実行しない「信仰」の人たちと、実行する人たちと(再掲)
(2019-12-06 初出)
福音派・聖霊派を自称する原理主義者やカルト(「教派ではない」と自称する人たちも含めて)に感じるのは、自己保身的な「信仰」です。
地獄に行きたくないから、だからイエス様を信じます、みたいな。
地獄の不安を解消する手段に、イエス・キリストの十字架を使っているのです。
どこまでも自分が中心であって、イエス・キリストは自分が地獄を免れるのに利用する手段です。
それってエゴイズムの一種ですよ。
えっ、違う?
違いません。
福音書に記されたイエスのメッセージに従うなら、今、この状況で、こうすべきだというときに、するりと逃げる。巧みです。
「聖書に書いてあることを文字通りに信じています」なんて言いながら、イエスが命じることを実行しない。なぜ実行しないのか問うと、「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」って。
冗談じゃありません。イエスが命じていることからするりと逃げて実行しない信仰って何ですか。
信仰義認での、人を義としない「行ない」というのは、聖書を文字通り受け取ろうとしてどこまでも文字にとらわれ、そうやって、心がないがしろにされてゆくような行為ではないのですか。たとえば躍起になって進化論を否定するような、そういう行為。自分たちなりの「聖書の真理」で人を断罪して責めまくるような行為。そのような行為で人が救われるのではないと私は受け取りましたけど。
目を覚ましてほしいと思います。
早く目を覚ませば、それだけ残りの人生を有意義に使えるのに・・・・。もったいない。
ボランティアの学生さんたちが可愛らしい手作り品を作っていました。売上金をペシャワール会に寄付すると聞いて、私も買いました。
学生さんたちは実行していました。
神様のみこころにかなうであろうことを実行していました。
キリスト教の信仰を持つ、持たないにかかわらず。
中村哲先生は、「神は共におられる」と信じ、徹底した実行者になりました。
そして、召されていきました。
さまざまな人が住むこの世界が、少しずつでも、平和に向かっていってほしい。庶民の暮らしが、少しずつでも、よくなっていってほしい。そういう願いが、一瞬の暴力で踏みにじられたのがくやしくて、やるせない思いです。
中村先生と同乗者らは、なぜ銃撃されて、殺されてしまったのでしょう。
なぜ全能の神がそんなことをお許しになるのでしょうか。
全能の神の全能とは、政治的、軍事的、あるいは超自然的な全能ではないのでしょう。神は、政治、軍事、病気や事故や自然災害その他ひとつひとつ全部に直接介入したりなさらない。だから、現世の御利益を求めても、御利益はありません。神は、そのいつくしみにおいて全能であり、完全ないつくしみで人に関わり、人の心に働きかけ、人を動かしてくださる、そういう意味で全能なのでしょう。
私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならば、どのように応えるのか、それが問われているのだと思います。
神に栄光が、地に平和がありますように。
(伊藤一滴)
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