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キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い

考え方がいくつかあります。(※)

私なりに「キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い」についての考え方を分類してみます。
ただし、下記以外の見解もあるでしょうし、見解が交じり合ったりもするので、私の大雑把な分類だと思ってください。


1.救われるのはクリスチャンだけであり、非クリスチャンにはいかなる救いもない。(保守的な福音派や原理主義者等)

2.クリスチャンが救われるのが原則だが、キリストの福音を知らず、あるいは理解せずに、黄泉(ハデス)に下った霊たちにもイエス・キリストは宣教してくださる(根拠はペテロ第一の手紙3:18~19や4:6など)。その宣教を聞いて信じた霊たちは救われる。(東方教会の伝統的考え、バークレーの注解書、日本の無教会(たとえば黒崎幸吉や前田護郎)の見解、プロテスタント主流派の牧師の中にみられる見解(全員ではないけれど)、保守的なプロテスタントの一部にみられる「セカンドチャンス論」など)

3.真実を求めて誠実に生きるなら、どの宗教でも思想でも、救いに至る。(日本の伝統的な考えと同様の見解、またジョン・ヒックなど)


上記の1の立場を「排他主義」と言います。キリスト教だけが絶対であり、他に救いはないのです。
非クリスチャンのことを「未信者」と呼ぶのも、すべての人はクリスチャンになるべきで、まだなってない未信者は早く信者になるべきだという思いからでしょう。

2は、他の宗教や思想の人にキリスト教の救いを当てはめる「包括主義」です。つまり、キリストによる救済で他の立場を包み込むのです。仏教徒やイスラム教徒にも救われる人がいるのは、仏教やイスラム教の教えが正しいからではなく、キリストの救いは非キリスト信者にも及ぶからだ、という考えです。生涯キリスト教を信じなくとも、死後に救いのチャンスがあるという考えです。

3は、大きくは2つに分けられるのではないかと思います。

3-1.包括主義の一種
3-2.宗教多元論


現代のカトリックは3-1に近いように思えます。

「第二バチカン公会議公文書」を素直に読めば、良心に従って生きようとする他の宗教や思想の人は、神の救いから除外されない、と読めます。
唯一の、三位一体の神や、唯一のキリストの十字架の救いといった絶対性は譲らず、異なる立場を包み込む形での救済を論じるのです。

カール・ラーナーの「知られざるキリスト者」論は、控えめな表現ですが、救いを「はっきりクリスチャンだと分かる人」や「クリスチャンである自覚を持つ人」に限定していません。なんとなく神を感じている人も、異教徒も、無神論者も、当人がキリスト教についての自覚などまったくなくても、良心に従って生きようとする人はみな神の御心にかなうのであり、広い意味では「知られざるキリスト者」とでも言うべき「クリスチャン」であるから、神はこうした人たち救うという考えが成り立つ、と読めます。

3-2の宗教多元論だと、ゴッドもアラーも他の神もみな同じ神の別な呼び方であり、どれかが正しく他は間違いというわけではない、真実を求めるいろいろな道の中の一つとしてキリスト教もある、ということになります。この見解だと、キリスト教も正しさを求める諸宗教の中の一つとなり、キリスト教の絶対性は溶けてなくなるように見えます。そして、「それはもうキリスト教ではない」と言われてしまうのです。ジョン・ヒックが有名です。


私は、どうしても、排他主義が好きになれません。科学的な見解も神学的な見解もていねいに検討することなく「人は死んだらこうなります」なんて簡単に断定できるのでしょうか。我々に言えるのは「人が死んだらどうなるのか詳しくはわからないが、キリスト教には救いの希望がある」ということくらいでしょう。

包括主義的な考え方は、よく聞きます。無教会の信者、カトリックの信者などから直接聞きました。
「福音派」を自称する原理主義者がそれを聞いて怒ってましたね。「キリスト教の信仰がなくても救われるなら、万人救済論になってしまう。それではキリスト教を信じる意味がない。そんなのは、キリスト教じゃない!」って。
いや、万人救済とは言っていません。神のみこころの実践者に救いがあるのです。
原理主義の思考や言行は、果たして、神のみこころにかなうのでしょうか?
「 7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 」(マタイの福音書 新改訳初版)
(まあ、聖書を引用すれば、まったく正反対のことも言えるし、なんとでも言えますけどね。)

宗教多元論については、それが正解かどうかはともかく、心をひかれるものを感じています。

(伊藤一滴)


※福音派の見解、主流派の見解、カトリックの「第二バチカン公会議公文書」(特に「現代世界憲章」、「教会憲章」、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)、カール・ラーナーの「知られざるキリスト者」論(『日常と超越』所収)、ジョン・ヒックの『神は多くの名前を持つ』や『キリスト教の絶対性を超えて』など、いろいろ読みながら考えました。あとは、小説ですが、遠藤周作『深い河』なども。この小説はかなりジョン・ヒックを意識していますね。
考えれば考えるほど、素直に素朴に信仰の道に入るのが難しくなるようです。

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