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進化論の否定はキリスト教の否定では

原理主義者やカルト(原理主義者に近い「保守」的な「福音派」を含めて)は、「我々は世の一般大衆とは違う特別な人間だ」と考えているようだ。「大衆は真理・真実を知らないが、我々は知っている。だから我々は知らずにいる大衆に教え、大衆の間違った考えを否定し、正しく導かないといけない」ということだろう。それが彼らの「伝道」なのだ。はっきり言うが、カルト思考である。健全な信仰ではない。独自の宗教イデオロギーのマインドコントロール下にある価値観・世界観である。
そうした価値観・世界観による「伝道」に従事する彼らも気の毒だが、「伝道」される側にとっても迷惑な話だ。

自分たちの正しさを疑わないキリスト教原理主義者や聖書カルトにとって、普通に進化論を受け入れているエキュメニカルなキリスト教(現代の主流派のプロテスタントやカトリックなど)は、間違ったキリスト教、あるいは不完全キリスト教に見えるのだろう。

原理主義者や聖書カルトらは、ことあるごとにエキュメニズムを非難し、罵る。ヘイトスピーチのようだ。彼らは本当にクリスチャンの自覚があるのかと呆れてしまう。

一般の(原理主義でない)福音派にはエキュメニズムに肯定的な人が多数おられるから、「エキュメニカル派はリベラルで、福音派は反エキュメニズム」と決めつけることはできない。反エキュメニズムは、「福音派」を自称する原理主義者やカルトおよび原理主義者に近い人たちの主張である。

彼らは、自分たち以外のキリスト教は世の側で、自分たちは真理・真実の側にいると思っている。これは、新約聖書に出てくるファリサイ派(パリサイ派)の思考とよく似ている。
こうした意識が、進化論否定論にもつながっているのだと思う。

「進化論は間違っているのに大衆は気づいていない」
「クリスチャンの中にさえ進化論を信じる人がいるが、それは正しい信仰ではない」
「我々は正しい聖書信仰だから進化論の間違いに気づいている」
「進化論の間違いを指摘し、真実を伝えなければならない」
ということだろう。

自分たちは特別な存在だという意識はキリスト教系に限らずカルト的な団体に広く見られるが、キリスト教原理主義者や聖書カルトらはこうした意識を科学の分野にまで持ち込んでいる。

天文学、物理学、その他、さまざまな分野で聖書の記述と科学の研究成果との食い違いがあるのに、なぜ、特に進化論がやり玉に挙げられるのだろう。

その理由の一つは、宗教の発展を進化と捉えることへの反発だろう。宗教の進化と生物の進化は全く別の話だが、過去には結び付けて論じられたことがあった。これは、不幸なことであったと思う。
今日、まともな研究者で宗教の進化と生物の進化を結びつける人はまずいないと思うが、反進化論者は結び付けられた過去から抜けられない。
彼らは、原始的な宗教が進化し、その発展形に現代のキリスト教を含む諸宗教があるという考え方に猛烈に反発し、「キリスト教は世の初めから真理だったのだ、歴史の中で発展したのではない」と主張する。また、聖書やキリスト教の教えに非キリスト教の文化の影響が見られること(つまり、キリスト教も異文化の影響を受けて進化した宗教の一つだということ)も否定する。だから「ギルガメシュ叙事詩は旧約聖書の模倣だ」みたいな話になる。ギルガメシュ叙事詩の方が旧約聖書より古いのだが、マインドコントロール下にある人たちは客観的に考えることができない。史実を求めないし、史実を示されても認めない。宗教の進化を否定し、生物の進化まで否定してしまう。
こうした姿勢は反知性主義や陰謀論とも共通する。

(宗教が歴史の中で進化したのは事実だが、これは生物の進化とは違う。結び付けて論じるべきではない。進化論は生物学上の話である。人類の文化や社会の現象に当てはめるべきではない。)

天文学、物理学等は研究が進み、簡単に反論できなくなっているのに対し、進化論は未知の点も多くて素人がくちばしをはさみやすい、というのもあるだろう。ちゃんと学んでいなくても分かったような気になってあれこれ言いやすいのだ。

原理主義者やカルトは、進化論にはあれこれ言うのに反論の余地がない分野では聖書の記述に反していても沈黙する。
地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていない。ルターやカルヴァンも「地球は太陽の周りを回っている」という見解に反対している。正統プロテスタントの信仰はルターやカルヴァンの見解に沿うものだとすれば、天動説を主張するのが正統プロテスタントだということになる。

聖書を忠実に読むなら、太陽より先に地球があった。まだ太陽がなかったのに地上には光があって植物も生えていた、となる。なぜそれを声を大にして言わない? 都合が悪い箇所は沈黙するのか。


神が天地を創造なさったのなら、天地万物は神の秩序の下にあるはずだ。そこに神の働きがあるはずだ。先入観を持たずに謙虚にその秩序や働きを求めるのが科学的な態度だろう。キリスト教と科学は相反するものではない。

生命倫理や人道に関わる分野に倫理上の見解を述べるのは別として、一般の科学的な研究に「キリスト教」が介入すべきではない。「キリスト教」であることを隠して介入してくるのはなおのこと悪い。

キリスト教と科学は相反するものではないのに、進化論否定論者は「進化論は間違っているという人間の考え」を「神の秩序」や「神の働き」の上に置いている。答えが先にあって、客観的に答えを求めようとしていない。先入観を持たずに客観的に答えを求めるのが科学であり、この姿勢こそ、人間の雑念を排した神への接近だと私は思うのだが。

原理主義者らは人間の考えを神より上に置いている。
理性・知性を重んじるエキュメニスト(主流派のプロテスタントやカトリックなど)の人たちは神を軽んじたりしないが、原理主義者らは神を軽んじ、自分たちの先入観を優先している。
彼らは伝統的なキリスト教ではないし、真の保守でもない。客観的に考えれば成り立たない独自理解で「信仰」しているのだ。

私は進化論を専門的に学んだわけではないが、進化論が科学的な研究成果によるものだということぐらいは知っている。科学に宗教が介入してはいけないことも知っている。

進化論否定論は、神の秩序や神の働きよりも人間の考えを上に置く主張である。科学が未解明であった過去の時代はともかく、現代の進化論否定論はキリスト教の否定とも言えるのである。

(伊藤一滴)


付記1

「月刊いのちのことば」にこう書いてあった。

引用開始

科学それ自体は有神論でも無神論でもない中立のわざであり、キリスト者にあっては神の被造物世界を治め理解するため、人類に委託されたわざとの意味が付加される。大切なのは、携わる科学者がキリスト者であるなしにかかわらず、その成果を尊重すべき点であろう。真理の解明は、キリスト者のみの専権事項ではないのだ。さらに言えば、専門知識のないキリスト者が、聖書の権威を盾に自然科学としての進化論を全否定したり、仮説にすぎないと一蹴したり、科学者の真摯な取り組みに横やりを入れたりする態度は不遜な行為であり、科学を含めた一般学や文化芸術等の成果は、リスペクトしつつ神の一般恩寵として基本的に受け入れるべきなのである。

引用終了

(出典:「月刊いのちのことば」2022年07月号 特集 キリスト教と科学 ~矛盾? 対立?~ 教会として「科学」と向き合うために 『DNAに刻まれた神の言語』解説文抜粋から)


付記2

今、富坂キリスト教センター編『戦争と平和主義―エキュメニズムが目指すところ』(いのちのことば社)を読んでいる。 こうした本が、日本基督教団とか日本カトリック正義と平和協議会とかから出ても驚かないが、福音派の出版社から出たというのは注目に値する。
ちゃんとした福音派は、社会に無関心ではないし、反エキュメニズムでもない。


付記3

「エキュメニズム 福音派」検索へのグーグル版生成AIの答え

引用開始

AI による概要

詳細
エキュメニズムと福音派の関係は、複雑で多様な側面を持ちます。一概に「エキュメニズムに福音派は参加しない」とは言えません。福音派内部にも、エキュメニズムへの関与の度合いや態度は様々です。

エキュメニズムへの福音派の関与

ローザンヌ誓約以降の進展:
1976年のローザンヌ世界宣教会議以降、福音派は社会や政治的問題に積極的に関与するようになり、エキュメニズムとの協力も深まっています.

多様な立場:
福音派内部には、エキュメニズムに積極的に参加する団体もあれば、保守的な立場からエキュメニズムの寛容な精神を危惧する人々もいます.

国際組織の設立:
一部の福音派は、エキュメニズムの主流派とは別に国際組織を設立し、独自の活動を展開している場合もあります.

社会意識の向上:
一時期、福音派は社会意識が低いと批判されることが多かったですが、今日では必ずしもそうではなく、社会問題にも積極的に関与するようになっています.

保守的な立場からの参加:
福音派の中でも保守的な立場から、神の下の国家における保守的な福音派の一致を模索する動きもあります.

エキュメニズムと福音派の分かれ目

信仰のあり方:
福音派は、聖書を唯一の拠り所とし、信仰を重視する立場を強調します。エキュメニズムが、多様な信仰観を認め、共通の基盤を求める姿勢を強調するのとは、少し異なる部分があります.

キリスト教の理解:
福音派は、キリスト教を個人的な救済の宗教として捉える傾向が強い一方、エキュメニズムは、キリスト教を社会変革の力として捉える側面もあります.

社会問題への関与:
福音派は、社会問題への関与を積極的に行う一方、エキュメニズムは、社会問題への関与をより重視する傾向があります.

結論
エキュメニズムと福音派の関係は、単に「参加する」「参加しない」という二項対立では捉えられません。福音派内部にも多様な立場があり、エキュメニズムとの関わり方も様々です。それぞれの立場を理解し、より建設的な関係を築くことが重要です。

引用終了(2025.5.7閲覧)


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