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荒井献と田川建三、他、思うこと

新約学の荒井献(あらい・ささぐ)氏が本年8月16日に逝去された。
氏はキリスト教の信仰を表明しておられた方だから、「ご冥福をお祈りします」などとは言わないが、氏の御霊の平安をお祈り申し上げる次第である。


私は1980年代、荒井献著『イエスとその時代』などを読みふけっていた時期がある。

一つの時代が去ったように思う。


明治、大正、昭和の初め、内村鑑三らの活躍があった。
内村鑑三門下の塚本虎二や黒崎幸吉らは、戦前に新約ギリシャ語を学んで原語での研究に向かって行った。
塚本虎二門下の前田護郎はヨーロッパで学び、戦後に東京大学文学部西洋古典学科の主任となった。
この西洋古典学科から、佐竹明はじめ、荒井献、田川建三、八木誠一、川村輝典などの、錚錚たる新約学者らが巣立って行った。

佐竹明、川村輝典は牧師になった。牧師であり研究者でもあった。
荒井献、田川建三、八木誠一らはそれぞれキリスト教主義の大学(俗にミッションスクールと呼ばれる大学)で教鞭を執っておられたが、それぞれの「キリスト教主義」と対立して去って行かれた。
(それにしても、超一流の新約学者がいられなくなる「キリスト教主義」って、何だろうね。)


こんなことを言う人はあまりいないと思うけれど、
「荒井献と田川建三って、手塚治虫と水木しげるに似ている」と思う。

それぞれ、超一流なのだ。
優れた本を出し、発言し、世に影響を与え、そして近親憎悪のように対立した。

荒井献は多くの門下生を育てた。思いつくまま挙げても、青野太潮、大貫隆、小河陽、佐藤研、土岐健治・・・らがいる。手塚治虫が多くの門下を育てたのと似ている。
一方、田川建三門下の新約学者って、いるんだろうか。水木しげる門下の著名な漫画家は思いつかないが、似ている。

ある分野を極めた人に、多くの弟子を育てるタイプの人と、育てないタイプの人がいるようだ。


もう一点、これも、こんなことを言う人はあまりいないと思うけれど、
「一流の聖書学者たちは宣伝が下手だ」と思う。
学問的な水準が高いのだから宣伝など必要ないと考えているのだろうか。

また、聖書学者らの見解を前提に思考するリベラル派の諸教会も、ひじょうに宣伝が下手だ。
それに対し、福音派系、中でも「福音派」を自称する原理主義者らは宣伝がうまい。近年はインターネットを使って盛んに発信もしている。

実際は、プロテスタントの主流はリベラルであり、近年はカトリックもリベラル寄りになってきている。両者はエキュメニズム派とも呼ばれ、学問的な水準も高いのだが、世間一般はガンガン宣伝を流す方を主流だと思ってしまう。

福音派系は全部駄目だなんて思わないが、原理主義の広がりは困る。
一般の(原理主義でない)福音派は、福音派の理念をしっかり宣伝し、伝えてもらいたい。

私は、最近出た本の中で、福音派の牧師である藤本満氏の著書『LGBTQ 聖書はそういっているのか?』(2024.8.5)が気になっている。福音派の理念に立つ良識と愛の心を感じる本だと思うのだが、案の定、自称「福音派」(あるいはカルト)と思える人たちがこの本に噛みついてきた。やはり、と言うか、どこまでもイエスの姿勢に背を向ける「福音派」が一定数いるようだ。
自称「福音派」からの妨害があっても、まっとうな福音派は、きちんと聖書の理念を伝えてもらいたい。福音の光に照らして聖書を読むなら、性的少数派の人たちのことをどう考え、どう接するべきなのか、イエスの姿勢に倣ってきちんと伝えていただきたい。
(藤本満先生、この本を出していただきありがとうございました。)

宣伝など必要ないという考えもあるだろう。だが、検討した結果正しいと考えられる見解を広めるのは啓蒙でもある。

聖書学者の方々は、難解な論文だけでなく、素人にもわかりやすい入門書も書いていただきたい。(田川建三著『イエスという男』など、良書。)

キリスト教の宣伝は宣教(伝道)でもある。リベラルな見解の諸教会も、わかりやすく宣伝していただきたい。

イエスが命をかけて始めた教え、弟子たちや代々の信徒らが命をかけて伝えてきた教えを、このまま衰退してゆく宗教にしてはいけない。

(伊藤一滴)


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