私の父母の宗教批判
私が育った家は反宗教の家で、私は小さいときから宗教批判を聞いて育った。
なんとなく無宗教みたいな人が日本には多いのかもしれないが、私の父母は単なる無宗教ではなく、断固とした反宗教だった。(つまり私は「反宗教2世」として育った。ただし、私自身は反宗教にはならなかった。)
今でこそ父母は年をとり、私の妻の対応もあって丸くなっているけれど、私が子どもの頃は宗教的なものを読んだり見たりしているとひどく叱られた。何度も言うが、子どもだった私は隠れて聖書を読んだ。
私が覚えている父母の宗教批判を書き残しておく。
母の宗教批判
昔はみんな貧しく、生活が大変だった。食料の確保が大変だったし、煮炊きも冬の暖房も大変だった。機械化される前の労働はきつく、危険も多かった。怪我をしたり病気になったりしても、今のような医療も福祉もなかった。庶民の生活は不安定で、不安な中で生きていた。昔は科学的なこともよくわかっていなかったから、庶民は理屈で因果関係を考えるのではなくて、本当は結び付かないことを結び付けて考えたりしていた。そうした中で、人は何かにすがろうとして、存在しない神や仏を作り出し、すがり、崇め、受け継いだ。安心を得るためだった。つまり宗教は、もともとは、人々の不安定な生活や不安な心が生み出した幻想なのだ。人々の不安定な生活や不安な心は続いたし、教えに反することをすれば悪いことが起きるのではないか、死んでから苦しい目にあうのではないかといった思いもあって、宗教はずっと続いてきた。また、今は苦しくてもあの世で幸せになれると、この世の苦しみを誤魔化すのにも使われてきた。だが現代は、庶民の生活が向上し、生活水準が高くなり、宗教信仰は薄くなっている。今後さらに科学が進んで人々の暮らしがよくなれば、やがて宗教は消滅するだろう。今はその過渡期なのだ。衰退してゆく宗教は必死になって人をつなぎとめようとするだろう。そうした宗教にだまされてはいけない。神様も、仏様も、霊も、死後の世界も、みな架空のものであり、実際は何もない。ないものを信じたり、ないものにすがったりしてはいけない。架空の宗教ではなく、この世界で、現実に、みんなの幸せを求めていくべきだ。
父の宗教批判
すべての宗教は、金儲けや支配のために人間が作りだした架空の教えに過ぎない。宗教は人をおかしくする。実際、宗教を強く信じている人にはおかしな人が多い。宗教は、信じる人の心を支配し、正常な判断力を奪い、ひたすらぼったくる。特に、障害者や病人、またその家族や、困難な状況にある人たちが狙われる。宗教は人の弱味、苦しみに付け込んでくる。程度の差こそあれ、すべての宗教に悪しき面がある。それは宗教の根本が人間が作った架空の教えで、解釈次第でどうにでもなるからだ。たとえその宗教の内部に良い人がいたとしても、神や仏が架空で、その教えが架空なのだから、ヌエのようにどうにでもなり、人や社会を悪い方に導くことにも使われてしまう。宗教の良い部分と悪い部分を比べたら、悪い部分の方がずっと大きい。
宗教に関わってはいけない。宗教系の学校に進んではいけない。宗教にだまされてはいけない。
私は戦争中に子ども時代を過ごした。日本は神国であって必ず戦争に勝つ、神風が吹くと教えられた。みな嘘だった。当時の日本は神がかりの宗教国家になっていた。神道は間違いだがキリスト教は正しいということでもない。キリスト教国のアメリカは日本の街を焼き払い原爆まで落として多数の非戦闘員を殺し、その後も朝鮮やベトナムで殺戮を繰り返している。アメリカもヨーロッパも、イスラム教の諸国も、みなおかしい。自分たちの正しさを主張し、戦争・紛争を繰り返してばかりいる。宗教が正しいのなら、その教えを信じる人はみんな幸せになるはずなのに、現実はそうなっていない。宗教という人間が作りだした架空の教えが人を支配し、国を支配し、争いの原因を作っている。平和な世界を目ざすなら、まず宗教を否定すべきだ。宗教的な考えから世界を見ることを否定し、科学的な見方からこの世界の現実を見て、人類の平和と幸福を考えてゆくべきだ。
参照
信仰継承? 信仰強要?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/08/post-bf35.html
反宗教の両親の変化
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/10/post-3752.html
(伊藤一滴)
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過去に書いたものは、こちらからも読めます。
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