一滴)
追記1:投票率の低さについて
うちの子どもたちが学校に通っていた頃(安倍政権時代)、私は何年もPTAの役員を頼まれ、しょっちゅう学校に行き先生方とも話をしていた。
ご迷惑をかけるといけないからあまり具体的には書かないが、学校で先生方といろいろ話をしていると「投票率が低くなるよう国が仕向けているのではないか」と思うことがあった。
学校は、表向きは「国民主権」を教えているし、「日本の選挙制度」を教えている。だが、それは、その仕組みをさらっと教えているだけで、実際にこう行使すべきだと教えていない。
教育の場において「国民が主権者なのだから、投票に行って政治家を選び、国の未来を決めるべきだ」ということを、わざと、きちんと教えないようにするのが国の方針で、きちんと教えようとする先生には圧力がかかるのではないかと思えた。
社会派と見なされている先生に対する校長先生らの態度など、PTAの役員たちがいる前なのに、いじめではないかと思えることさえあった。
政権与党には岩盤支持の固定票がある。投票率が上がれば、与党が不利になって都合が悪い。
自民党を中心とした政権が長く続き、文部行政は「お上に逆らわない人材の育成機関」になってしまったのではないか。そして、その自民党と連立を組む公明党は、自民党が何をやってもくっついてゆく金魚のフンになっているのではないか。
追記2:私は左翼ではない
以前から言っている通り、私は左翼(マルクス主義者やその影響下にある者)ではない。
左翼も人権や民主主義を口にするが、北朝鮮や中国の実態からわかるように、それは名ばかりだ。
左翼が民主社会の中の少数派であるとき、彼らの活動が民主主義の益となることもある。だが、彼らが天下を取れば民主主義の破壊者となる。
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過去に書いたものは、こちらからも読めます。
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おことわり:今回、旧約聖書の記述やそれに対する私の思いを書いたのですが、記事に暴力的な記述や性的な記述があります。あんまり書くと有害サイトだと思われてしまうというご指摘があり、また、私も、怒って書き過ぎてしまった箇所があると思ったので、表現の一部を改めました。
それにしても、旧約聖書のある箇所を引用したら有害サイトになるんでしょうか。旧約聖書って、有害図書?(2024.10.21追記)
現在、イスラエルはパレスチナのガザやレバノンを攻撃し、民間人の犠牲が止まらない。すでに多くの無辜の血が流されているが、イスラエルのネタニヤフ政権は自制を求める国際世論など、はなから無視しているようだ。
死者はガザ地区だけで4万人を越えている。負傷者は数知れない。被害者の家族はイスラエル軍を激しく憎むことだろう。たとえイスラエルがハマスやヒズボラを壊滅させたとしても、今後、被害者の家族や同調者の中に、新たな武装組織をつくってイスラエルに立ち向かう人も相当数でてくるのではないか。捨て身の戦術で向かってくるかもしれない。
これまでもそうだったが、今のイスラエルは脅威をなくすのではなく、やがて脅威となる予備軍をつくりだしている。そうやってイスラエルは未来に向かって無限の戦いを挑んでいる。自分たちも今後ずっと緊張を強いられるのに。
現代のイスラエルによる民間人殺傷を思いながら、旧約聖書の民数記を読んでいた。
民数記、申命記、ヨシュア記と、神が殺人を、それも大量虐殺を命じている箇所が多い。
そういえば佐倉哲さんが「聖書における神の殺人命令」についてコメントしていたと思い、ネットを見たらすぐ見つかった。次の箇所だ。
https://www.j-world.com/usr/sakura/other_religions/divine_murder.html
長くなるが、一部を引用する。(佐倉さんの文章には固有名詞の不統一やタイプミスと思われる箇所もあるが、そのまま引用する。)
引用開始
現代のクリスチャン
このような聖書における神の殺人命令は、現代のクリスチャンに少なからぬ困惑をもたらします。そこで、あるクリスチャンはつぎのような正当化を試みます。
モーゼの時代には、戦争をして相手を殺さねばイスラエル人が殺される状況だったのである。
このクリスチャンは聖書を自分の目で読まれたことがないのかもしれません。出エジプト記や申命記やヨシュア記や民数記を読めば明らかなように、そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。
それに加えて、たとえば、つぎのような記述をみれば、聖書の神の殺人命令が自己防衛などではなかったことは、あまりにもあきらかと言わねばなりません。
モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節)
このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たちが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発しています。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、聖書の神ヤーウェは怒り、モーセに対して、イスラエルの「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じのです。この粛正事件で、2万4千人のイスラエル人が処刑されたと記録されていますが、それが、ペオルの事件でした。(民数記25章)
このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こした」からだ。この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」(民数記31章1〜3節)、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。
昔も今と同じように、軍隊というものは女や子供を殺すことには躊躇したのでしょうか、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきたのです。ところが、そのために、「女たちを皆、生かしておいたのか」とモーセは大変怒ったのです。それで、「男と寝ず、男を知らない女」は自分たちのために捕虜にし、他はすべて、女も子供も殺せ、と再命令したのでした。
そして、最後に分捕り品が山分けされます。
モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。「・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。
(民数記31章31〜54節)
このような戦争は、生存のための自衛の戦争ではなく、宗教的情熱によって正当化された宗教戦争であり、強欲な略奪戦争としか考えられません。
引用終了
神がかり的に敵を殲滅する発想は、現代のイスラエルに、そして一般のキリスト教徒の一部にも受け継がれているように思えてならない。
佐倉さんはこうおっしゃる、
「そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。」
カナンをパレスチナと置き換えれば現代のことのようだ。
旧約聖書における神の殺人命令を、「神が命じた聖絶です」と正当化したとしても、こうも書いてある。
「直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
モーセが命じたこの箇所をどう正当化するのだろう。
これはようするに、男を知らない女だけはあなたたちのために生かしておいて奴隷にするがよい、ということだろう。素直に読めば、戦ったイスラエルの民に戦利品として男を知らない女を与えるから好きにしてよい、と読める。
おぞましくなる。
それに、「男と寝ず、男を知らない女」かどうか、どうやって区別したのだろう。本人に聞いたって、本当のことを言うかどうかわからない。
イスラエルの男たちは、戦利品として拉致してきた女たちにひどいことをして確かめたのだろうか。
「聖絶」も平気なわけだから、かなりひどい調べ方をして殺すか奴隷にして生かすか区別したのかもしれない。
ますますおぞましいではないか。
しかも、「(戦いに出た者の分け前は)人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった」と書いてあるのだから、こうして手に入れた「男を知らない女」のうち32人は、いけにえとして神ヤーウェへの捧げものにされた、ということだ。燔祭(全焼のいけにえ=焼き尽くす献げ物)にでもしてしまったのか。
ユダヤ教の原理主義者にもキリスト教の原理主義者にも女性がいる。原理主義者の女性らはこうした聖書の記述を読んで気分が悪くならないのだろうか。こうした箇所さえ、「聖書は一字一句に至るまで誤りなき神の御言葉です」と正当化するのだろうか。
イエスは旧約の教えを克服した。否定したのではなく克服した。愛と平和の教えで旧約を克服することにより、旧約を完成させた、とも言える。
イエスが克服した旧約の教えを現代に当てはめようとする自称「キリスト教」・自称「福音派」には気をつけた方がいい。彼らも「キリスト教」の「福音派」を称するから、愛と平和を求める一般の福音派(原理主義でない福音派)が迷惑している。
「福音派」を自称する原理主義者、イスラエル支持者・好戦論者らに乗せられてはいけない。
(伊藤一滴)
ご参考1:永野牧師の見解
牧師泣かせな聖書箇所 エリコの大虐殺
http://blog.livedoor.jp/yokoya2000/archives/903398.html
「エリコの大虐殺」は別の話だが、神が命じた大虐殺の1つである。
ご参考2:一般のキリスト教会の見解は?
実は、旧約聖書に見られる虐殺や「男を知らない女」たちの奴隷化についての一般のキリスト教会の見解はほとんど見当たらない。注解書も、紙の単行本も、ネットの記事も、簡単に触れる程度で(あるいは無視で)、どう考えるべきかという深い考察に出会ったことがない。
数千年前の考えを現代人の思考で非難すべきではないという人もいるが、そんなことを言ったらイエスの教えだって2千年前の教えだ。それを現代に当てはめてどうこう言うべきではないという話になってしまう。
かつて私が出会った自称「福音派」の中に、イスラエルは神の命令によって「邪悪な民を聖絶した」と主張する人たちがいた。仮にそうだとしても、神の聖絶命令は乳幼児も容赦しない。乳幼児も邪悪な存在なのかと問うと「乳幼児に罪はないから彼らは天国に行ったのだ。そのまま大きくなったら悪事に染まって地獄に行くことになったから、幼いうちに聖絶されてよかったのだ」と答えた人もいた。では奴隷にされた「男を知らない女」たちはどうなのかと思ったのだが、そこまでは聞かなかった。たぶん、「彼女らはイスラエル人の奴隷になることで本当の神様に出会い、救いのチャンスを得た。だからよかった」といった答えが返ってきたのだろう。「アメリカの黒人奴隷は奴隷にされてよかった、奴隷にされずにアフリカにいたら本当の神様に出会うチャンスがなくて救われなかった」と言っていた「福音派」もいたのだから。
「邪悪な人間たちは抹殺してよい」「乳幼児は天国に行けるから一緒に抹殺するのはなおのことよい」といった考えは、恐ろしい考えだと思う。かつてアメリカ大陸に移住したヨーロッパ人による「インディアン」殺しや、パレスチナに移住したユダヤ人による先住者殺し(これは今も続く)と、どうも共通する考えに思えてならない。
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かつて私の両親は大変な宗教嫌いで、私が子どもの頃は、聖書を読んでいたりするとうんと叱られました。
以前も書いた通りで、私は「反宗教2世」として育ったのです。宗教2世の人たちの苦悩を聞きますが、反宗教2世だって大変でしたよ。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/08/post-bf35.html
宗教系の高校や大学に進学することも許されず、進路選択の幅も狭められました。
親の前では、宗教関係の話をしないよう、宗教関係の本などを見える場所に置かないよう、とても神経を使っていました。『毛沢東語録』とか『ゲバラ選集』とか読んでいても何も言われなかったのに、宗教だけは駄目って、変ですよね。
そんな私が、クリスチャン4世の彼女と付き合うようになり、結婚を決意したとき、さて、親にどう切り出そうかって悩みましたね。
彼女の側からの結婚の条件は、キリスト教信仰を妨げないこと(礼拝に行くことなども含めて)、子どもが生まれたら、その子が信仰を持つことを妨げないこと、この2つでした。
もちろん私は、即、了解しました。それどころか、彼女や子どもの信仰は、自分が盾になってとことん守るつもりでした。
彼女がクリスチャンであることを親に隠したってどうせバレるだろうし、だったら最初っから言っておこうと思って、「原理主義じゃないんだから、安全なキリスト教だから、キリスト教以外の宗教や思想を非難するような人じゃないから、進化論は間違っているとか言わないから・・・」と説明しました。
私の両親がどこまで理解したのかよくわかりませんが、結婚は認めてもらいました。
そして、結婚しました。善良な彼女ですから、彼女の言葉や行ないに接する中で、うちの親はキリスト教を悪く言わなくなりました。理屈で説き伏せたんじゃなくて、妻の日々の言葉や行ないが私の両親を変えたんです。
宗教嫌いだった私の父母は「教会のお墓に入ってもいいよ」なんて言うようになりましたし、特に母は、キリスト教関係の本をいろいろ読むようになりました。
三浦綾子、遠藤周作、最近だと、佐藤優とか。
佐藤優さんの本は・・・、どうかと思いますけど。(※)
今、88歳の母は老健(老人保健施設)にいます。新約聖書(新共同訳)を持ち込んで、頑張って読んでいるようです。
※佐藤優さんは聖書や神学に関して大変豊富な知識をお持ちです。キリスト教の雑学王みたいな方です。
しかし、その豊富な知識から理論を組み立てるとき、そういう理論の持って行き方でいいんだろうかと思うことが少なくありません。
イエスは1世紀のパレスチナで生きた人です。神殿を頂点にしたユダヤ教の支配、律法主義の支配、地方領主の支配、ローマ帝国の支配を肌で感じ、自分も庶民の一人として庶民の側から批判的な視点で教えを説いた人です。そのイエスをキリストだと信じる人が、どうして創価学会寄りになるのか、自公政権寄りになるのか、安倍晋三やトランプを高く評価するようになるのか、私には理解不能です。
それでも佐藤優さんは博識の人だから、その豊富な知識は私も参考にさせてもらっています。
(伊藤一滴)
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自民党の新総裁は石破茂さんになった。
ほっとしている。
高市早苗さんだったらどうなったろう。靖国神社参拝や戦前を美化するような歴史観の披露、タカ派の発言の数々等で、中国・韓国をはじめとするアジア諸国からの反発はもちろん、アメリカやヨーロッパ諸国からも警戒され、これまでの日本の外交努力が台無しになり、経済にも悪影響が出たかもしれない。
でも、考えようによっては、高市早苗首相のもと、公明党が政権から離脱する、自民党が分裂する、政権交代が起こる、となって、日本の未来のためにはよかったのか?
思えば、安倍内閣や菅内閣は、日本の民主主義を平気で踏みにじる内閣だった。岸田内閣になって、やっとまともな日本に戻った。だのに岸田さんは人気がない。
大衆なんて、そんなものだろう。大衆は深く考えることなく、社会を劣化させる政治家を選ぶ。長期的・総合的な展望を語る人より、今、威勢のいいことを言う人が人気者になる。
石破茂さんがクリスチャン4世なのも有名だ。日本基督教団の人で、信仰的にはリベラルな立場である。
石破さんはけっこう右派の面もあるけれど、筋は通そうとする人だ。無理を通して道理を引っ込め続けた安倍さんや菅さんとは違う。
血筋で人の価値が決まるわけではないが、石破さんは、新島襄の門下であった金森通倫(かなもり・つうりん、みちとも)の曾孫にあたる。金森は熊本の出身で、京都の同志社に受け入れてもらった熊本バンドの一人だ。
明治の初め、熊本洋学校に招聘されて教鞭を執っていたいたアメリカ人教師L.L.ジェーンズに影響され、多数の学生がキリスト教に入信した。これに旧守派が反発したこともあって、熊本洋学校は閉校になり、勉学の道を断たれた学生らは同志社に移って学びを続けた。彼らは熊本バンドと呼ばれている。この熊本バンドから、キリスト教界のみならず各界で活躍する人たちが巣立って行った。もちろん彼らはみな初代クリスチャンである。
血筋に関係なく優れた人が現れて活躍することがある。一方、先祖の志を受け継いで活躍する人もいる。これは、どちらもいる。
初代の人を「開拓者」と呼び、血筋などの縁故の人を「関係者」と呼ぶ人もいる。能力的な優劣はないと思うが、有利か不利かを言えば関係者の方が有利だ。関係者には家の理解や協力、人脈がある。資料や口伝もある。一方の開拓者はゼロからのスタートになる。だが、ゼロから始め、良き師らに出会い、うんと学んでその分野で大きく活躍する人もいる。
石破さんは政治家としてもクリスチャンとしても関係者(血筋の人)だ。だから駄目だとは言わない。先祖から受け継いだ知識も人脈も資料も有効に善用していただきたい。自民党の新総裁=新総理には、しっかりとこの日本と世界を見渡した上での長期的・総合的な判断を願う次第である。
(伊藤一滴)
追記(2024.10.7):就任前から即解散の表明なんて裏切りだという声もありますが、違法なことではありません。これはたぶん、旧安倍派の力をそぐためでしょう。自民党の最大派閥だった安倍派ですが、安倍派の議員、裏金議員、統一協会系議員って、けっこう重なってます。パーティー券収入のキックバックをなかったことにしたり、韓国の宗教カルトと裏でつながったりしながら、愛国者のような顔をするなよって言いたいです。愛国系議員か、売国系議員か、どっちなのか、国民は目を覚ましたほうがいいです。権力にすり寄って裏で卑怯な手を使い、表で威勢のいいことを言って大衆を煽るのは、真の愛国者のすることではありません。
反安倍派の村上誠一郎氏が入閣しましたね。やりますね、石破さん。この勢いで安倍派らを失脚させて、モリカケサクラの闇も暴いてほしいです。安倍晋三氏に近い人たちが何をやっても逮捕も起訴もされない闇も暴いてほしいです。彼らは図に乗ってやりたい放題でした。与党議員、警察・検察の幹部の誰がどう動いてそうなったのでしょう。
私は左派ではありません。虎の威を借りて卑怯な手を使う人たちが嫌いなのです。理屈の通らないことをやったり、言ったりして、批判されてもうやむやにしたり、力でねじ伏せようとしたりする人たちが大嫌いなのです。
追記2(2024.10.24):「石破茂さんに期待したい」というのは、自民党を応援しますという意味ではありませんからね。自民党の中ではわりとまともな石破茂さんが総裁になり、最悪の事態は避けられたのですから、今後、自民党が少しでも良くなるよう期待したいのです。自公の候補者に投票するつもりはありません。
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私は長くプロテスタントの長老教会の牧師を務めてきた。
長老教会だから、教会には信者から選ばれた長老たちがいる。知らない人が長老と聞くと高齢者をイメージするようだが、これは信徒の役職名であり、中には若い長老もいる。
私が牧会する教会の長老の一人は二十代の青年だ。彼は小さい時から教会に通い、熱心に聖書を学んできた。キリスト教系の大学を卒業し、今、母校の大学の付属高校の教員をしている。彼は知的で人格も優れ、みんなから好かれており、長老の一人に選ばれた。これまで誠実に教会に奉仕してきた。
ある時、彼が、「折り入ってご相談したいことがあるのですが」と言うので、牧師館に来てもらって二人だけで話をした。
「牧師先生、実は、僕、結婚したい人がいるんですが」
と彼は言った。
「その方は信者さんですか?」
と私は聞いた。信者以外と結婚してはいけないわけではないが、価値観がまるで違う人と結婚して破綻した例をいくつも知っていたからだ。
「はい、信者です。教会は違いますが」
と彼は言った。
「それはおめでとう。嬉しいです。キリスト教を信じて価値観を共有できる人とならうまくやってゆけるでしょう。ところで、その女性はどちらの教会の方ですか?」
「〇〇教会の人ですが・・・。先生、実は、相手は女性ではなく、男性です。今まで言わずにきましたが、僕は、どうしても女性を恋愛の対象として見ることができません。以前から僕の恋愛の対象は男性でした。これは、僕が持って生まれた資質なのだろうと思います。非難する人もいるでしょう。でも、生まれつきのことで非難されるのは、生まれつきの盲人が非難されるのと同じだと思います。今の日本では、法律上、同性同士の結婚が認められないので、事実婚のような形になるのでしょう。この教会で結婚式を挙げることは可能でしょうか? 祝福していただけますか? それとも、僕は、聖書に反する罪を犯したとして、教会から出ないといけないのでしょうか?」
予想外の言葉に私は驚き、返事に困った。以前からこの青年に接してきたが、彼のそうした性的な志向にはまったく気づいていなかった。答えなければならない。真剣に問う彼に答えるのは、牧師としての義務だ。だが、どう答えればいいのだろう。何か言わなければと思いながら、焦った。
「それは・・・。性的マイノリティーに関して、私も、どう答えればいいのか、すぐに言葉が出てきません。少し、時間をください」
やっとのことで、そう言った。私の声はうわずり、手が震えていた。そんな私とは逆に、彼は落ち着いていた。覚悟を決めて来たのだろう。落ち着いた声でこう言った。
「僕は小さい時から両親に連れられてこの教会に通ってきました。聖書は神様の御言葉であり、万物を創造された神様がおられることも、イエス様が救い主なのも、聖霊の働きがあることも、みな、僕にとって水や空気があるのと同じように自然なことでした。だから、教会で教えられたことを疑ったことはありません。先生はいつも、『イエス様は、弱い側、苦しむ側の味方です』って、おっしゃいますよね。だから先生を信頼して、まだ親にも言っていないことを打ち明けました。僕はまさに、苦しむ側なんです。イエス様は、そんな僕の味方ではないのでしょうか?」
しばらく沈黙が続いた後、私は彼に聞いた。
「ところで、相手の方の教会の反応はどうなのでしょう?」
性的マイノリティーついてどう考えるのか、教会により、牧師により、見解が分かれている。百八十度違うことを言う人もいる。
「詳しくは聞いていませんが、〇〇教会の〇〇先生は『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』という本をお書きになっています。たぶん、ご理解いただけるのではないかと思います」
「ああ、その本でしたら、私も読みました。全面的に賛成というわけではありませんが、学ぶべき点の多い本でした。〇〇先生はリベラル派の論客みたいに言われていて、保守派の中には非難する人もいますが、私は、苦しむ人たちに寄り添おうとする先生だと思いました」
また、しばらく沈黙が続いた。私は、神学校時代から今日まで、性的マイノリティーのことをどう考えてきたのだろう。彼に正直に伝えるべきだ。私は彼を見ながら言った。
「実は、最近までほとんどの教会は、性的マイノリティーなど教会内に存在しないかのような扱いで、カミングアウトした人を罪びとのように見なしたり、それは病気だから治療を受けて治すべきだと忠告したりしてきたのです。今でも、当教会だけでなく、キリスト教界全体として、性的マイノリティーにどう対応すべきか、統一の見解がありません。私が神学校で学んでいたのは一九八〇年代でしたが、当時、性的マイノリティーに関する授業はまったくありませんでした。当時は世間一般、性的マイノリティーに無理解な人が多く、同性愛者を笑い者にするようなテレビ番組や漫画もありました。外国人差別や部落差別は当時も非難されていましたが、性的マイノリティーに対する差別を非難する声は多くはありませんでした。エイズという病気の広がりが問題になっていましたが、薬物中毒者や同性愛者の病気と見なされ、この病気さえ嘲笑されることがありました。マザー・テレサが「エイズ患者に愛の手を」と呼びかけたとき、これはうちの教会員ではありませんが、「エイズなんて不道徳の結果なんだから、患者は自業自得でしょ。マザー・テレサは不道徳の味方なの?」と言っていたクリスチャンがいました。これもうちの教派ではありませんが、牧師の中にさえ「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きです」と言う人がいました。他教派であっても、そこまで言うクリスチャンがいることに、私は違和感を覚えました。しかし、違和感を覚えながらも、私は抗議の声をあげませんでしたし、性的マイノリティーの立場について深く考えることもしませんでした。私はこうした問題を避けたまま牧師になったのです。見て見ぬふりをすることで差別を是認し、差別に加担してきたと言われても仕方ありません。時代の状況とはいえ、私の怠りです。お詫びしなければなりません。これから、どう考え、どう対応すればよいのか、福音の光に照らし、祈りながら判断したいと思います。これまで私が言い続けてきた通り、イエス様は、常に、弱い側、苦しむ側の味方です。クリスチャンの中には、今も性的マイノリティーを罪びとのように見なして断罪する人たちもいますが、それは、取税人や遊女を罪びとだと断罪したパリサイ人や律法学者らと同様の発想だと思います。私は、そうした人たちには決してくみしません。イエス様の教えに従うならどうすべきなのか、よく考えたいのです。〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、もう一度じっくり読み直してみます。あなたがこれまで信仰を持って誠実に生きてきたのも、高校の教員として一生懸命仕事に励んでいるのも、教会のために頑張ってきたのも、私はよく知っています。あなたが持って生まれた性的な志向を非難などしませんし、教会から追放したりしませんから、安心してください。ただ、もう少し、考える時間がほしいのです」
(伊藤一滴)
性的マイノリティーの方々の苦しみについて、いろいろと話は聞いていますが、上記は創作です。実在の団体や人物とは一切関係ありません。
私、一滴は牧師ではありませんし、神学校で学んだ経験もありません。聞いた話からの想像です。
「教会の長老を務めるくらい優秀な青年」ということで長老教会としましたが、特定の教会のことではありません。実際の長老派系には幅があり、内部にはさまざまな見解があるようです。
〇〇先生の『LGBTQプラス 教会はどう対応すべきか』も、架空の本です。どなたか、こうした本を書いてくださればいいのに・・・。
2024.9.21付「キリスト新聞」の同性愛に関する記事に触発されて、思うことが湧きあがり、上記の話を一気に書きました。プロテスタント教会内の一部の心ある方々が発した問いへの、私なりのオマージュでもあります。
掲載後もいろいろ思いが湧いてきて、何度か推敲しました。
性的マイノリティーについての議論が深まることで人権意識が高まってくれればいいのですが、議論する人の中にはかなり差別的なことを言う人もおり、議論が当事者をより苦しめたりすることがないよう願っています。
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翻訳された旧約聖書の創世記によれば、最初の女は、人(男)のあばら骨からつくられたという。
創世記の2章21~24節にこうある。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
(新共同訳)
ずっと、「あばら骨」とされてきたし、私もそう書いてあると思っていた。
だが、これは「陰茎の骨」と訳すべきだとする説があるのを最近知った。
世に多数出回っているフェイクの珍説の1つではなく、ちゃんと学問的に検討された説である。
https://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-3377487/God-Eve-Adam-s-PENIS-not-rib-claims-religious-academic.html
(英文)
もしこの説が本当なら、あばら骨と訳したのは、紀元前の七十人訳以来延々と続いてきた誤訳の踏襲ということになる。
動物学に詳しい人以外はあまり知らないと思うが、多くの哺乳類は陰茎に骨を持っている。陰茎骨という骨である。(実は、私も最近まで知らなかった。)
哺乳類には陰茎骨を持つのと持たないのがおり、ヒトにはない。
また、ヒトの男性器の裏側にはまるで肉をふさいだかのような筋もある。(※注1)
※注1:この筋は、胎児のときのなごりらしい。初期の胎児は外見では性別がわからない。女児は女性器が形成されてゆくが、男児はその部分が閉じてゆく。この閉じた痕が筋となって残るのだという。
創世記の「あばら骨」と訳されてきた語を陰茎骨という意味にとれば、ヒトの男性の特徴と一致する。
古代人は食肉解体などをする中で、陰茎に骨を持つ動物が多いことに気づいていたのだろし、戦で敵を倒した証拠に陽物を切り取って持ち帰れば、そこに骨がないことにも気づいたろう。(※注2)
※注2:生殖器を性別にかかわりなく陰部と呼ぶが、男性の生殖器に限り陽物(ようぶつ)とも呼ばれる。
陰部と陽物では意味が正反対だと思うが、普段は隠しておく部分という意味でどちらも陰部と呼ぶのだろうか。
創世記は、「主なる神は人の陰茎から骨を取り除き、その跡を肉でふさぎ、その骨を使って女をお創りになった」と言っているのかもしれない。
そして、これは私の想像だけれど、「男は、もともと自分の陰茎骨であった女を求めるのだ」、「男は自分のその部分を女と合体させたいと思うのだ」と言っているのかもしれない。
私のこの想像が当たっていれば、これはおおらかな古代人のたわいもない話に由来する神話だ。古代人はおおらかで、男女の性をダブー視などしていなかった、ということだろう。
人類の発生の史実などとは何の関係もない話だ。
ただ、おおらかな神話とはいえ、人(男)の陰茎骨から女が出来たというのは、あまりにも男性本位の考えに思える。
創世記の初めにある創造の話を素直に読むと、まるで天地創造が2回あったかのように読める。
これは、近代の聖書学が明らかにした通り、2つの異なる伝承をつないでいるからである。
創世記1章1節~2章4節前半はP伝承(祭司伝承)による創造物語であり、2章4節後半~4章26節はJ伝承(ヤーウェ伝承)による創造物語である。
P伝承だと「神は男と女をお創りになった」のであり、男女に上下関係はない。
J伝承だと「主なる神はご自身の似姿として人(男)をお創りになり、そのふさわしい相手として彼の骨の一部(陰茎骨?)から女をお創りになった」という意味になる。これだと神の似姿であるのは男であり、女はその相手、男に従属する者、ということになる。
創世記の初めから、聖書は矛盾する。
ここからまた、私の想像だ。
創世記の編集者は、当時、矛盾しあう両論があることを知っていて、あえて両論を載せたのではなかろうか。そして、「男女は対等なのか」それとも「男に従属する者として女がいるのか」、どちらなのか、未来の人に判断を委ねたのではないか。
人類の歴史の中で、長く、多くの場所で、「男に従属する者として女がいる」扱いであった。これは今も、完全には解消されておらず、「はて?」と言いたくなる現実がある。我々は今も創世記から問われている。
福音書が記すイエスの発言を素直に読むなら、男女は対等と読める。
例「イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』」(マタイ19:4)
パウロはロマ書の末尾で、多くの人の名をあげて謝意を示し、よろしくと言っているが、そこに女性が何人も含まれており、男女を分け隔てしていない。
別の個所でパウロはこうも言う、
「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)
同じパウロが、極度の女性差別者とは考えにくい。パウロ書簡に見られる女性差別的な記述の数々は、後に別人によって書き加えられた可能性もある(バート・D・アーマンによる)。
補足
チンパンジーなどのサルの仲間と人類は共通の祖先から分かれており、遺伝子も近い。別れたのは今から500万年~700万年前と考えられている。俗に「人間はサルから進化した」と言われるが、「人間とサルは共通の祖先を持つ」と言うのが正確だ。祖先は同じでもそれぞれ別の進化を遂げているので、現代のチンパンジーが今から何百万年も経てばヒトになるということではない。
チンパンジーなどのサルの仲間は陰茎骨を持つ。だが、ヒトにはない。ヒトは進化の過程で陰茎骨を失っている。ヒトに進化したグループは一夫一婦制を基本とし、1匹のメスを多数のオスで奪い合うことがなくなり陰茎骨が不要になったと考える人もいる。(骨があることで入れやすく抜けにくいようだ。メスを奪い合う動物には必要でも、ヒトには不要になったのだ。)
今日、プロテスタントの主流派(リベラル)やカトリックの信者が進化論を否定することはまずない。エキュメニズム派とも呼ばれる彼らのほとんどは、「生物の発生も進化も神様の働き」と考えている。この考えだと、ヒトが進化の過程で陰茎骨を失ったのも神様の働き、ということになる。つまり、「神様はヒトから陰茎骨を取り除いた」と言える。そして、「神様は男にはふさわしい女を(女にはふさわしい男を)与えてくださるのだから陰茎骨などいらない」と考えることもできる。
(伊藤一滴)
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米が不足していると報道されています。
たしかに、米の産地である山形県の田舎町でさえ、お店のお米売り場が空っぽだったり、一人一点と購入制限がついたりしていました。
稲作をしている私にも問い合わせが来ていますが、もう自家用分しか残っていません。
私も、昨年は暑すぎて(そして、私の場合は高齢の父母に手がかかって田の管理がうまく出来ないこともあって)、思うように米ができませんでした。今年もかなり暑いので、高温障害にならないように9月になっても水を入れて田面を冷やすなど、かなり気をつけています。でもこれ、やり過ぎると稲刈りの時期になっても田んぼが乾かなくなって泥まみれの稲刈りになり、機械のスタックなども起きて苦労するでしょうから、いつまでどれくらい水を入れるか加減が難しいです。
昨年の猛暑による全体的な米の品質低下、インバウンド需要などによる米の消費拡大、南海トラフ地震を警戒しての米の買い置きの広がりなど、複合的な原因で米が店頭から消えてしまったようです。
我が国の主食はお米です。
だのに米の生産はお金にならず、稲作農家は報われていません。
年によって米価の変動もありますが、農協は農家から玄米1俵(60キロ)を1万円強くらいで買い取っています(1万円を割った年もありました)。
でも、玄米1俵を生産するのに、およそ1万円かかるのです。大量に生産すればもう少しは安く作れるのでしょうが、どうがんばってもかかるものはかかり、限度があります。
稲作がメインの農家は、何十ヘクタールという広大な田んぼで、家族総出で作業して、サラリーマン1人の年収くらいになるのでしょうか?
いろいろ補助金が出るから何とか生活できても、米を売って得られる収入だけでは食べていけません。(農家は補助金で潤っているみたいな話は非農家が語るガセネタで、何とか生活しているのが実態です。)
特に零細農家の稲作の場合、ほぼ無給です。零細農家の多くは兼業か年金生活者です。農業以外の収入や年金で生活し、農機具が故障すれば貯金を切り崩して修理したり中古の機械を買ったりしながら、収益にならない米を生産しているのです。
主食の生産がそんな状態でいいのでしょうか。
日本の米は高いと言う人がいますが、他の食品と比べて、決して高くはありません。
今、国民1人当たりの米の消費量は年間約60キロだそうです。
この60キロの米を、農家は約1万円で出荷し、消費者は少し前まで2万円~数万円で買っていました。
たとえば、60キロの米を2万2千円で買ったとすれば、1日あたり約60円です。1食あたりじゃありませんよ。1日あたりの米代が約60円です。
パン、麺、おかずの値段を考えたら、あるいはお酒の値段を考えたら、1日あたり60円の食糧の支出を高いと言えるのでしょうか。
私は、倍でもいいと思います。
農家から玄米1俵(60キロ)を2万円以上で買い取り、消費者には4万円以上で売る。
あるいは、赤字を政府が補填する形で、2万円以上で買って消費者に1万5千円~2万円で売ってもいいんです。
赤字分は安全保障費です。主食の安定供給も我が国の安全保障ですから。
これまで与党政治家は、国の安全保障は軍事面しか考えてこなかったのではないのですか。
アメリカと同盟関係にある、最新鋭の武器弾薬もある、訓練された自衛隊員も十分にいる、だが米がない、外国の食料も入ってこないなどという状況になったら、国の安全保障は0点ですよ。
大農家は家族総出の重労働、零細農家は無給労働、農業離れが進み、農山村は荒廃してゆく。
日本のカロリーベースの食料自給率は38%(2023年度)。
そんな状態でいいのでしょうか。
(伊藤一滴)
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新約学の荒井献(あらい・ささぐ)氏が本年8月16日に逝去された。
氏はキリスト教の信仰を表明しておられた方だから、「ご冥福をお祈りします」などとは言わないが、氏の御霊の平安をお祈り申し上げる次第である。
私は1980年代、荒井献著『イエスとその時代』などを読みふけっていた時期がある。
一つの時代が去ったように思う。
明治、大正、昭和の初め、内村鑑三らの活躍があった。
内村鑑三門下の塚本虎二や黒崎幸吉らは、戦前に新約ギリシャ語を学んで原語での研究に向かって行った。
塚本虎二門下の前田護郎はヨーロッパで学び、戦後に東京大学文学部西洋古典学科の主任となった。
この西洋古典学科から、佐竹明はじめ、荒井献、田川建三、八木誠一、川村輝典などの、錚錚たる新約学者らが巣立って行った。
佐竹明、川村輝典は牧師になった。牧師であり研究者でもあった。
荒井献、田川建三、八木誠一らはそれぞれキリスト教主義の大学(俗にミッションスクールと呼ばれる大学)で教鞭を執っておられたが、それぞれの「キリスト教主義」と対立して去って行かれた。
(それにしても、超一流の新約学者がいられなくなる「キリスト教主義」って、何だろうね。)
こんなことを言う人はあまりいないと思うけれど、
「荒井献と田川建三って、手塚治虫と水木しげるに似ている」と思う。
それぞれ、超一流なのだ。
優れた本を出し、発言し、世に影響を与え、そして近親憎悪のように対立した。
荒井献は多くの門下生を育てた。思いつくまま挙げても、青野太潮、大貫隆、小河陽、佐藤研、土岐健治・・・らがいる。手塚治虫が多くの門下を育てたのと似ている。
一方、田川建三門下の新約学者って、いるんだろうか。水木しげる門下の著名な漫画家は思いつかないが、似ている。
ある分野を極めた人に、多くの弟子を育てるタイプの人と、育てないタイプの人がいるようだ。
もう一点、これも、こんなことを言う人はあまりいないと思うけれど、
「一流の聖書学者たちは宣伝が下手だ」と思う。
学問的な水準が高いのだから宣伝など必要ないと考えているのだろうか。
また、聖書学者らの見解を前提に思考するリベラル派の諸教会も、ひじょうに宣伝が下手だ。
それに対し、福音派系、中でも「福音派」を自称する原理主義者らは宣伝がうまい。近年はインターネットを使って盛んに発信もしている。
実際は、プロテスタントの主流はリベラルであり、近年はカトリックもリベラル寄りになってきている。両者はエキュメニズム派とも呼ばれ、学問的な水準も高いのだが、世間一般はガンガン宣伝を流す方を主流だと思ってしまう。
福音派系は全部駄目だなんて思わないが、原理主義の広がりは困る。
一般の(原理主義でない)福音派は、福音派の理念をしっかり宣伝し、伝えてもらいたい。
私は、最近出た本の中で、福音派の牧師である藤本満氏の著書『LGBTQ 聖書はそういっているのか?』(2024.8.5)が気になっている。福音派の理念に立つ良識と愛の心を感じる本だと思うのだが、案の定、自称「福音派」(あるいはカルト)と思える人たちがこの本に噛みついてきた。やはり、と言うか、どこまでもイエスの姿勢に背を向ける「福音派」が一定数いるようだ。
自称「福音派」からの妨害があっても、まっとうな福音派は、きちんと聖書の理念を伝えてもらいたい。福音の光に照らして聖書を読むなら、性的少数派の人たちのことをどう考え、どう接するべきなのか、イエスの姿勢に倣ってきちんと伝えていただきたい。
(藤本満先生、この本を出していただきありがとうございました。)
宣伝など必要ないという考えもあるだろう。だが、検討した結果正しいと考えられる見解を広めるのは啓蒙でもある。
聖書学者の方々は、難解な論文だけでなく、素人にもわかりやすい入門書も書いていただきたい。(田川建三著『イエスという男』など、良書。)
キリスト教の宣伝は宣教(伝道)でもある。リベラルな見解の諸教会も、わかりやすく宣伝していただきたい。
イエスが命をかけて始めた教え、弟子たちや代々の信徒らが命をかけて伝えてきた教えを、このまま衰退してゆく宗教にしてはいけない。
(伊藤一滴)
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たまたま「YAHOO!知恵袋」で以下を見つけ、とても興味深く読みました。
引用します。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/28 7:57
15回答
福音派のクリスチャンは、どうして過激なのでしょうか?
昨日、久し振りに学生時代の旧友に会ったのですが、その友人は以前からクリスチャンだったことを知っていたので、自分も昨年洗礼を受けたことを伝えました。
いろいろ話をする中で、私の教会が福音派であることを知って、福音派って過激だと言われて驚きました。でも、いろいろ友人の話を聞くと、思い当たることも多く、世間一般の教会やキリスト教のイメージとは違うように感じています。
排他性に関して、いろいろ言われたのですが、他宗教に対して決して寛容ではないですし、礼拝の説教では、寺や僧侶の悪い点をあげつらうようなこともあって,他者を裁いていると言われると、そうだなあ~とも感じています。
アメリカでは、銃規制に反対したり、前トランプ大統領の支持層も結構保守的で閉鎖的な側面があると思っていたのですが、前トランプ大統領を支持して多くが福音派だということも知りました。
今まで意識したことがないのですが、福音派というのは、特異なクリスチャンなのでしょうか?一般のクリスチャンのイメージとは違うのでしょうか?
補足
いろいろなコメントをもらって考えさせられています。
福音派に対して、ネガティヴな捉え方をされる現実がある、ということを知ることはとても大切だと感じています。それとともに、原理主義に陥ることなくキリスト者であることも大切だと思い始めています。
一般の福音派と違って、原理主義者の特徴として、
・進化論を否定して創造論を主張。ヒトが成人として神の言葉によって瞬時に出現したと主張する
・高等批評を受け入れない。原理主義者は頭ごなしに非難して拒否して、高等批評を受け入れない
・信仰や生活に関して、すべてを聖書に根拠をもとにしようとする。
昨晩から、知人のアドバイスや自分で調べた結果、創造論、高等批評の拒否、そして聖書の絶対化の3点が、原理主義者の特徴ではないかと思いますが、如何でしょうか?
福音派は、進化論を否定しません。また高等批判に関しても福音派は頭ごなしに非難して拒否するようなことをせずに学術的な成果に関して、しっかりと向かい合っています。そして聖書の絶対化をせず、聖典として信仰の原点として捉えています。
付け焼き刃のような知識ばかりですが、この3点に集約出来るでしょうか?
引用終了
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14271673489
質問者は、一般の(原理主義でない)福音派の方ようです。
答えがたくさん出てきます。
中には「この人は原理主義者だな」と思える人の回答も載ってます。
原理主義者らしき人との「対話」はどこまで行っても不毛です。彼らは自分たちの「信仰」を絶対と信じ、一切妥協しません。読んでいると、まるで世界の頂点に自分たちの考えがあるかのような価値観です。
我々は、万物の創造主である神を、聖書に書いてある通り正しく信じている。だから、我々は神の側である。神の側であるある我々は、すべての上に立つ。みたいな価値観です。すごいな、それ。
そんなことは言っていないって言われそうですが、直接そう言わなくても、発想も思考もそうなってます。
「自分たち中心主義」なんですよ。彼らにすれば「他はみな間違いか不完全」なんですから。
そういう価値観なので、カトリックは間違い、高等批評も自由主義も間違い、リベラル派も間違い、福音派の中の穏健で対話的な教会まで、リベラルの影響下にあるから間違いか不完全、となるようです。
そうやって、自分たちの絶対的な正しさを披露しながら、問い詰められて答えられなくなると出て来なくなるのも原理主義者らの特徴です。そしてまた別の場で自分たちの絶対的な正しさを披露するのです。そのやり方は陰謀論者と似ています。
上記の質問にこのような的を得た回答がありました。
紹介します。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/30 7:48
>福音派というのは、特異なクリスチャンなのでしょうか?
福音派なら、何でもかんでも特異というわけではないです。穏健な福音派もあれば、過激な福音派もありますので、おそらく、その旧友は過激な福音派のことを思い描いているように思います。少なくとも質問者の教会や質問者自身は、過激ではないでしょう。
過激な原理主義者は、そもそも他者(メインライン)の言葉に耳を傾けないです。原理主義者は排他性が強いので、自分達の主張と異なれば、攻撃的になったり排除しようとします。質問者は、逆に自省の方向に働いていますし、自分たちの欠点を認めようとしています。過激派は、自己正当化が最優先ですが、質問者は、自己正当化をされようともしません。過激的ではなく、原理主義者ではないです。
原理主義者は、とにかく自己正当化、自己防衛をして、他者に攻撃的です。そして何よりの特徴が「聖典」を拠り所にして絶対化します。キリスト教原理主義者は、聖書を絶対化して、生活や信仰の拠り所を聖書に求めます。
もちろん聖書は聖典で大切なのですが、聖書至上主義に陥るのが原理主義者の特徴です。
福音派のすべてが、原理主義ではないです。ただ原理主義を包含しているということです。穏健な福音派も少なくないです。むしろ日本では穏健な福音派の方が多いように感じます。
引用終了(変換ミスは訂正)
同じ方がこうも書いておられます。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/30 17:16
補足を見ました。
原理主義者と福音派との線引きは難しいです。原理主義者も福音派も、同じ聖書主義を標榜しています。そして、生活や信仰の拠り所を聖書に求めるのは、原理主義者と福音派だけではなくて、カトリックも、メインラインも同じです。程度の問題で、きれいに線引きは出来ないでしょう。
進化論を否定するのは、まあ原理主義者と捉えて良いと思いますし、高等批評を非難・否定するのも原理主義者の特徴です。少なくとも穏健な福音派は、進化論を否定することはしませんし、高等批評は評価して、否定することはないです。
3点目は、聖書主義が高じて聖書至上主義に陥ると原理主義ですね。
引用終了
原理主義も含めて福音派とする考え方もありますが、私は、原理主義者と福音派は分けて考えた方がいいと思います。
上記引用にもある通り、「原理主義者と福音派との線引きは難しい」のです。重なる部分もありますし、中間的な人もいます。原理主義者の教会は「福音派」を自称し、福音派の団体に加盟していたりもします。
中間的な立場でも、原理主義系か福音派系か、どちらの色が濃いかはあるようです。原理主義者と福音派は、一番大事だと考えていることがまるで違うので、目ざす方向が違ってきます。
福音派が一番大切にするのは、「神を愛し、イエスの教えに従い、他者に愛の心で誠実に接すること」です。
私もイエスの教えに従いたいと思っているので、実は、福音派の人たちと対立はしていません。私だって人に配慮はするので、福音派の人の前で福音派が不快になるようなことは言いません。相違点より共通の課題を求めます。福音派の人と話をしていると楽しいです。一緒に食事に行ったり、家に泊まってもらったりしたこともあります。食前の祈りが長いのには参りましたけど。(冷めちゃうよ。)
原理主義者も自分たちを「福音派」と自称しますが、一般の(原理主義でない)福音派とは違う人たちです。原理主義者が一番大切にするのは、「聖書は絶対であり、一切矛盾はない」信じ込み、この「正しい教え」を守るために異なる考えを否定し攻撃することです。聖書の言葉をもとに自分たちの解釈で規則や禁止事項を作って人を縛ったりします。これは現代の律法主義です。律法主義の克服を説いたイエスの教えと方向が正反対です。
彼らは、実に、独善的・排他的・攻撃的・不寛容な人たちです。だのにその認識がありません。狭い世界のごく限られた教会の教えしか知らず、少しでも違うと「それは間違っている」と考えます。自分たちが間違っているかもしれないとは思いません。自分が他者を傷つけたり、不快にさせたり、対立を起こしたりしている張本人なのに、自分に原因があるという認識もありません。非難されても、「私は正しい聖書信仰に立つ福音主義だから弾圧されている」と考えるようです。「弾圧」や「迫害」といった、大袈裟な言葉が好きです。禁教下の殉教者じゃあるまいし、誰もキリスト教の信仰を弾圧などしていないのに。あなたの、その、視野の狭さや事実に反する思い込み、あまりにも不遜な言行が非難されているのに。
進化論否定も、私は、事実に反する思い込みの1つだと思います。
でも、これは私から補足しますが、進化論に否定的なクリスチャンはみな原理主義者というわけではありません。
心優しく善良なクリスチャンの中にも進化論に否定的な方がおられますから、進化論を認めるか否かを踏絵にはできません。
傾向として、「進化論否定論者の多くはキリスト教原理主義者」と言えると思いますが、必ず当てはまる基準ではありません。
高等批評(近現代の歴史的・批判的な視点からの科学的な聖書学)に対しても、同じことが言えます。
それより「カトリック教会をどう思うか」「エキュメニズムをどう思うか」を聞いて、否定的な答えなら原理主義者でしょう。
あとは、これも私からの補足ですが、教派名や教会名だけでレッテル貼りはできない、というのもあります。同じ教会に保守的な人もリベラルな人もいたりします。
福音派に所属しているが考え方がリベラル寄りの人、主流派(メインライン、リベラル)に所属しているが考え方が福音派に近い人、いますよ。
自由度が高い教派・教会だとそうなるのでしょう。
みんなが公式見解どおりのことしか言わない教会だったら、そっちの方が怖いです。思想統制が徹底し、そこにいられない人は出て行ったのでしょう。
あの教派、あの教会の所属だからこう、ではなく、その人がどういう人なのかが大事だと思います。
(伊藤一滴)
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信仰継承。
この言葉を好んで用いる人たちがいるけど…。
まあ、私の妻もクリスチャン4世だから、明治時代からの信仰が継承されてきたわけだけれど、でもそれは、強制されてきたのではなく、ゆるいから、そのゆるさゆえ受け継がれたのだと思う。
(妻も、妻の両親や親戚も、たしかに、ゆるい。)
もし、やたら厳しいことを言う教派だったら、そんなに長く続いたろうかと思う。
信仰継承という言葉を好んで使う人たちは、継承の名のもとに、子どもに信仰を強要していないだろうか。
それが「信仰という名の虐待」になっていないだろうか。
以前、私がお世話になった先生の1人は、
「私自身はキリスト教の信仰を持つ者ですが、自分の子どもも含めて誰に対しても信仰の強制などしません。そもそも信仰は強制できるものではありません。もし誰かが強制されて信じるようになったとしても、それを信仰とは言いません」
とおっしゃっていた。
「旧約聖書に出てくるアブラハム以前の話はすべて創作された物語です」とおっしゃっていた方だ。もちろん先生は熱心なクリスチャンで、長年、キリスト教主義の立場で教育に尽くしてこられた方だ。保守的な福音派からは「リベラル派」と見られていた人だが、批判を恐れずに筋の通った主張をする人だった。
(「リベラルになると信仰がダメになる」と信者に教えている牧師がいると聞いた。信仰がダメになるなんて、よく言うよ。そんな教会からは離れた方がいい。でないと自分がダメになる。福音派にもリベラル派にもカトリックにも誠実なクリスチャンが多数おられる。だが、自称「福音派」の原理主義者らの中にまともなクリスチャンを見たことがない。信仰がダメなのは「聖書を文字通り信じます」などと言いながら聖書の言葉で人を脅すだけで愛の心が欠けた原理主義者らのほうだ。)
宗教2世、3世の問題には、いくつかパターンがあるようだ。
その教派に問題がある場合
その家庭に問題がある場合
どちらにも問題がある場合
その他
教派の問題なら、その教派を抜ければよい。
だが、家庭に問題がある場合、その家の子は経済的に自立できなければ抜けられない。
また、教派を抜ければ、家族と絶縁することになる場合もある。
たまたま、運の悪い家庭環境に生まれてしまった、ということなのか。
宗教2世、3世の問題は、毒親の問題と似ている。
そういう家に生まれたら最後、大人になって家を出るまで、抜け出すのは難しい。
生まれる家は選べない。
親ガチャ、家ガチャか。
そういう生まれの子がどうすることがよいのか、私にも妙案はない。
ひとまず、耐えて、相談できる人を見つけ、抜け出す機会を待つしかないのか。
だが、抜ければ、その先は、家族と絶縁になるかもしれない。
私は逆だった。
宗教を強制されたことはない。
だが逆に、反宗教を強制された。
「宗教はすべて悪いものだ。すべての宗教は、金儲けや支配のために人間が作りだした架空の教えに過ぎない。宗教は人をおかしくする。宗教は、信じる人の心を支配し、正常な判断力を奪い、ひたすらぼったくる。特に、障害者や病人、またその家族や、困難な状況にある人たちが狙われる。宗教は人の弱味、苦しみに付け込んでくる。宗教は悪だ。宗教に関わってはいけない。宗教系の学校に進んではいけない。宗教にだまされてはいけない」
そんなふうに、小さいときから、親に言われ続けた。
小学生の頃、聖書を読んでいるのを見つかってひどく叱られた。だから、隠れてこっそり読み続けた。
テレビで放送していた「十戒」とか「ブラザーサン・シスタームーン」とか見ていたら、また怒られた。「そんな宗教色の強い映画は見るな。そんなのを見ていたらおかしくなる」と言われた。
私は宗教2世ではなく、「反宗教2世」だった。
(「反宗教2世」の苦悩やトラウマも、もっと語られていいのではないかと思う。)
私は、親に反発するように、隠れて、ひたすら聖書を読んだ。
親が勧めれば子どもはそれをするようになる、とか、親が禁止するとしないようになる、とか、そんな単純な話じゃない。
我が家が「反宗教」であったことが、かえって私を聖書に向かわせた。
また、学生のとき、「正しい聖書信仰に立つ福音主義」や「教派ではなく純粋なキリスト教」の人たちに取り囲まれ、「あなたの聖書理解は間違っています」と詰め寄られて、やたら絡まれた。
それ以前に、福音派の牧師先生や信者さんたちからお世話になっていたから、そうした感じの人たちなのかと思って話しかけたらまるで違った。
彼らはイエスの側ではなく、イエスの敵だった。イエスが何を伝えようとしたのかより、聖書の言葉をつぎはぎして作った人間のイデオロギーを上に置く人たちだった。そして、自分たちが作った教えの奴隷になっていた。
そういう人たちから何度も絡まれ、福音派の信仰は道を誤るとあんな風になるのかと、私はかなり腹を立てた。反発した私は、反論のためもあって歴史的・批判的な聖書の学びに向かった。
今思えば、彼らはまっとうな福音派ではなく、「福音派」を自称する原理主義者・カルトであったのだが、そういう人たちの存在を知り、いい勉強になった。
どこかで気づいて目を覚ましてくれるといいのだが、目を覚まさないまま親になったら、宗教毒親になるのだろう。
宗教であれ、反宗教であれ、子どもに強要するのはやめてもらいたい。子どもは別の人格だ。親の所有物ではない。
どうも、「この教えだけが唯一正しい」とか「この教え以外に救いはない」とか信じ込んでいる人たちが、自分たちの信念を強要してしまうようだ。
(伊藤一滴)
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私自身はクリスチャンホーム出身者ではありませんが、子どものときから聖書に親しみ、多くのクリスチャンと付き合ってきました。
それに、私の妻は、クリスチャン4世です。妻のように1960年代生まれの人で4世というのは、あまりいないんじゃないかと思います。妻の家系の初代の信者は明治時代の船乗りで、海外の港町でキリスト教に出会い、信仰を日本に持ち帰ったんだそうです。信仰は2世、3世、4世と受け継がれ、妻の実家も親戚一同もみなクリスチャンです。
妻から聞いた話を中心に、これまで耳にしたクリスチャンホーム出身者の「戸惑い」を紹介します。
日本の風習、慣例、常識、不文律といったものに疎い。
特に、仏式、神式の冠婚葬祭の作法がわからない。御祝いや御香典の書き方や渡し方もわからない。
四十九日が何かわからなかった。
神道の人の遺族に「御仏前」と書いて渡してしまった(「ありがとうございます」と受け取ってくれて、別に変な顔はされなかったけど)。
友だちが、七五三や初詣などの話をしていても、自分に経験がないから話について行けない。
旅行土産の「お守り」などを貰っても、どうしていいのかわからない。
大安とか仏滅とかの話について行けない。
お盆が何だかまったくわからなかった。夏休みを集中させない方が混雑しなくていいのにと思っていた。
仏教や神道にも聖書のような正典があって、檀家や氏子は日々その正典を読み、お祈りしているのだと思っていた。
日本人一般の共通認識がわからず、自分が外国人のようだった。
なんか、笑える話もあるんですが、当人たちは、けっこう戸惑ったみたいです。
妻の家は、リベラルな教会の信者だから、「うちはキリスト教なもので、よくわからなくてすみません」で済むんでしょうが、原理主義信仰・カルト信仰の家の出身者だと、かなり大変だと思います。
「仏教も神道も間違いです。偶像崇拝です」みたいなことを言っていたら、いろいろトラブルになるでしょう。
原理主義者やカルト信者も、初代はまだ、信者でなかったときの経験があって、どっかで誤魔化したり妥協したりしてるんでしょうけれど、信者でない経験を持たない2世、3世は本当に大変みたいです。
親は、自分もできないような独自の理想を子どもに刷り込むのです。子どもは誤魔化しも妥協も知らないから、できないことを純粋に信じ、本気で実践しようとして、結果、心を病む人や、キリスト教を拒絶する人も出てくるのでしょう。現代の律法主義を強要する毒親ですね。
イエスの教えは律法主義の克服だったのに、そのイエスの言葉やパウロの言葉などをつなぎ合わせて、新しい律法のような規律を作って強要する人たちがいるんです。それって、完全に、イエスの教えの否定です。
「イエス様を信じます」って言って、自分たちが独自に創作した「イエス様」を崇める偶像崇拝の一種になっています。
「クリスチャン2世 つらい」で検索するといろいろ出てきます。
どうも、多くは、自称「福音派」(原理主義信仰・カルト信仰)みたいです。
エホバの証人や統一協会の2世の苦悩と似てます。
私の妻や妻の家族(リベラル、かつ、寛容派)みたいに、笑い話で済めばいいんですけれど。
ネットでキリスト教関係を見ていると、いったい世には、どれくらいの種類のキリスト教を名乗る宗教があるんだろうって思えてきます。
教会の数だけ?
信者の数だけ?
それぞれ、言ってることがバラバラ。
どれもキリスト教を名乗るけど、それぞれ別の宗教を信じてる?
(伊藤一滴)
追記:キリスト新聞のホームページを見てたら、どうも、クリスチャン2世の問題は、かなりあるようです。
https://www.kirishin.com/2023/01/11/58089/
これは、特定の教派だけの問題ではないようです。
グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。
ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)
過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html
以前、私は、ヘブル書には贖罪説が出てこないという意味のことを書きましたが、まったく出てこないわけではありません。私の勇み足でした。すみません。
ヘブル書は十字架の意味を「あがなうため」より「なだめるため」としている。と、訂正します。
ヘブル書では、十字架のあがないよりも、十字架によるなだめが前面に出てきます。
次の訳は不適切です。
2:17そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(ヘブル人への手紙 口語訳)
2:17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。(ヘブライ人への手紙 新共同訳)
ギリシャ語の、εἰς τὸ ἱλάσκεσθαι τὰς ἁμαρτίας τοῦ λαοῦ をどう訳すかです。
英訳も見てみましたが、欽定訳が「民の罪の和解のために」という意味に、RSVが「民の罪をあがなうために」という意味に訳していました。
この箇所のギリシャ語の文は、「なだめるため」とすべきでしょう。(田川建三訳参照)
口語訳やRSVのように「民の罪をあがなうために」としたのでは意味が違ってしまいます。意訳のしすぎです。
この箇所は、田川訳もそうですが、新改訳もみごとに訳しています。
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル人への手紙 新改訳)
この箇所の新改訳の訳文は実にみごとです。
「民の罪のために、なだめがなされるため」と正確に訳しています。
また、「みまえ」も原文にはなく、「神のことについて」ですから、新改訳が正確です。
「あがなうため」と「なだめるため」では、ずいぶん意味が違います。
ヘブル書の著者は旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)をかなり読んでいたようで、旧約からの引用が多く、それもほとんど七十人訳からです。
著者は、旧約を念頭に、「イエスは自らを、神に対し、民の罪のための宥めの供え物とした」と考えたのでしょう。
原文から逸れて意訳された訳文を根拠に「ヘブル書も贖罪説を強調している」なんて言えません。
この箇所もそうですが、新改訳はときどき、はっとするくらい見事に訳しています。どうせ福音派の訳だろうと低く見る人もいますが、とんでもない。中には口語訳や新共同訳より遥かに優れていると思える訳文も見られます。
(逆に、口語訳、新共同訳が優れていると思える箇所もありますから、読み比べてみるといいと思います。)
(注)ヘブル書、ヘブル人への手紙、ヘブライ人への手紙、と、表記はいろいろですが、新約聖書の同じ文書です。どうでもいいんですけれど、「ヘブル人」は「ヘブルびと」と読み、「ヘブライ人」は「ヘブライじん」と読むのが慣わしです。こんなの、本当に、どうでもいいと思いますけど。
うちの息子が「この読み分けがきちんとできる人は、クリスチャンホームの出身か信仰歴の長い人だね」と言ってました。
(伊藤一滴)
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人はみな罪びとだと教えられ、罪から来る報酬は死だと教えられ、そうした教えがいつも頭から離れず、苦しんだのですね。
さぞ苦しかったことでしょう。ずいぶん、おつらい思いをなさったのですね。
確かにキリスト教には、人はみな罪びとだという考えがあります。しかし、人がみなそうだということは、それは万人が持つ性質だとも言えるのです。
生まれつき万人に備わっている性質ゆえに地獄に行くというのは、はたして、筋の通った説明でしょうか。
アダムとエバの罪を受け継いでいるから人はみな罪びとだというのは、人間とはどういう者かを説明するための神学上の話です。あなたの先祖のネアンデルタール人の1人がやったことの責任が今のあなたにもありますか。そのためにあなたは死刑になるのですか。
いったい、誰が地獄に行けるのでしょう。地獄に行けるほど大きな罪を、誰が犯すことができるのでしょう。
私たちは、ちっぽけな人間に過ぎません。ちっぽけな、一般の庶民が、地獄に行けるほど大きな罪を犯す能力を持っているのでしょうか。
ゼロだとは言いませんが、地獄に行くほどの能力があり、その力をふるうことができる人なんて、ごく少数だと思います。少なくとも、あなたや私には当てはまらないでしょう。
「聖書にこう書いてあります」と言われ、脅されたのですね。大変でしたね。聖書は、古代人が、古代人の世界観で書いた書物です。矛盾する箇所もありますし、歴史的事実に反する箇所も多数あります。そのままでは現代に通じないのです。でも、だから意味のない書物だということにはなりません。神様は、古代人の表現や神話も使って、人に大切なことを示しておられるのかもしれません。
聖書にこう書いてあるといっても、解釈にはかなり幅があります。聖書の御言葉を引用し、まったく、正反対の主張だってできるのです。
有名なのは奴隷制です。かつてアメリカ南部ではアフリカから連行された黒人奴隷が酷使されていましたが、奴隷使用者のほとんどは白人のクリスチャンでした。聖書は、読みようで、奴隷制を肯定しているとも読めるんです。奴隷を使っていた人たちもクリスチャンでしたが、奴隷制に反対して奴隷解放を主張した人たちもクリスチャンでした。聖書の御言葉を使い、奴隷制を肯定することも、非難することもできるのです。戦争もそうです。聖書の御言葉を使い、戦争を肯定することも、非難することもできるのです。
旧約の律法は今も有効なのか、
豚肉を食べることの是非は、
真の安息日は土曜か日曜か、
死刑は認められるのか、
女性は教会で発言していいのか、
女性は牧師になれるのか、
幼児洗礼は有効な洗礼なのか、
教会は同性愛者にどう接すべきか・・・・。
聖書を引用して正反対の主張ができる例は、いくらでも挙げられます。
また、かつて当然のように言われた聖書の解釈が、ある人々を苦しめてきた例もあります。
よく知られているとおり、旧約聖書には、神は人を「男と女に創造された」とあります。ここから、人は男か女かどちらかだとされ、男でなければ女、女でなければ男と、当然のように考えられてきました。性同一性障害などの障害を持つ人たちは、クリスチャンたちから奇異な目で見られ、苦しんだのです。性同一性障害の人が教会に相談したら「汚らわしいと言われた」という証言もあります。かつての神学校では、性的少数者にどう対応すべきかの教育がまったくなかったのでしょう。
また、長い間、聖書は同性愛を厳禁していると解釈されてきました。今もそう考えている人も少なくありません。1980年代に私がこの耳で聞いた話ですが、比較的リベラルな教会の人さえ「同性愛は病気ですから、治療を受けて治すべきです」と言っていました。また、ある「福音派」の牧師は、「同性愛は大罪です。同性愛を改めなければ地獄に行きます」と言っていました。生まれつきの性的指向ゆえに責められるのは、生まれつきの盲人が責められるような話です。
さすがに今は、多くの教会が性的少数者の苦しみに寄り添う姿勢を示してはいますが、中には、過去の差別と同じような差別を繰り返しているクリスチャンもいます。
聖書を解釈するのは人間です。
聖書にこう書いてあるからこうだというのは、その教派や、その教会や、その牧師の、その時代の主張に過ぎません。別の教派の教会に行けば、別の牧師から、かなり違う説明を聞くでしょう。まったく正反対の話を聞くかもしれません。ある程度学んだ人なら「聖書的にはこうです」なんて、簡単に断定しません。
聖書が描く死後の世界や終末論も、実は、よくわかりません。
旧約の人たちは死後の世界についてあまり語っていません。旧約だけを読めば、死後の世界は存在しないと考えることもできます。
新約も、死後や終末については、読みようによってどうにでも読めるような表現です。さまざまな解釈が成り立つ新約の御言葉を、ある特定の解釈で、人は死んだらこうなるとか、世の終わりはこうだとか断言し、審きの恐怖で人を脅すことが、はたして、正しい聖書信仰なのでしょうか。そして、日々、恐怖におびえて生きることが、クリスチャンにふさわしい人生なのでしょうか。
福音を信じてイエス様に従うというのは、喜びではないのですか。
よくわからない死後や終末の記述をこうだと断定し、おびえて生きるべきではありません。イエス様のメッセージに従いこの世の人生を誠実に生きることのほうが、ずっと大切です。
イエス様は、権力を持つ人たちに厳しい非難の言葉を向けておられます。しかし、一般の庶民に恐怖を与えて脅す箇所など一箇所もありません。イエス様の非難は、人を脅す牧師や教会のリーダーたちにこそ向けられるのではありませんか。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」というイエス様の御言葉はよく御存知でしょう。イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言う者は、つまり、クリスチャンたちです。天の国に入るのは「父のみこころを行なう者」で、キリスト教の信者とは書いてありません。仏教徒、イスラム教徒、無神論者らが、「父のみこころを行なう者」として天の国に入るとき、イエス様に従わなかったクリスチャンたちは、イエス様から、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(同7:23)と言われるのかもしれません。
ドイツの神学者カール・ラーナーの論文にもありますが、持って生まれた人間の良心に従って生きようとする人たちは、たとえその人が自分はキリスト教徒であるという自覚を持っていなくとも「知られざるキリスト者」とでも言うべき真のクリスチャンであり、神の救いの内にある、と考えることもできるのです。(カール・ラーナー「知られざるキリスト者」『日常と超越』所収 「無名のキリスト者」とも訳される)
この、良心に従って生きようとする人たちの中に、他宗教の人や無神論者もいる、という考えなのです。
人は、神によって、神の似姿として創造されました。神の似姿ですから、生まれつき、神から与えられた良心を持っています。この良心に従っているのなら、その人は、神に従っていると言えるのです。その人は無意識に「父のみこころを行なう者」となっているのです。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と、聖書に書いてあります。神様が、全く可能性のないことをお望みになるはずはありません。神様はすべての人の救いを望んでおられるのですから、すべての人に救いのチャンスがあると考えるべきでしょう。その人が他宗教の信者でも、無神論者でも、あるいは、陰府に下った霊であっても。
私のことを万人救済論者だと言う人がいますが、違います。私は万人救済とは言っていません。
聖書の御言葉で人を脅し、支配し、コントロールするような人たちは、はたして、救いの中にいるのでしょうか。聖書を熟読しながらイエス様のメッセージに学ばないどころか、逆方向に進む人たちに、救いがあるのでしょうか。
あなたは、聖書66巻は神の御言葉だと教えられたでしょう。
仮に、聖書に書いてあることはすべて正しく、無誤無謬だとしますよ。
仮にそうだとしても、人間は無誤無謬ではありません。神様は全能であっても、人間は全能ではありませんから、神様の言葉を完全に理解する能力などないのです。私たち不完全な人間に、それはできないのです。
ということは、人間の聖書理解には常に誤謬がつきまとうと言えます。もちろん私自身も人間ですから、私の聖書理解だって、思い違いもあるかもしれません。ただ、福音書に記されたイエス様のメッセージが示している方向に向かおうとするなら、そう大きく外れはしないのではないかと思います。
いったい誰が、その聖書解釈は正しいと証明したり断定したりできますか。
もう一度言いますよ。人間の聖書理解には、常に誤謬がつきまとうのです。
誤謬かもしれないある種の聖書解釈に日々おびえ、そのおびえの中で一生を過ごすのが健全な信仰生活なのですか。
人はみな罪びとだといっても、それも含めて人間です。神様は、そういう限界を持つ私たちの限界を知りながら受け入れてくださるのです。
もう、おびえることはありません。
特定の教派の特定の聖書解釈を乗り越えましょう。
あなたのために祈ります。
全能の神があなたを強め、導いてくださいますように。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
(伊藤一滴)
追記:前回もそうですが、これも創作です。「これは異端の信仰だ」なんて言うのは、なしですよ。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作ですから。
ただし、私がこれまで直接聞いた話や読んだ話などをもとにしています。そして、上記はみな、キリスト教の中に実際にある見解です。創作と言っても、私が頭の中ででっち上げた話ではありません。
(伊藤一滴)
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実は私も、保守的な「福音派」のクリスチャンホームの出身なんです。
福音派と名乗る教会は、いろいろですね。教会によってはおだやかで善良な人たちも多くて、そうした人たちとは今もおつき合いがありますが、私の一家が所属していたのはとても排他的な教会でした。今思えば、それは、社会に対して閉ざされた独自の世界で、他派のキリスト教にも閉ざされた世界でした。
私が高校生のときでした。クラスの仲間の一人が交通事故で亡くなりました。雨の夜、オートバイでカーブを曲がり切れずにガードレールに突っ込んだのです。
牧師先生にお話しし、お祈りしたいと言ったら、
「すでに死んだ未信者のために祈っても無意味です。生きているうちにイエス様を信じなければ救われないのです。それに、正しい聖書信仰に立てば、死者のための祈りは否定されます」
と言われました。
後日、高校の友人たちと事故現場に行って花を添えながら、私は「正しい聖書信仰」の冷たさを思いました。クリスチャンでなければ救われないと言われ、切り捨てられるんですね。
信徒会長さんにその話をしたら、
「人間的な弱さに負けてはいけません。聖書的な価値観に立つべきです。あなたは花を供えに行ったそうですね。偶像崇拝の疑いがあります。よくないことです」
と言われました。
亡くなった人を悼むことが人間的な弱さだと言われ、花を添えれば偶像崇拝の疑いがあると言われるのが「聖書的な価値観」なんですね。
私の妹には知的障害があります。自分で聖書を読むことはできませんし、キリスト教の教義を説明してもほとんど理解できません。いくつになっても知能は2歳児くらいです。うちの親が、妹へのバプテスマ(洗礼)を教会にお願いしたら、牧師先生から、
「自分で信仰を告白できない人にバプテスマを授けることはできません」
と言われ、断られました。
障害のある妹のことで地域の民生児童委員さんが家に寄ってくれました。お寺の家の奥さんで、仏教徒です。親身になって話を聞いてくださり、いろいろ教えてくださいました。いい人でした。妹も、この民生児童委員さんが好きで、お帰りになるときにずっと手を振っていました。教会でその話をしたら、
「仏教徒がどんなにいい人でも、その人は救われません。キリストを信じる信仰以外、他に救いはありません。仏教徒の福祉活動なんて、しょせん、罪びと同士の傷の舐め合いに過ぎないのです。この世の価値観に惑わされてはいけません。聖書の教えだけが正しいのです」
と言われ、叱られました。
大学に進んでから、リベラルな教会の牧師の息子さんと知り合いになりました。その教派名を聞いたとき、最初は警戒しました。「その教派はリベラル派だから、気をつけないといけない」と思ったのです。でも、その学生もとてもいい人で、いろいろ話をするうち仲良くなりました。私は彼に、高校生だったときに同級生が事故死したこと、妹に障害があること、お寺の奥さんのこと、自分の教会で言われたことも話しました。
彼は、
「他の教派を否定するわけではないけれど、もしよかったら、うちの教会に来てみない? 僕の父と会って、話をしてみたら」
と言いました。
かなり緊張してその教会に伺いました。その派は正しいキリスト教ではないと聞かされていたので、異教の寺院に行くような気分でした。私はけっこう身構えていたのですが、お父さんの牧師先生は優しい感じの人で、私の話をよく聞いてくださいました。亡くなった同級生の話や所属教会で言われた話をしたら、
「つらい思いをされたのですね。亡くなった方がどうなるのか、人は、誰も断定などできません。神様は愛なのですから、愛である神様にその方の魂をお委ねしましょう」
とおっしゃってくださいました。
私は、
「事故現場に花を添えに行ったのは偶像崇拝でしょうか」
とお聞きしました。牧師先生は、
「故人を悼むことや故人に敬意を表することは偶像崇拝ではありません」
と、はっきりおっしゃいました。
キリスト教の人からそんなふうに言われたのは初めてで、新鮮な驚きでした。さらに、
「妹さんのことですが、うちの教会なら、知的障害のある方にも洗礼を授けることができますよ」
とおっしゃるのです。
家に帰って、両親にその話をしました。別な教会に行ったことを叱られるかと思ったら、叱られませんでした。それどころか、私の話を聞いて、うちの両親もその教会に相談に行くようになりました。
それまで通っていた「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」は、あれもだめ、これもだめと、律法に縛られたファリサイ派のようでした。「間もなく世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じで、社会の問題や政治の問題にもまるで無関心でした。それはまるで、この世の現実からも人の心からも離れた機械仕掛けの神様を信じているようでしたし、信者は人間らしい感情を殺して従うロボットのようでした。「神は愛です」と言われても、ちっとも愛を感じません。信仰の喜びもありません。人間らしい感情を示そうとすれば、「それは聖書的ではありません」とか「世の誘惑に負けてはいけません」とか言われ、叱られたのです。
私は思いました。あの機械仕掛けのような神様は、人間が聖書の言葉をつないで頭の中で作り出した「神様」ではなかったのかと。そう思ったとき、今まで教えられてきた「正しい教会」と「正しくない教会」が、実は、逆だったのではないかと思えてきたのです。
パウロの回心ではありませんが、私は、目からウロコが落ちるような思いでした。
なぜ人は、頭の中で「神様」を作り出し、本気で信じ、維持してしまうのでしょう? 信じ込んでしまった人は、それを正しい聖書信仰だと思い、すべてがその価値観となり、その色眼鏡を通してしか物を見ることができなくなってしまうのです。「人はみな罪びとです」、「信じない者は罪に定められます」、「罪から来る報酬は死です」、「死後さばきにあいます」等々、いつも頭に浮かんできて、やたら自分を責めたり、他者を責めたりしながら、自分たちなりの正しさで人を支配しようとするのです。「聖書にこう書いてあります」と、何の悪意もなく、自分たちの読み方を絶対視して、それが正しい聖書理解で、自分は正しい教えに従っているのだと信じて・・・・。
私たちは、一家で教会を替えました。
そして妹は、移籍した教会で洗礼を授けてもらいました。
洗礼式のあとに信者さんたちと教会の前で記念写真を撮りました。
妹もにこにこ笑っています。
私たち一家は、やっと人間の感情を取り戻し、やっと人間らしくなれました。
牧師先生の息子さんと親友になりました。
エキュメニズムの活動に参加するようになりました。
カトリック教会の人たちとも、お寺の人たちとも、仲良くおつき合いしています。
私たち一家は、イエス様の教えに従って生きる道を選びました。
良心に従って生きようとするすべての人たちに感謝します。
神様! ありがとうございます!
(伊藤一滴)
(架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作です。ただし、今回も、キリスト教の中に実際にある見解を書いています。)
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過去に書いたものは、こちらからも読めます。
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まず、どう聖書を読んでも、旧約と新約には主張にズレがあります。
イエスの教えとパウロの見解にもズレがあります。
福音書も、それぞれに出来事の記述の食い違いもありますし、著者の考え方の違いもあります。
「使徒行伝が描くパウロ」と「パウロの手紙」には食い違いがあります。
パウロの手紙とヤコブの手紙など、まるで考え方が違っています。
他にも、多くの食い違いがあります。
私は、そうした食い違いを認めていいと思っています。矛盾点など一切ないと頑張れば、無理な説明になってしまい、おかしな方向に走ることになります。実際、「正しい聖書信仰」と称し、変な方向に走っている人たちがいます。
キリスト教成立の初期には、指導的な女性たちがいて、かなり活躍していたようです。我々は、パウロのローマ書の末尾の挨拶などから、それを察することができます(ローマ16:1以下参照)。
ジネント山里記: ヘブル書の著者は女性? 優秀な女性使徒もいた? (ic-blog.jp)
キリスト教は、弾圧の時代を経て、4世紀にはローマ帝国から公認され、その後ローマ帝国の国教となりました。弾圧に屈せずに活動を続けた教会は、ローマ帝国の宗教となり、帝国の権力と結びつきました。天上の栄光を求めた人々は地上の力を得て、聖権と俗権が癒着したのです。
キリスト教の持つ、戦闘的性格、男性中心主義、上意下達の教会組織など、こうして形成されたのでしょう。
4世紀の末に、ローマ帝国はキリスト教以外の宗教やキリスト教の異端派を禁じ、弾圧するようになりました。弾圧されてきた側が、今度は弾圧する側になったのです。アメリカの建国や(現代の)イスラエルの建国に、似たものを感じます。これは、聖書に記された唯一のヤーウェ(ヱホバ)を信じる価値観と関係ありそうです。
新約聖書27巻が成立したのも4世紀の末です。パウロの真筆と考えられる手紙の中にも女性差別的な記述がありますが、そうした記述は男性中心主義者たちが書き加えた可能性もあるのです。ローマ書の末尾には活躍する女性たちへの高い評価と謝意が書かれています。そのパウロが、一方で女性を著しく差別していたとは考えにくいからです。
「アレクサンドリア」という映画にもなったヒュパティア(370-415)の名を聞いたことがありますか? 中高の歴史教科書などには出てこないので、知らない方も多いかと思います。彼女は哲学、数学、天文学、医学など、幅広い分野に通じた名高い学者で、遠方からも多くの人が学びに来ていました。神秘主義を排し、科学的な検討を重んじた彼女は、当時の教会から危険視される学者でした。
ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にこうあります、「四旬節のある日、総司教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」(※1)。
キリスト教徒の手によって、教会の建物の中で、彼女は惨殺されました。女が学問を教えるのは反聖書的だという思いも、この事件につながったのかもしれません。四旬節になるたびに、私はヒュパティアのことを思います。
その後、中世の教会は、カタリ派やワルドー派など、異端と見なした派に対し、容赦なく、残虐な弾圧を加えました。異端とされた人たちの活動は、正統教会の腐敗に対する抗議として、新約聖書に示された清貧の理念に立ち返ろうとした動きと見ることもできます。「異端」の指導者たちのほうが、ずっと清貧の中に生きていたのです。
正統教会は、最初は説得を試みたのですが、あまり効果が上がらず、「異端」に対し徹底的な武力弾圧を加えるようになりました。無抵抗な女性や子どもまで次々に殺害する殲滅作戦で、その結果、カタリ派は全滅し、ワルドー派は迫害から逃れた少数の人たちが何とか宗教改革の時代まで生き残りました。生きのびたワルドー派は福音主義信仰の一派としてプロテスタントに合流しています。
中世の十字軍派遣や、中世末期から近世にかけて激しくなった異端審問や魔女狩りも、キリスト教史の大きな汚点です。こうした暴挙によって、多数の無辜が殺されてゆきました。
十字軍の蛮行については既に多くの指摘があり、日本語で読める本やネットの記事も多数出されていますから、関心のある方はお読みになってください。
私が言うまでもないのでしょうが、知らないクリスチャンが多いので、一つだけ書いておきます。
十字軍がイスラム教徒の町に攻め入ると、女性、子ども、高齢者といった非戦闘員も含めて住民を殺害するのが常でした。旧約のエリコの戦いを思わせます。それに対し、イスラム教徒の軍がキリスト教徒の町に攻め入っても、原則として、非戦闘員は殺さない方針であったようです。例外もあったかもしれませんが、一般的には、イスラム教徒のほうが人道的でした。
キリスト教徒にとっては「イエスを信じる」ことだけが救いであり、人道的であることは救いとは関係なかったようです。カトリックの場合、善行も重んじられていましたが、この善行は一般的なヒューマニズムではなく「教会に従うことが善行である」と矮小化されていました。
この時代、教会が異教徒の殲滅を命じれば、非戦闘員も含めて殲滅するのが善行になってしまっていたのです。
今も「イエスを信じる」と称する一部の人たちに、ヒューマニズムの否定が見られます。さすがに今のカトリックではヒューマニズムの否定はないと思いますが、「福音派」を称する人たちの中に、「救いはイエス様を信じることだけで、ヒューマニズムは救いとは無縁の人間的価値観だからだまされてはいけません」といった主張があるのです。中世のカトリックの悪い面が今の自称「福音派」に受け継がれているようです。十字軍と似たもの、そして、エリコの戦いと似たものを感じます。
ジネント山里記: 善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ない? (ic-blog.jp)
魔女狩りについて言えば、これは、教会による無辜(多くは女性)の大量虐殺でした。14世紀から約400年もの間、おびただしい数の無関係な人たちが魔女の疑いをかけられ、殺されています。
魔女狩りはカトリックで下火になってからもプロテスタントによって続けられ、アメリカにまで飛び火しました。マサチューセッツ州で起きたセイラムの魔女裁判(Salem witch trials 1692-1693)が有名です。(これを知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い! 「魔女狩りをやったのは悪いカトリック、正しいのは福音主義」という、あれかこれかの二元論! 実際は、新旧両派とも盛んに魔女狩りをやっています。そして、最後まで続けたのはプロテスタントの側です! ※2)
ユダヤ人差別、女性差別、人種差別、先住民差別、性的マイノリティー差別・・・と、キリスト教徒による差別は続きます。
「宗教改革でキリスト教は正しくなった、それ以前は間違っていた」みたいな、あれかこれかの二元論じゃないんです。
ルター(1483-1546)の宗教改革に刺激され、抑圧されていたドイツ農民が決起すると、最初同情的だったルターは農民軍を非難する側に転じました。トマス・ミュンツァー(1490?-1525)率いる農民軍は宗教改革者から弾圧され、またカトリックからも弾圧され、ミュンツァーはカトリックの軍に捕えられて拷問され、斬首されています。
一方のカルヴァン(1509-1564)も、スイスのジュネーブで、一種の恐怖政治のような強権支配をしています。当時、セルヴェトス(1511-1553)という思想家で医学者で神学者でもあった知識人がいました。ハーベイより先に血液の循環に気づいていたようです。彼は、カトリックから異端者とされて捕えられ死刑を宣告されましたが、脱出し、各地を転々とした後、ジュネーブに逃れました。ところが逃れた先のジュネーブでカルヴァン派から捕らえられ、カルヴァンの賛同のもとに異端の罪で火刑に処されています。セルヴェトスは首に幾重にも縄を巻かれた上、火刑台に鉄鎖で括りつけられ、とろ火でゆっくりと焼かれたとのことです。見ていた人は苦しみもだえる姿を見かねて、火に枯草を投じて火力を上げ、死を早めさせてやったと伝えられています。カルヴァン派は「異端者」を焼き殺すことで、正統信仰に反する者はこうなるのだという見せしめにしたのでしょう。
今も多くのプロテスタントはカルヴァンの影響を受けていますが、そのカルヴァンは「異端者」を火あぶりにする人だったのです。(これも知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い!)
その後のキリスト教の歴史もひどいものです。
聖バーソロミューの虐殺事件や三十年戦争が有名ですが、新旧両派は戦いを続け、また新教徒同士の争いも続きました。キリスト教徒による内ゲバのような同士討ちの時代でした。
エラスムス(1466?-1536)やカステリョ(1515-1563)のように、平和や寛容を求めた人もいるにはいました。しかし、残念ながら、動乱の16世紀に寛容な主張が多数意見になることはありませんでした。
キリスト教徒は世界の各地に進出して先住民に疫病をもたらし、収奪、搾取、殺害を繰り返しています。キリスト信者以外は人間ではないと思っていたのでしょうか。さらにキリスト教徒はアフリカ人を奴隷としてアメリカに連行して働かせました。その子孫の人たちへの差別は今も残っています。
ざっと歴史を見ても、感じるのは、ものすごい不寛容です。キリスト教の歴史は不寛容の歴史であり、不寛容に基づく争いの歴史だとも言えます。
クリスチャンにとって、三位一体の神だけが、唯一の神なのです。
聖書だけが、唯一の正典です。
イエス・キリストだけが、唯一の救い主です。
みな、唯一で、自分たちだけが正しくて他は間違いなのです。
過去を省みて謝罪や反省を表明した教派もありますが、今でも、特にプロテスタントの中に、その中でも特に福音派系に(その中でも特に「福音派」と称する原理主義者らに)、「自分たちだけが正しくて他は間違い」という人たちがけっこういます。
前にも言いましたが、プロテスタント(特に福音派系)が強く主張する、
「聖書は66巻である」
「信仰の論拠は聖書のみ」
「聖書は誤りなき神の御言葉」
「聖書の権威」
「日曜は安息日」
といった言葉は、聖書のどこにも書かれていません。
どこにも書かれていないのですから、もちろん、イエスはこういったことを教えていません。
「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも出てこないことを言い張る矛盾をどう考えたらいいのでしょう。(そしてこの「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書のどこにも出てきません。)
私たち現代人が、無理な解釈などしないで、どこまでも、ただイエスの教えに従おうとして進むならどうなるのでしょう。この世における不寛容と争いの教会に縛られるべきではない、となりそうです。
私は、聖書に書かれていないことでもそれが伝統的に受け継がれてきたことで、かつ、常識的に考えて悪くないことであれば、否定はしません。でも、教会の教えの中に、イエスが人々に伝えたメッセージに明らかに反する点があるなら、それに縛られるべきではないと考えています。
万人向けの考え方ではないかもしれませんが、突き詰めれば、最終的には、「教会はいらない、(教会が言う意味での)信仰もいらない」となるのかもしれません。
イエスが生きて活動した時代に、教会というものはありませんでした。教会というものがなかったのだから、「教会の教え」もありませんでした。
たぶん、どこまでも突き詰めて行けば、こうなるのでしょう。
「我もなく世もなく ただ主のみいませり」
(讃美歌529番)
黙示録のイメージです。
自分もなく、キリスト教やキリスト教会といったものを含めて世もなく、ただ主だけがおられる!
(伊藤一滴)
※1
『ローマ帝国衰亡史』からの引用はウィキペディアの「ヒュパティア」の項からの再引用(孫引き)です。
これもウィキペディア情報ですが、「カキの貝殻」という語は「タイル」または「屋根瓦」とも訳せるそうです。昔のギリシャで、カキの貝殻が建築物の屋根などに使われていたので、窯業によって作られたタイルにも同じ語が使われたのでしょう。仮に、「カキの貝殻」ではなく「タイル(または屋根瓦)」だったとしても、「タイル(または屋根瓦)で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」とギボンは述べているわけで、残虐な殺害であったことに変わりありません。
なお、ヒュパティアの遺体はバラバラにされて見世物にされた後、市の門外で焼かれたそうです。
※2
「魔女狩りは,カトリック,プロテスタントを問わず,集団ヒステリーとして広がり,アメリカ新大陸にまで持ち込まれ 18世紀まで続いた(→セーレムの魔女裁判)。魔女狩りは 17世紀末から 18世紀初頭にかけて終焉に向かったが,強者が弱者を,また多数者が少数者を裁く異常な社会心理は,1950年代アメリカ合衆国のマッカーシズムにみられるように,現代にもその根を残している。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「魔女狩り」)
「14世紀以降4世紀間にわたり,おびただしい犠牲者が“魔女”として裁判で血祭りにあげられ,特に宗教改革が起こった16〜17世紀,新旧両派によって行われ最盛期となった。しかし,1692年アメリカのマサチュセッツ州の「セーラムの魔女事件」を最後に,魔女狩りは急速に衰えた。」(旺文社世界史事典 三訂版 「魔女狩り」)
魔女狩りは、中世よりも、宗教改革が起こった16~17世紀に激しくなり、カトリック、プロテスタントを問わず広く行なわれています。プロテスタントによる魔女狩りやプロテスタントによる「異端者」の処刑も知らない程度の歴史認識で、他教派を非難するようなことは言わないでほしいですね。
魔女狩り以外にも、カトリックがやめた後もプロテスタントの一部が続けたものに、進化論否定や他宗教否定があります。
今日、カトリックや主流派のプロテスタント(リベラル)で、進化論を否定する人はまずいません。私が知る限り、進化論否定論は福音派系の教派(全員ではありませんが)と異端派の中に残りました。
第二バチカン公会議以降のカトリックは他宗教の価値を認めて尊重しつつ対話するようになっていますし、プロテスタント神学においても、有名なところでは晩年のカール・バルトやモルトマンなどに、また、パネンベルク、カブ、マーコリーをはじめ、多くの神学者に、キリスト教以外の教えの中にも真実性や救いを見出そうとする方向性があります。つまり、他宗教を否定した過去を乗り越えようとしているのです。
「キリスト教だけが正しく、他には一切救いはない」という考え方は、福音派の中の特に保守的な人たちや、自称「福音派」のカルト思考原理主義者らに残っています。
ジネント山里記: 福音派の謎・反カトリックと反進化論 (ic-blog.jp)
(伊藤一滴)
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若い頃、日本基督教団のある牧師から、聖書を用いるカルトの特徴を教えていただいた。
イエス・キリスト以外に教祖的な人物(先生)がいる。
(今もその人物が指導している。または少し前まで指導していた。)
高額な献金を要求される。そして、そのお金が何に使われるのか、経理が不明朗。
教祖的人物や指導的な幹部が異性問題を起こしている。
「教祖、お金、異性」がポイントだ、と。
3つがそろわなくても、2つでも、1つでも、こうした特徴があればカルトを疑った方がいい、と。
(1980年代、その牧師さんは異性問題と言っておられたが、相手が異性とは限らないので、「性的な問題」と読み替えてください。)
さらに、その後、自称「福音派」や自称「教派ではなく純粋なキリスト教」といったカルトじみた人たちから何度もからまれ、私は気づいた。
キリスト教系カルトの場合、聖書を書き換えている。または、特異な解釈で意味を変えている。
読みようによって、聖書はそうも訳せる、そうも解釈できるというのなら、賛成しなくても、そういう理解の仕方もあるのかと思う。だが、カルト的な団体は、そもそも成り立たない読み方をしている。
教祖(先生)や教祖の指導を受けた人物が、単語も文法も無視した「解釈」をする。批判されても、「わかりやすく意訳したのです」「わかりやすく解説しているのです」と主張する。それは聖書の学問的な検討ではないと言うと、「聖書は学問的に検討すべきものではなく、信仰的に読むものです」と言い返される。
都合よく「訳」した独自の聖書を使うカルトもあるが、聖書カルトの多くは一般のキリスト教会と同じ訳の聖書を使っている。日本聖書協会や新日本聖書刊行会の訳を使っているからといって、その団体は安全だとは言えない。
信仰の喜びでつながっているというより、罪や悪魔や地獄をひどく恐れ、この教会から離れたら永遠の地獄に落ちて永遠に焼かれるかもしれないという恐怖で離れられなくなっている。「信仰」の中心にあるのは「罪の意識と地獄の恐怖」だ。それは、審かれるという恐怖心を植え付けるマインドコントロールの手法だ。
他の教派と交流したがらない。交流し対話すれば自分たちの問題点が知れるといけないから指導者は交流を嫌う。信者たちは「私たちの教会は真理の側だ」と思い込んでいるので、間違った教会の人たちから話を聞く必要はないし学ぶ点もないと考えている。「真理の側にいる」ので、他者の指摘を受けて考えや態度を改めることもない。正しいから迫害を受けていると思うだけだ。
ものごとを客観的に検討するのではなく、「自分たちは正しく、外の世界は間違いだ」というあれかこれかの二元論的な先入観を当てはめようとする。現実の世の中には、中間的なもの、どちらとも言えないもの、分類が難しいものも多数あり、簡単にあれかこれかと言えないのに、簡単に二つに分けて、自分たちを正しい側とする。
信者や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている。それを非難されると、「私たちは正しい聖書信仰(正しい福音主義の信仰)に立つから弾圧されている」と言う。
さらに、もう1つ聞いた。
カルトは、learn を重んじ、study を禁じるという。
learn も study も、どちらも「学ぶ」だが、learn は、習って学ぶ、覚える、習得するといったニュアンスが強く、study は、よく調べ、検討し、研究して学ぶというニュアンスがある。
つまり、「教えられた通りに学びなさい。自分で検討してはいけません」ということだ。この姿勢は、たしかに、キリスト教系カルトの中にある。
つまり、こうなる。
聖書を用いるカルト宗教の特徴は、
教祖的人物がいる(特別な「先生」の存在)
多額のお金が要求され、何に使われるのか不明朗
性的な問題を起こしている
聖書が書き換えられたり、独自の解釈で違う意味になったりしている
信者はマインドコントロールを受け、恐怖心に支配されて離れられなくされている
他教派との交流や対話が禁じられたり制限されたりしている
客観的に検討しようとせず、あれかこれかの二元論の考えに立つ
信者自身や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている
learn を重んじ、study が禁じられる
なるほど。
エホバの証人、自称「福音派」、統一協会などに、かなり当てはまる。
さらに付け加えると、キリスト教原理主義やキリスト教系のカルトには、聖書に根拠がないことを強く言い張り、守らない人を断罪するという特徴も見られる。
例
日曜礼拝への参加義務
絶対禁酒
性に関することのタブー視(その割には指導者が性的な問題を起こしたりしているが)
聖書にないことまで牧師や先輩信者が指示を出し、指示がなければ動けない人になってゆく、という特徴もある。
つまり、自分の頭で考えて行動することが出来ない人になってゆく。そのため社会(学校や職場など)で孤立し、ますますカルト教会に依存してゆくという悪循環だ。
当人は、社会から孤立を、「この世はサタンの影響下にあるから、サタンから離れ正しい場に身を置いている」とか、「正しい信仰を貫くための試練だ」とか、「救われて天国に行くためにこの艱難を耐えなければならない」とか、思い込んでいるようだ。
そのような「信仰」は、救いではなく、救いにつながるものでもなく、間違った考え方を植え付けられたことによる苦しみなのに。
(伊藤一滴)
2024年7月5日付記
(本来の教えと違うから駄目だと言うのではない。正典執筆者の意図とは違う解釈でも、その解釈による結果がいいのなら、歴史の中で検討されて教えが発展した、展開したとも言える。悪い結果が現れているから問題なのだ。)
2022-08-19 掲載、
2024-01-15 一部を修正し再掲
本日、付記を加えて再再掲
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キリスト教において「信仰の論拠は聖書のみ」と仮定した場合、いろいろ、つじつまの合わないことが出てくる。
1.多くの教会で次のような「使徒信条」(信仰告白、信仰宣言)が唱えられているが、「使徒信条」はそのままの形では聖書に出てこない。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン
(日本のプロテスタントでは「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」という訳と「生ける者と死ねる者とを審判(さばき)たまわん」という訳があり、それで福音派系か主流派系か分ったりする。どっちでも意味は同じなのに、こうしたささいな箇所が別になっていて、それぞれに唱えている。)
この「使徒信条」は古カトリック教会が唱え出し、今に至る信条の訳である。
つまり、聖書からの引用ではなく、古カトリック教会の信条を受け継ぐものである。
「そのままの形では聖書に出てこない信条(カトリックから受け継いだ信条)を唱えること」と「信仰の論拠は聖書のみと主張すること」との整合性はどうなるのか?
2.「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感によって記された」とする主張には、聖書的根拠がない。そんな記述は、聖書にない。
たしかに新約聖書には「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と書いてある(2テモテ書3:16)。だが、2テモテ書の著者は、ここで「聖書」とは何を指すのか示していない。当たり前だが「旧新約聖書66巻は~」などと書いていないし、そんな考えはなかったろう。まず、この書が書かれた時代に新約聖書はまだ成立していない(新約聖書27巻の成立は4世紀の末)。まだないものに言及できるはずがないし、まだないものを読むようにテモテに勧めるはずもない。パウロを称する著者が普段読んでいたのは七十人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書のギリシャ語訳)だろうから、たぶん、これが頭にあったのだろう。だとすれば旧約聖書続編(アポクリファ)も含めて「聖書」である。あるいは、シナゴーグで朗読される聖書を思い浮かべていたのかもしれないが、どちらにしても、新約聖書は含まれていない。
2テモテ書3:16を忠実に読むなら、新約聖書は「聖書」に含まれない、ということになる。この箇所は、「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感による」といった主張の根拠にはなりえない。
また、「聖書は66巻である」とは、聖書それ自体のどこにも書かれていない。
つまり「聖書は66巻である」という主張にも聖書的根拠がない。
「正典と外典では質が違う」と言う人がいるが、それは、これは正典だ、これは外典だと、先入観を持って読むからだ。正典だと思って読むから有難く思えているだけだ。聖書を全く知らない人に読み比べてもらったら、正典か外典か区別がつくだろうか。「どちらが正典か、外典か、分かります。正典と外典では明らかに質が違います」なんて言うだろうか。
3.「聖書は原典において誤りがない」とする見解は、最初から破綻している。
私が以前書いた「シカゴ声明」批判を参照していただきたい。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/04/post-e9aa.html
または「ジネント山里記 「シカゴ声明」批判」で検索
4.「父と子と聖霊は三位一体である」とする主張も、聖書に明記されてはいない。これも、古カトリック教会の神学から受け継いだものである。カトリックの神学を一切参照せず、「信仰の論拠は聖書のみ」として聖書だけ読めば、三位は一体であると気づくのだろうか?
5.「イエス・キリストは完全な神であり完全な人である」という主張も、聖書に明記されていない。これもまたカトリックから受け継いだ神学である。
「私と父とはひとつです」(ヨハネ10:30)といった言葉が聖書にあるが、「私は完全な神であり完全な人です」のように、イエスがはっきり述べた箇所はない。
「私と父とはひとつです」が根拠なら、父なる神も「完全な人」なのか?
カトリック神学をかなり受け継ぎながら「カトリック教会は異端です」などと言う人たちがいるが、それは「私たちは異端派の神学を受け継いでいます」と言っているのと同じだ。
6.「イエス・キリストは十字架で罪を贖った」という主張と「イエス・キリストを信じる者は救われる」という主張はどちらも聖書から導かれる見解であるが、この2つは両立するのだろうか。
キリストが十字架で罪を贖い、そして、その贖いが完全なものならば、信仰の有無にかかわらず全ての罪は贖われていることになり、救いを「信じる者」に限定できなくなるのではないか。もし「信じる者だけが救われる」なら、十字架の救いはすべての人に及ぶものではなく、信じる人だけに有効な限定的な救い、不完全な救いになるのではないか。
信じなければ救われないのなら、「キリストの十字架の救い」と「キリストを信じる信仰」と、その両方があって、はじめて救いは完全なものとなる。つまり、キリストの十字架だけでは救われない、キリストの十字架による救済は不完全なものだ、ということになる。
7.「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エフェソ4:4)といった言葉を引用し、「教会は一つです」などと言いながら、エキュメニズム(教会再一致運動)に背を向け、さかんに他派を非難し、対立を繰り返す人たちがいるのはなぜ?
つまり、彼らは、口では「教会は一つ」などと言いながら、心の中では「私たちの教会が正しく、他はみな間違いだ」と思っているのではないか。
聖霊の働きによって正しく信じていると言うのなら、聖霊は諸教会が対立し合うように導いているということになるのか?
「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、「信仰の論拠は自分たちの考えのみ」になっていないか。
まだまだあるけれど、「信仰の論拠は聖書のみ」では説明のつかないことが多い。
旧新約聖書のどの文書にも「信仰の論拠は聖書のみ」と書いてある箇所はない。
私は何度も繰り返して福音書を読んだけれど、イエスが「信仰の論拠は聖書のみ」と考えていたとは思えない。
パウロの言葉に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える~」(ロマ3:28)とあるが、この箇所は「義とされる」ことについて述べており、「信仰の論拠」についての見解ではない。また、「聖書のみ」とも言っていない。
つまり、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張には、聖書的根拠がない。
「信仰の論拠は聖書のみ」という主張は、宗教改革時代の歴史的な主張であって、これを普遍の真理と見なしたり、イエスの言葉と同列に置いたりすべきではない。
イエスが人々に伝えようとしたメッセージを最上とするのなら、現代において、「信仰の論拠は聖書のみ」とする主張を再検討する勇気が必要ではないのか。
(伊藤一滴)
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herem=killer氏が、ネット上で公にした「聖書信仰を問い直す」を読んでます。
これはすごい。
こちらのサイトです。
http://herem-killer.com/index.html
氏は「怖れに根ざした信仰」という論文を公にし、特に「(1)聖書に名を借りた支配」の箇所で、完璧なくらいキリスト教原理主義・聖書カルトを批判し尽くしています。
これを読んでいて、私が書いたキリスト教原理主義や聖書カルトへの批判など生ぬるいと思いましたよ。
かなり詳しいので全部読むには覚悟がいりますが、キリスト教原理主義や聖書カルトのどこがどう問題なのか、徹底的に論じていますから、関心のある方は是非ご覧ください。
私(一滴)も感じていますが、原理主義化・カルト化の源流にあるのは、16世紀の宗教改革の思想、特にカルヴァンの主張とその解釈なのかもしれません。
もちろん、カルヴァンらの業績を否定するわけではありませんが、原理主義者やカルト信者の主張の源流を探ると、どうも、カルヴァンやその後継者たちの見解に行きつくことが多いように思います。
原理主義者やカルト信者と思われる人が、聖書的根拠がはっきりしないことを言い張るので、
「聖書のどこにそう書いてあるのですか?」
と聞くと、
「神様がお決めになったのです」
とか、
「プロテスタントは伝統的にそう信じてきたのです」とか、答えるんですね。
「聖書に書いてないのに神様がお決めになったと、どうしてわかるのですか?」
と聞くと、
「聖霊の働きによって明らかです」
みたいな答えです。
聖書のどこにも書かれておらず、証明も、理論的な説明もできないことを「聖霊の内的なあかしによって明らかである」という話に持って行くのはカルヴァンの論法です。
「聖書は66巻である」とか、「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか、聖書のどこにも書かれていません。「聖書はすべて神の霊感によるもので~」と書いてありますが、「聖書は誤りなき神の御言葉」とまでは書かれていません。
それに、テモテヘの第二の手紙の著者は、「聖書はすべて神の霊感によるもので~」(3:16)という箇所の「聖書」とは何を指すのか書いていません。何を聖書と言うのか示していないのです。
書かれた時代を考えれば、おそらくこの著者が言う「聖書」とは七十人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書のギリシャ語訳)だったのしょう。だとすれば旧約聖書続編(アポクリファ)も含めて「聖書」です。続編も誤りなき神の御言葉であるが新約聖書は「聖書」に含まれない、という話になってしまいます。あるいは、シナゴーグで朗読される聖書を思い浮かべていたのかもしれませんが、当時はどこまでを正典とするのか、聖書の範囲が確定していませんでした。どちらにしても、新約聖書は含まれていません。
2テモテ3:16を忠実に読むなら、新約聖書は「聖書」に含まれないということになり、「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感による」といった主張の根拠にはなりえません。
「プロテスタントは伝統的に~と信じてきた」と答える人もいますが、それはプロテスタントの聖伝です。
「それはつまり聖伝ですね」
と聞くと、
「違います。信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません。私たちは正しい伝統を受け継いでいます」
みたいなことを言うんです。
それって、単なる言葉の言い換えです。自分たちなりの聖伝を「正しい伝統」と言い換えているんです。聖書のどこにも書かれていない伝統的な見解は、聖伝です。カトリックの聖伝は認めないが自分たちは自分たちなりの聖伝を受け継いで信じるという二重基準です。
今もカルヴァンの見解を受け継ぐクリスチャンは多数います。
その大多数は健全な信仰を持つクリスチャンだと思いますが、一部に(特に「福音派」と称する中の一部に)原理主義化・カルト化がみられます。彼らは、律法主義的で、とても熱心に、とても強く主張するので、そうした人が多数いるような気がしてしまうのですが、実際は少数派です。それを言うと「正しさは数の問題ではありません」と言い返されます。具体的な数値を挙げても、理論的に説明しようとしても、すべて鋼鉄の甲冑で跳ね返すようなその姿勢はエホバの証人や統一協会とよく似ています。
同じカルヴァンを受け継いで、なぜ「健全な信仰者」と「原理主義者やカルト」に分かれてしまうのでしょうか。
もう少し、考えたいです。
(伊藤一滴)
2023-07-27 掲載、そのまま再掲
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キリスト教には多くの教派がありますが、どの教派の教えが正しいのでしょうか。あるいは、正しくないのでしょうか。
いろんな人がいろんなことを言いますが、何が「正しいキリスト教」で、何を間違いと言うのか、答えは出ています。
「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しいキリスト教」があります。
「正しい聖書解釈」も同じことです。
いろんな人がいろんなことを言いますが、これも答えは出ています。
「自分が属する教派の解釈、および、それを受け入れた自分の見解」
これを正しい聖書解釈と言います。
これに反する主張を「間違った聖書解釈」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派の解釈」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しい聖書解釈」があります。
キリスト教は宗教ですから、その主張に科学的な証明が求められるわけではありませんが、少なくとも、理屈の通った主張をする必要はあるでしょう。
矛盾だらけの主張や二重基準の主張をする「教会」や「キリスト教団体」には近寄らないほうがいいでしょう。
他宗教や他教派などの異なる立場の人たちに、罵詈雑言を浴びせて自分たちを正当化する「正しいキリスト教」も警戒したほうがいいでしょう。
良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。その「教会」や「キリスト教団体」がどんな実を結んでいるのか、広い視野でよく見てください。
(伊藤一滴)
2020-09-01 掲載、そのまま再掲
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ChatGPTが出始めた頃は頓珍漢な答えが多くて笑ったが、わずかな間にどんどん進歩したようで、今、答えがかなりの水準になっている。
「信仰と歴史修正、信仰と陰謀論」についても、またChatGPTに聞いてみた。
私
プロテスタントの福音派を名乗る人たちの中に進化論否定論者がいます。また、多くはないのでしょうが地球が丸いことを否定して平面であると主張する人たちもいるようです。そうした進化論の否定や地球が球体であることの否定は信仰なのでしょうか? それとも歴史修正の一種なのでしょうか?
ChatGPT
プロテスタントの福音派の中には進化論を否定する人々が存在し、また地球平面説を支持する少数の人々もいます。これらの見解が信仰に基づくものか、あるいは歴史修正の一種であるかについては、複数の要因が絡み合っています。
1. 信仰に基づく否定
進化論の否定:
多くの福音派キリスト教徒が進化論を否定する理由は、聖書の創世記に記された創造の物語を文字通りに解釈することにあります。彼らは神が世界を6日間で創造したと信じており、この信仰が進化論を受け入れることと矛盾すると考えます。このような立場は「創造論」と呼ばれ、特に「若い地球創造論」(Young Earth Creationism)は地球の歴史を数千年程度と考える立場です。これらの信念は科学的証拠よりも宗教的信念に重きを置くため、信仰に基づく否定といえます。
地球平面説:
地球平面説を信じる人々の多くも、その主張を聖書に基づけています。彼らは聖書の特定の箇所を文字通りに解釈し、地球が平面であると信じます。この立場もまた、信仰に強く根ざしていると言えます。
2. 歴史修正の側面
進化論の否定:
進化論の否定には、しばしば科学的コンセンサスへの反発が含まれます。これは科学界の主流に対する不信感や、教育システムや政府が推奨する科学的見解に対する懐疑心から来ることがあります。このような反発は、ある意味で歴史修正の一環とも捉えられますが、主な動機は信仰に根ざしています。
地球平面説:
地球平面説もまた、現代科学の主流に反する主張であり、従来の科学的理解を修正しようとする意図が含まれることがあります。しかし、これも主に信仰や陰謀論に基づいている場合が多いです。
結論
進化論や地球が球体であることを否定するこれらの見解は、主に宗教的信仰に基づいていますが、科学的コンセンサスに対する反発や懐疑心といった歴史修正的な側面も含んでいます。しかし、基本的には信仰が主導していると言えるでしょう。これらの見解は、信仰と現代科学の間の緊張関係を反映しており、単純に一方が正しい、もう一方が間違っているという問題ではなく、複雑な文化的・宗教的・社会的背景が絡み合っている問題です。
私
なるほど。では、聖書を文字通り信じようとすることと陰謀論はどう違うのでしょうか?
ChatGPT
聖書を文字通りに信じようとすることと陰謀論の信奉にはいくつかの共通点がある一方で、根本的に異なる点も存在します。以下に両者の違いを説明します。
共通点
権威への疑念:
聖書を文字通りに信じること:
福音派の多くは、科学的な主流説や政府、教育機関に対して懐疑的です。彼らは聖書を最も信頼できる権威とみなし、それ以外の情報源に対して批判的な姿勢を取ることが多いです。
陰謀論:
陰謀論者も政府、メディア、科学者などの公式な権威に対する深い不信感を持ちます。彼らはこれらの権威が意図的に情報を隠したり、歪めたりしていると考えます。
一貫した信念体系:
聖書を文字通りに信じること:
聖書の文字通りの解釈に基づく信念体系は、創造論や他の宗教的教義と一致する形で一貫性を保っています。
陰謀論:
陰謀論もまた、一貫した信念体系を形成し、複数の出来事や現象を一つの大きな陰謀として説明しようとします。
相違点
根拠と出発点:
聖書を文字通りに信じること:
この立場は宗教的な信仰に根ざしています。聖書を神の言葉とみなし、その内容を文字通りに解釈することが信仰の基盤となっています。
陰謀論:
陰謀論は特定の出来事や状況に対する不信感や恐怖から生まれ、具体的な証拠や事実の捻じ曲げ、または誤解に基づくことが多いです。科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用する傾向があります。
目的と動機:
聖書を文字通りに信じること:
信仰に基づく解釈は、宗教的教義や個人の霊的成長、神との関係を深めることを目的としています。宗教的信仰はコミュニティや個人のアイデンティティの一部であり、道徳的・倫理的な指針を提供します。
陰謀論:
陰謀論の信奉者は、しばしば不安や不信感から動機づけられ、真実を暴くという使命感や自己の知識を他者より優れていると感じたいという欲求を持つことがあります。陰謀論はしばしば社会の分断や対立を引き起こすことがあります。
社会的影響と受け入れ:
聖書を文字通りに信じること:
これは特定の宗教コミュニティ内で広く受け入れられ、支持されている立場です。信仰の一環として尊重されることが多いです。
陰謀論:
陰謀論は社会的に広く受け入れられることは少なく、むしろ批判や懐疑の対象となることが多いです。社会的な対立や混乱を引き起こすことがあるため、危険視されることもあります。
結論
聖書を文字通りに信じることと陰謀論の信奉は、共に権威への疑念や一貫した信念体系を持つという共通点がありますが、根拠や動機、社会的影響においては大きな違いがあります。前者は宗教的信仰に基づき、個人やコミュニティの霊的な側面に焦点を当てているのに対し、後者は特定の出来事や状況に対する不信感や恐怖から生まれ、社会的な対立を引き起こすことが多いです。
私
聖書信仰と陰謀論が混じり合うこともあると思います。自分が体験した出来事や自分が置かれている状況に対する不信感や恐怖から聖書を文字通りに信じようとして、具体的な証拠や事実の捻じ曲げ、または誤解に基づき信仰し、科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用する傾向があれば、それは信仰という名の陰謀論ではないのでしょうか?
ChatGPT
確かに、聖書信仰と陰謀論が混じり合うことはあります。以下のように、いくつかの要因がそのような状況を引き起こす可能性があります。
1. 不安や恐怖からの反応
自分が体験した出来事や置かれた状況に対する不安や恐怖は、人々が安心感や意味を求める動機になります。これが聖書の文字通りの解釈に結びつくことがあります。困難な状況に直面したとき、聖書を文字通りに信じることで確固たる基盤や解決策を見出そうとすることがあります。
2. 証拠の選択的採用
科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用することは、信仰と陰謀論の両方に見られる特徴です。このような行動は、確証バイアス(confirmation bias)と呼ばれ、既に信じていることを支持する情報を探し、矛盾する情報を無視する傾向があります。
3. コミュニティの影響
特定の宗教的コミュニティやグループの中では、共通の信念が強固に支持され、異なる見解や証拠が排除されることがあります。このような環境では、陰謀論的な考え方が広がりやすくなります。コミュニティ内のリーダーや影響力のある人物が特定の見解を強く主張すると、それがグループ全体に影響を与えます。
4. 信仰と陰謀論の融合
聖書を文字通りに解釈する信仰と陰謀論的な考えが融合すると、以下のような形で現れることがあります。
世界観の一貫性:
聖書の預言や物語を現代の出来事に関連付け、これが大規模な陰謀の一部であると信じることがあります。例えば、終末論的な預言を現代の政治や社会の出来事と結びつけることがあります。
科学への不信:
科学者や教育機関が「真実を隠している」と主張し、科学的な説明を陰謀として拒否することがあります。進化論や地球の形状に関する科学的コンセンサスを否定することが例として挙げられます。
自己の正当化:自分たちの信仰が特定の陰謀によって攻撃されていると感じることで、信仰をさらに強化し、自分たちの立場を防衛することがあります。これにより、外部の批判を一層拒絶する傾向が強まります。
結論
聖書を文字通りに信じることと陰謀論的な考えが混じり合う場合、それは確かに「信仰という名の陰謀論」と言える側面があります。特に、証拠の選択的採用や科学的根拠の軽視が顕著である場合、その信仰は陰謀論と区別が難しくなることがあります。これは信仰の純粋な側面が、恐怖や不安から来る陰謀論的な要素と結びついた結果と考えられます。このような状況では、信仰と陰謀論の区別を明確にすることが重要です。
引用終了
AIが答えてくれる。
すごい世の中になった。
(ただし、問いを立てたのは生身の人間の私、一滴です。)
そのうち、AI牧師が出てきて、礼拝説教をするんだろうか?
もうすでに、生身の牧師の中にAIを使って説教を考える人もいるという。
翻訳などにもAIがかなり使われているようだが、今後、学校の授業もAIが主流、病気の診断もAIが主流、なんてなったら、人間が学んだり思考したりする意味って、何?
(伊藤一滴)
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キリスト教信仰において、信じる内容が史実でなくてもよいのか?
ブルトマンによれば、信ずべきは十字架につけられて復活した(と信じられた)キリスト、すなわち宣教されたキリストであって、史実のイエスではない、ということになる。
史実のイエスは我々の信仰には無関係だ、とまで言う。
ブルトマンの主張だと、「史的イエス」を信じるのではなく「ケリュグマ(宣教)のキリスト」を信じる、ということになる。
「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」の両者は峻別すべきであるし、もはや史的イエスの復元は不可能だ。それはわかる。
だが、信じる内容が史実でなくてもよいのか?という疑問が、当然生じる。
近代科学が発達する中で、聖書には史実と異なる記述が多数あることがわかってきた。
これを認めず「聖書の記述はみな事実です」と言う立場もあるが、これはかなり苦しい主張である。
聖書の各文書を記した人たちは、史実をそもまま記録しようといった意図はなかった。彼らが述べようとしたのは、神とはどういうお方で、人とはどういう者なのか、神と人とはどういう関係にあるのかだった。
科学が発達した時代に、それでもキリスト教を信じようとすれば、「聖書の記述が史実通りでないことを認めてよい」、「史実がどうだったのかは、信仰には関係ない」ということになるのか。
キリスト教に限らず、原理主義でない宗教一般について言えることだが、信仰の内容が史実と一致するかどうかは重要ではないようだ。
信仰は精神的な要素が大きく、証明できないことを信じる部分もかなりある。事実と確認されたことだけを信じても、それを信仰とは言わない。
信仰は、信じる人を支えるものである。それは、何かに依存するのとは違う。信仰はその人に決断を迫る。信仰的な決断は、希望であり安心であり、時に慰めとなる。たとえ後から判断を誤ったと思っても、自分で決断したことに対して、あの時点のあの状況でこう考えたのだと省みて、改めるべき点を改めてゆくことができる。
聖書の言葉で作ったマニュアル本も世にはあるが、マニュアルを作ってその通りにしようとするのは現代の律法主義である。また、罪や地獄の恐怖をやたら煽る人たちもいるが、恐れに縛られて信じるのはマインドコントロールの一種である。こうした「信仰」モドキが、自称「福音派」に多くみられる。あるべき信仰からの逸脱である。
言うまでもないが、律法主義も恐れによる支配もイエスのメッセージとは異質のものだ。そうした異質の「信仰」の人たちが「私たちは聖書に書いてあることを書いてある通りに信じています。私たちが信じている内容はすべて事実です」などと言い張って他教派を攻撃し、他者を否定することで自分たちを正当化している。自分たちは事実を信じ真理の中にいると思っているから、問題点を指摘されても改めない。「真理」だから、改める余地などないのである。指摘されると、せっかく指摘してくれた人をサタン呼ばわりし、火がついたように怒るだけである。そうやって、改善のチャンスを自分たちで排除する。どこまで行っても救われない。自分たちは救われていると思い込んで、救いのチャンスを拒絶する。
私は若い頃、自称「福音派」は地獄に向かって歩んでいると思った。
本来の信仰は、信仰者に決断を迫るものであり、その人にとっての希望、安心、慰め等となる。また、個人的な面のみならず、社会性を有するものである。決断には、社会的な行動も含まれる。それは、家庭、地域、信者共同体、そして、国家にまで広がってゆく。
私も言われたが、「福音の光に照らして判断する」ことになる。どうも、その際のその決断は、指針となる教義が史実であるかどうかには関係しないようだ。
2千年前の過去のその時点でどうだったのかではない。今の私にとってどうなのか、なのだ。今、この私が、今の人や今の社会に関わるときに、それがどういう意味を持つのか、なのだ。
イエスの十字架を自分の救いと信じるなら、十字架(正確には処刑杭)の形状はどうだったのかとか、奇跡の話はどこまで事実なのかとか、もはや、関係ない。
信じる内容の史実性は問われない。
「福音の光に照らして判断する」なら、当然、政治的、社会的な発言や行動も出てくる。
「クリスチャンは神の国と神の義を第一にすべきであって、この世の政治や社会の問題に口出しすべきではありません」などと言っている自称「福音派」は、頓珍漢な方向を見て「信仰」している。彼らは、困っている人たちのために指一本動かさない。イエスの姿勢とまるで違う。指摘されると「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」などと言い、何と、イエスに逆らう自分たちを聖書の言葉で正当化してくる。
信仰は、それを信じる個人や、その個人が属する共同体、社会と関わってくる。まともな信仰ならば、それは個人にも社会にも有益なものとなる。(ひどく歪んだ国なら信仰者は迫害を受けるかもしれないが、やがてはその国を変えてゆく原動力となるわけで、長期的に見るなら、社会にとって有益だと言える。)
社会派と教会派、リベラル派と福音派といった呼び方がある。社会派とリベラル派は完全に重なるわけではないが、どちらかと言うと、社会の問題に積極的に関わろうとする信者はリベラルなことが多いようだ。聖書の言葉を文字通り信じるより、聖書の理念、その精神性に従おうとしている。文字通り信じると称する自称「福音派」の原理主義者は、文字の細部にこだわるわりには根本理念がイエスの方向とずれている。(もちろん、一般の(原理主義でない)福音派の中に社会の問題に積極的に取り組む方々がおられるし、中間的、例外的な人たちもいるから、あれかこれかとはっきりとは分けられない。)
信仰の有益性から考えた場合でも、聖書の記述を史実と信じる必要はない。
だが、ここでまた疑問が出てくる。信仰の内容が史実であるかどうかは重要でないなら、それは「歴史修正主義」とどう違うのか?
ChatGPTに聞いてみた。
ChatGPTの答えをそのまま引用する。
私
信仰の内容が史実であるかどうかは必ずしも重要でないなら、個人や団体や国家が都合よく歴史を書き換えてしまう「歴史修正主義」とどう違うのか?
ChatGPT
信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないという観点と、「歴史修正主義」は異なる概念です。以下に、その違いを詳しく説明します。
宗教信仰と歴史修正主義の違い
目的と動機の違い
宗教信仰:宗教信仰の目的は、精神的な支えや倫理的な指針、文化的な一体感を提供することです。宗教的な物語や教義は象徴的な意味を持ち、個人や共同体に対して内面的な充実や道徳的な教訓を与えることが多いです。信仰の内容が史実であるかどうかは、これらの目的を達成するための手段として二次的な問題となります。
歴史修正主義:歴史修正主義は、政治的、社会的、またはイデオロギー的な目的のために歴史の記録を意図的に変更し、特定のナラティブを強調または隠蔽する行為です。この動機はしばしば、権力の維持、特定の集団の正当化、または他者の抑圧にあります。
影響範囲の違い
宗教信仰:宗教的な教義や物語は、主にその宗教を信じる人々の内面的な世界に影響を与えます。信仰は個人やコミュニティの倫理観や精神的な健康に寄与しますが、通常は歴史的な記録や客観的な事実を変更するものではありません。
歴史修正主義:歴史修正主義は、公共の歴史認識や教育に直接影響を与えます。これにより、社会全体の歴史理解が歪められ、特定の集団や出来事に関する誤った認識が広がる可能性があります。
証拠の扱い
宗教信仰:宗教的な物語や教義は、しばしば証拠の有無にかかわらず信じられます。これらは象徴的な真実を伝えることを目的としており、科学的な検証や史実とは異なる基準で評価されます。
歴史修正主義:歴史修正主義は、歴史的な証拠を意図的に歪めたり無視したりすることで成り立ちます。これは、歴史的な事実を再解釈するのではなく、偽造や隠蔽といった手段を用いて特定のナラティブを強制する行為です。
倫理的および社会的な影響
宗教信仰:宗教は、多くの場合、信者にとって肯定的な影響を与えます。信仰が内面的な平和や共同体の結束を促進する場合、それは個人および社会にとって有益です。
歴史修正主義:歴史修正主義は、社会的な分断を引き起こし、過去の不正を隠蔽することで和解や正義の追求を妨げる可能性があります。これは、被害者やその子孫にとって深刻な影響を及ぼし、社会の公平性や透明性を損ないます。
結論
宗教信仰と歴史修正主義は、その目的、影響範囲、証拠の扱い方、および社会的な影響の点で大きく異なります。宗教信仰は象徴的な意味を重視し、精神的および倫理的な目的に奉仕する一方、歴史修正主義は歴史的事実を歪めることで特定のイデオロギーや権力構造を維持しようとする行為です。このため、宗教的な信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないことと、歴史修正主義がもたらす問題とは、根本的に異なる性質のものです。
引用終了
やはり、「実を見れば木はわかる」ということのようだ。
良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
ChatGPTは、宗教信仰を良いもの、歴史修正主義を悪いものとして答えたが、世には信仰と称する陰謀論のような主張もある。
たとえば、
「米軍機が絶えず空に薬を撒いて、日本の天気を完全にコントロールしている」とか、
「東日本大震災は、アメリカが核兵器を使って起こした人工地震だ。その時に拡散した放射能を隠蔽するために、福島の原発をわざと壊した」とか、
「クリスチャン」たちが大真面目に言っているのを聞いたことがある。
クリスチャンの多数意見ではないだろうが、たとえ一部であれ、宗教信仰に陰謀論が入り込んでいる現実がある。
これをどう考えたらいいのか。(続く)
(伊藤一滴)
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非神話化は正しい聖書解釈なのか、という問いが出てくる。
ブルトマンは、正統とされる教義のある部分を批判し、別な部分は受け継いでいる。
それに対し、私は、以下の点で疑問を感じる。
ある部分を批判し別な部分は受け継ぐその判別は、恣意的・主観的にならないのだろうか。また、過去の自由主義神学がそうであったように、時代の風潮や研究者自身の価値観・理想が入り込むことはないのだろうか。
そして、そもそも、ブルトマンによる判別は正しいのだろうか。
なお、ブルトマンの見解を、正統的な信仰に反するとか、異端の神学であるとか非難するのは当たらない。
ある時代に「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」のは、ルターやカルヴァンがまさにそうだった。
その後プロテスタントは細分化されていったが、それはまさに「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」「そして、その時代の研究成果もふまえ新解釈を加える」諸教派が乱立したからに他ならない。
教義のある部分を批判するのは異端だと言うのなら、自分が属するグループ以外はすべて異端になってしまう。歴史的に見ても、キリスト教にはかなり幅がある。
ブルトマンの解釈が「正しい」かどうか、何とも言えない箇所もあるけれど、私は、逆に、正しい聖書解釈とは何かを問いたい。
教派の数だけどころか、牧師の数だけ、信者の数だけ「正しい聖書解釈」があるのではないか。
「正しい」かどうかの判別は、時代の状況もそうだが、主観がかなり混じる。
その解釈が「正しい」かどうか、どの立ち位置から見るのかによって違ってくる。それよりも、その解釈が「良い」かどうかが問題ではないのか。
ある聖書解釈が良い結果をもたらし、そう解釈する人自身や周りの人たちを良い方に導くなら、それは良い聖書解釈と言えるだろう。
逆に、ある聖書解釈が、自分や他者に悪い影響を与えるのなら、それは悪い聖書解釈だと言える。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」
非神話化が良い結果をもたらすのなら、それは良い解釈だと言えるし、悪い結果をもたらすなら悪い解釈だと言える。
聖書解釈の中には、聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違うと思えるものもある。新約聖書の中にさえ、旧約の意図とはかなり違うと思える解釈が多数見られる。
問われるのは、正しいか、正しくないかではなくて、良い結果をもたらすか否かであろう。
私が子どもの時だった。「大草原の小さな家」というテレビ番組を見ていた。50年近く前の記憶だから、細部は不正確かもしれないが、おおよそ、こんな内容の話があった。
ローラのお父さんのチャールズは、狩りか何かで1人で出かけて怪我をした。歩けず、近くに人もおらず、助けを呼ぶこともできない。やがて傷が化膿して熱も出てきた。苦しい中で、チャールズは聖書の言葉を思い出した。
「もしあなたの体の一部があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい」
意を決し、チャールズはナイフを取り出し、化膿した傷口を切った。切ったことで膿が出て、傷は快方に向かった。
あとからチャールズを診たベーカー医師が言った。
「切ったのは適切な判断だった」
聖書の執筆者の意図とはかなり違うだろうが、これを、「間違った聖書解釈だ」と言えるだろうか。
考えようによっては、ときに神様は聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違う聖書解釈で人を助けてくださるとも言えるだろう。
極端なな原理主義者やカルトは別として、一般の(原理主義でない)福音派の聖書解釈を、「間違っている」とは、私は言わない。
私とかなり考えが違っていても、たとえ聖書学的に成り立たないような解釈であっても、その解釈でその人自身や周りの人が良くなってゆくのなら、それでいいと思う。
そういう意味で、私は、福音派の聖書信仰を尊重したい。
また、リベラルな立場の非神話化がその人自身や周りの人に良い結果をもたらすのなら、私は、非神話化を尊重したい。
もう一度言う。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」
(伊藤一滴)
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キリスト教信仰において、「イエスはキリストであること、キリストは十字架で殺されたこと、キリストは復活したこと」、これらを切り離すことはできない。
そして、イエス・キリストの十字架の死による救済を信じるのがキリスト教だ。
私はずっと「イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を贖(あがな)うためだった」と、人類の罪の贖いの死を信じるのがキリスト教の信仰だと思っていた。だからこのブログにもそう書いたことがある。だが、聖書の学びを続ける中で、罪の贖いという贖罪論は、新約聖書の一貫した思想とは言えないと思うようになった。
たしかに、福音書やパウロの書簡から、「十字架による罪の贖い」という論を導くことは可能である。だが、たとえばヘブル書は、十字架の意味を、民の罪に対する「なだめ」と論じ、贖罪を全面に出していない。ヘブル書は贖罪論に対する反論の書なのかもしれない。新約聖書の各文書の主張はそれぞれ違っていて、各著者の考え方は一致していない。
「キリストの十字架によって救われる」という見解と、
「キリストの十字架によって贖われる」という見解は、
似て非なる概念である。よく混同されるが、分けて考えた方がよい。
ちなみに、ブルトマンは、「十字架と復活」を救済の出来事としながら、罪のあがないという考えを神話論的解釈とし、つき従ってゆけないとまで言っている。
贖罪論はキリスト教の中に見られる見解ではあるが、贖罪論を信じなければキリスト教ではないとは言えない。
「十字架と復活」は救済の出来事だという。
しかし、実際にイエスに出会ったのはおよそ2千年前の人たちである。その後の人たちや今を生きる私たちは、どうすればイエスに出会えるのだろう。
ブルトマンは、「十字架につけられた甦りたもう者たるキリストは、宣教の言(ことば)においてわれわれに出会い、その他のいかなるところにおいても出会わない」と言い、また「宣教の言は、われわれがそれに対して認知証明の問(とい)を提出しうるようなものでなくして、われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言として、われわれに出会うのである」と言う(『新約聖書と神話論』)。
我々は、ただ宣教(ケリュグマ)の言葉だけからイエス・キリストに出会う、他からの出会いはない、となる。親や師や先輩や友人などに導かれたにしても、そこに宣教の言葉があったからだ、ということになる。導かれた人は、じかに聖書に記された宣教の言葉に触れ、イエス・キリストとの出会いを確かなものとした、ということになる。
まあ、中には、目の前にイエス様が現れたといった証言もあり、そうした証言はすべて嘘だなんて言えないけれど(※)、「宣教の言葉からイエス・キリストに出会う」のが、キリスト教の大原則だと私も思う。
認知証明など、しようがない。それが出来たら信仰とは言わない。すでに証明された科学の法則を信じても、それを信仰とは言わない。
信仰は、人間の認知証明を超えている。まさに「われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言(ことば)」なのだ。
ただし、理解は必要だ。人は、自分がまったく理解できないことを信じたりできない。
信仰は、科学的な証明が求められるものではないが、理解できる範囲での理解と、それを自分はこう信じるという説明は求められる。理解も説明もできないのに信じたら、それは狂信と同じだ。
信じるか信じないか、宣教の言葉に触れた人は決断を迫られる。だがそれは、原理主義やカルトのような狂信的・盲信的な「信仰」ではない。信じなければ地獄に行くと、脅され、脅し、日々恐れの中に生きるような「信仰」は新約聖書の使信とは相容れない。そのような「信仰」は人の精神を殺す。
新約聖書の宣教の使信を信じる信仰は、キリストと共に葬られよみがえり、新しいいのちに生きる信仰である(ロマ6:4)。
我々は、キリストと共に十字架につけられ共に復活した新しいいのちを生きている、ということになる。
十字架と復活は過去に終わった出来事ではない。過去から今に至り、今も我々と共にある出来事である。
十字架と復活はこの私と共にあり、これを私にとっての救済の出来事だと信じ、受け入れるのが信仰なのだ。2千年前の出来事が史実であったかどうかは問われない。
20世紀の科学の時代、論考に論考を重ね、このように考えればキリスト教信仰は成り立つし、キリスト教信仰を受け入れることができると論じたのが非神話化だったのだ。
※たとえば、マザー・テレサは、第二次大戦後、ダージリンに向かう小さな列車の中で、突然、十字架につけられたイエス・キリストが現れ、「私は渇く」とおっしゃったのを聞いたという。十字架のイエスの渇きにどう応えるのか、それが、その後のマザー・テレサの活動となっていった。
(完)
(伊藤一滴)
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