ヘブル書における十字架の意味は「あがなうため」より「なだめるため」
以前、私は、ヘブル書には贖罪説が出てこないという意味のことを書きましたが、まったく出てこないわけではありません。私の勇み足でした。すみません。
ヘブル書は十字架の意味を「あがなうため」より「なだめるため」としている。と、訂正します。
ヘブル書では、十字架のあがないよりも、十字架によるなだめが前面に出てきます。
次の訳は不適切です。
2:17そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(ヘブル人への手紙 口語訳)
2:17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。(ヘブライ人への手紙 新共同訳)
ギリシャ語の、εἰς τὸ ἱλάσκεσθαι τὰς ἁμαρτίας τοῦ λαοῦ をどう訳すかです。
英訳も見てみましたが、欽定訳が「民の罪の和解のために」という意味に、RSVが「民の罪をあがなうために」という意味に訳していました。
この箇所のギリシャ語の文は、「なだめるため」とすべきでしょう。(田川建三訳参照)
口語訳やRSVのように「民の罪をあがなうために」としたのでは意味が違ってしまいます。意訳のしすぎです。
この箇所は、田川訳もそうですが、新改訳もみごとに訳しています。
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル人への手紙 新改訳)
この箇所の新改訳の訳文は実にみごとです。
「民の罪のために、なだめがなされるため」と正確に訳しています。
また、「みまえ」も原文にはなく、「神のことについて」ですから、新改訳が正確です。
「あがなうため」と「なだめるため」では、ずいぶん意味が違います。
ヘブル書の著者は旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)をかなり読んでいたようで、旧約からの引用が多く、それもほとんど七十人訳からです。
著者は、旧約を念頭に、「イエスは自らを、神に対し、民の罪のための宥めの供え物とした」と考えたのでしょう。
原文から逸れて意訳された訳文を根拠に「ヘブル書も贖罪説を強調している」なんて言えません。
この箇所もそうですが、新改訳はときどき、はっとするくらい見事に訳しています。どうせ福音派の訳だろうと低く見る人もいますが、とんでもない。中には口語訳や新共同訳より遥かに優れていると思える訳文も見られます。
(逆に、口語訳、新共同訳が優れていると思える箇所もありますから、読み比べてみるといいと思います。)
(注)ヘブル書、ヘブル人への手紙、ヘブライ人への手紙、と、表記はいろいろですが、新約聖書の同じ文書です。どうでもいいんですけれど、「ヘブル人」は「ヘブルびと」と読み、「ヘブライ人」は「ヘブライじん」と読むのが慣わしです。こんなの、本当に、どうでもいいと思いますけど。
うちの息子が「この読み分けがきちんとできる人は、クリスチャンホームの出身か信仰歴の長い人だね」と言ってました。
(伊藤一滴)
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