« 食前の祈りは、いいことなんだろうか?(再掲) | メイン

「成り立たない理論」から「成り立つ理論」へ

「事実を求めること」と「意味を求めること」を混ぜこぜにしてはいけない。

「意味があるのだから、事実だ」ということにはならない。世にはすぐれた寓話も物語もある。宗教説話もある。深い意味があっても、書いてあることが文字通り事実だということではない。

反進化論者の話を聞いたり著書を読んだりして思うのだが、反進化論者の多くは「事実を求めること」と「意味を求めること」を混同している。

進化論は、事実を求めて導かれた理論である。科学とはそういうものだ。
意味を求めたら、それは哲学的な話になり、純粋な自然科学とは別な分野になる。
哲学と自然科学が未分化であった昔には両者の混同もあったが、本来は分けて考えるべきものであり、現代の学問においては両者は峻別されている。

今日、両者の混同は、科学としても哲学としても使えない。

また、反進化論者に共通するのは、強力な先入観である。彼らには最初から答えがある。答えを求めているのではなく、すでにある自分たちの答えに行きつくように話を組み立てている。
つまり、ものごとを客観的に見ようとせず、「進化論は間違っている」という先入観に合致するように話を持ってゆく。そのために事実の断片を切り取ってきて集め、都合の悪い部分は無視し、都合のいい部分を巧みに切り貼りして「論」を組み立ててゆく。


前から私は言っているが、進化論を認めたからといって神を否定することにはならない。

また、「イエスの教えに従うこと」と「進化論の是非」とは、何の関係もない。

「進化論の否定にかなりのエネルギーを使うくらいなら、それをイエスの教えに従うことに使ったらどうですか?」と言いたくなる。


今日、プロテスタント主流派もカトリックも無教会も、進化論を疑っていない。進化論を事実として受け入れた上で、神様を信じている。
うちの長男はキリスト教系の大学で学んだが、生物の進化を当然の前提とした授業もあったという。
キリスト教が進化論を受け入れると、何か不都合があるのだろうか?

今日、多くのクリスチャンは進化論者でもある。反進化論者の方が特殊なのである。

普通に進化論を受け入れているクリスチャンたちは、それこそ、地の塩、世の光となって、教育・医療・福祉その他さまざまな分野で、各地で黙々と良い働きをなさっている。

それに対し、反進化論者には、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人が多いように思う。困っている人のために指一本動かそうともしない人たちだ。もちろん、全員がそうだと言うのではなく、中には善良なクリスチャンもおられるけれど、どちらかと言えば、反進化論者には問題のある人が多い。

これは、マルクス主義者と似ていると思う。今はあまりいないが、私が学生だった1980年代には、学内に一定数の左翼学生がいた。
マルクス主義者には、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人が多かった。もちろん、全員がそうだと言うのではなく、中には善良な左翼もいたけれど、どちらかと言えば、マルクス主義者には問題のある人が多かった。

共通点は何だろう?
それは、「成り立たない理論を信じていること」だ。
かつては未解明であったことが、だんだんにわかってきた。
だのに、自分たちが「真理」だと信じる先入観に固執して屁理屈を並べて、正しいと主張し続ける。今日ではもう成り立たない話なのに。

原理主義クリスチャンもマルクス主義者も、もともとはいい人だったろうと思う。善意の人で真面目だから、そういう世界に入ってしまい信じるようになったのだろう。
成り立たない理論から抜け出して、成り立つ理論の世界に来れば、その善意や真面目さを有効に活かせるだろうに。残りの人生をうんと有意義に使えるだろうに。

もともとはいい人なのに、成り立たない理論の世界で思索し、成り立たない理論に基づいて行動するのは、あまりにもったいないと思う。

もう一度言いたい。

進化論を認めたからといって神を否定することにはならない。
また、「イエスの教えに従うこと」と「進化論の是非」とは、何の関係もない。

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索でほぼ確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

コメント

コメントを投稿

コメントは記事の投稿者が承認するまで表示されません。