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聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?

聖書には、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度の反映がみられるが、それらが「正しいから」聖書に書かれたのだろうか?
聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?


聖書を執筆したのは古代人である。執筆者は古代の世界観・宇宙論を素朴に信じていた。彼らは、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていて、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか思っていなかった。もちろん、星の遠心力と引力とのつり合いなど知らなかったし、万有引力も知らなかった。

聖書を文字通り信じるなら、三層からなる世界を信じないといけなくなる。地球は丸いとか太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていないし、聖書から導くこともできない。(聖書から太陽系はこうなっているといった話を導く人もいるが、それは屁理屈による強引な解釈だ。無理な屁理屈を使えば何とでも言える。正反対のことも言える。)
むしろ、聖書の記述を素直に読むなら、地球が丸いことや太陽の周りを回っていることを否定するのが自然な解釈ではないか。科学的な見方と聖書の記述はそれぞれ違うものであり両立はしない。

創世記の天地創造の記述によれば、太陽より先に地球があり、太陽がなかったのに光があった。そして、まだ太陽がなかったときの地球に植物が生えたいた、ということになる。そう書いてある通り、その通りに信じなければ「聖書を文字通り信じています」とは言えないのではないか。


パウロは上に立つ権威に従うべきだと説いて、ローマ帝国による支配を認めている。また、奴隷制を否定していない。女は髪を切るなとか、被り物を被れとか、男に教えるなとか、教会では黙っていろとか、いろいろ言っている。
ローマ帝国のような帝国が権威として君臨し、強力な軍隊を持ち、各地を植民地のように支配する、そういう世の中が聖書的な価値観なのだろうか。さらに、奴隷制を認めてよい。女は男の下にあると考えるべきだ。女は教会の中で発言してはいけないのだから、女性牧師を認める教会は反聖書的な異端の教会だ。女は男に教えてはいけないのだから、女性教員のいる学校に男の子を行かせるべきではない。「聖書を文字通り信じる」ならそうなるのではないか。
(パウロの名誉のために言うが、バート・D・アーマンによると、パウロ書簡の中の女性差別的な記述は後に別人によって書き加えられた可能性があるという。もし、後からいろいろ書き加えられたとすれば、「聖書の権威」って何だ?)


現代のプロテスタント主流派やカトリックはリベラルになっており、上述したようなことが問題になることは、まずない。彼らは、基本的に、現代の科学的・歴史的な研究の成果を受け入れている。だから、原理主義者から「リベラル派は聖書を文字通り信じていないので、まちがったキリスト教です」などと言われる。えっ、「聖書を文字通り信じる」って、聖書が書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度を正しいと信じることなの?(カトリックの場合だと、司祭は男性に限るといった制度がまだあって、問題視されることもあるが。)

上述の問題は、福音派内の問題と言える。
福音派も一枚岩ではないから、内部には、「聖書には科学的事実に反することも書かれている」と認める人たちもいる。彼らの考え方だとこうなる。たとえば、親が幼い子どもに、「クリスマスにはサンタさんが良い子にプレゼントを持ってきてくれるよ」と言ったとする。こうした発言はアメリカをはじめキリスト教の文化圏では珍しくないと思うが、そう言う親は、噓をついて子どもをだましているのだろうか。そうではなく、幼い子どものレベルに合わせてそう言ったと言えるのではないか。
同じように、神様は、古代人の知識・認識のレベルに合わせて大切なことを教えてくださったと考えることができる。だから、聖書に書いてあるからといって、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度まで、現代の人が受け入れなければならないということではない。
こうした考え方だと進化論を否定する必要もなくなる。

それを聞いて自称「福音派」の原理主義者らが怒り出す。
「聖書は一字一句に至るまで、神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉で、すべて文字通りの事実です。福音派の内部にまで、聖書には科学的事実に反することも書かれているなどと言う人がいるのは、自由主義神学の悪影響を受けたリベラル化です。これはサタンの仕業です!」
はぁ。目覚めない人たちはどこまでも目覚めない。

何が真実なのか真剣に道を求めていけば、プロテスタント主流派も、福音派も、カトリックも、かなり近い所に行くのではないかと思う。だからエキュメニズム(教会再一致運動)の動きもあるのだ。

広い視野に立って真剣に道を求めることに背を向け、狭い世界に閉じこもり、自分たちの先入観を上にして現代科学を否定し、エキュメニズムを否定するのは、たとえ「福音派」を名乗っていてもカルト思考の原理主義であり、現代の律法主義、現代のファリサイ派ではないか。

(伊藤一滴)


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