やはり福音派と原理主義は違う
たまたま「YAHOO!知恵袋」で以下を見つけ、とても興味深く読みました。
引用します。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/28 7:57
15回答
福音派のクリスチャンは、どうして過激なのでしょうか?
昨日、久し振りに学生時代の旧友に会ったのですが、その友人は以前からクリスチャンだったことを知っていたので、自分も昨年洗礼を受けたことを伝えました。
いろいろ話をする中で、私の教会が福音派であることを知って、福音派って過激だと言われて驚きました。でも、いろいろ友人の話を聞くと、思い当たることも多く、世間一般の教会やキリスト教のイメージとは違うように感じています。
排他性に関して、いろいろ言われたのですが、他宗教に対して決して寛容ではないですし、礼拝の説教では、寺や僧侶の悪い点をあげつらうようなこともあって,他者を裁いていると言われると、そうだなあ~とも感じています。
アメリカでは、銃規制に反対したり、前トランプ大統領の支持層も結構保守的で閉鎖的な側面があると思っていたのですが、前トランプ大統領を支持して多くが福音派だということも知りました。
今まで意識したことがないのですが、福音派というのは、特異なクリスチャンなのでしょうか?一般のクリスチャンのイメージとは違うのでしょうか?
補足
いろいろなコメントをもらって考えさせられています。
福音派に対して、ネガティヴな捉え方をされる現実がある、ということを知ることはとても大切だと感じています。それとともに、原理主義に陥ることなくキリスト者であることも大切だと思い始めています。
一般の福音派と違って、原理主義者の特徴として、
・進化論を否定して創造論を主張。ヒトが成人として神の言葉によって瞬時に出現したと主張する
・高等批評を受け入れない。原理主義者は頭ごなしに非難して拒否して、高等批評を受け入れない
・信仰や生活に関して、すべてを聖書に根拠をもとにしようとする。
昨晩から、知人のアドバイスや自分で調べた結果、創造論、高等批評の拒否、そして聖書の絶対化の3点が、原理主義者の特徴ではないかと思いますが、如何でしょうか?
福音派は、進化論を否定しません。また高等批判に関しても福音派は頭ごなしに非難して拒否するようなことをせずに学術的な成果に関して、しっかりと向かい合っています。そして聖書の絶対化をせず、聖典として信仰の原点として捉えています。
付け焼き刃のような知識ばかりですが、この3点に集約出来るでしょうか?
引用終了
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14271673489
質問者は、一般の(原理主義でない)福音派の方ようです。
答えがたくさん出てきます。
中には「この人は原理主義者だな」と思える人の回答も載ってます。
原理主義者らしき人との「対話」はどこまで行っても不毛です。彼らは自分たちの「信仰」を絶対と信じ、一切妥協しません。読んでいると、まるで世界の頂点に自分たちの考えがあるかのような価値観です。
我々は、万物の創造主である神を、聖書に書いてある通り正しく信じている。だから、我々は神の側である。神の側であるある我々は、すべての上に立つ。みたいな価値観です。すごいな、それ。
そんなことは言っていないって言われそうですが、直接そう言わなくても、発想も思考もそうなってます。
「自分たち中心主義」なんですよ。彼らにすれば「他はみな間違いか不完全」なんですから。
そういう価値観なので、カトリックは間違い、高等批評も自由主義も間違い、リベラル派も間違い、福音派の中の穏健で対話的な教会まで、リベラルの影響下にあるから間違いか不完全、となるようです。
そうやって、自分たちの絶対的な正しさを披露しながら、問い詰められて答えられなくなると出て来なくなるのも原理主義者らの特徴です。そしてまた別の場で自分たちの絶対的な正しさを披露するのです。そのやり方は陰謀論者と似ています。
上記の質問にこのような的を得た回答がありました。
紹介します。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/30 7:48
>福音派というのは、特異なクリスチャンなのでしょうか?
福音派なら、何でもかんでも特異というわけではないです。穏健な福音派もあれば、過激な福音派もありますので、おそらく、その旧友は過激な福音派のことを思い描いているように思います。少なくとも質問者の教会や質問者自身は、過激ではないでしょう。
過激な原理主義者は、そもそも他者(メインライン)の言葉に耳を傾けないです。原理主義者は排他性が強いので、自分達の主張と異なれば、攻撃的になったり排除しようとします。質問者は、逆に自省の方向に働いていますし、自分たちの欠点を認めようとしています。過激派は、自己正当化が最優先ですが、質問者は、自己正当化をされようともしません。過激的ではなく、原理主義者ではないです。
原理主義者は、とにかく自己正当化、自己防衛をして、他者に攻撃的です。そして何よりの特徴が「聖典」を拠り所にして絶対化します。キリスト教原理主義者は、聖書を絶対化して、生活や信仰の拠り所を聖書に求めます。
もちろん聖書は聖典で大切なのですが、聖書至上主義に陥るのが原理主義者の特徴です。
福音派のすべてが、原理主義ではないです。ただ原理主義を包含しているということです。穏健な福音派も少なくないです。むしろ日本では穏健な福音派の方が多いように感じます。
引用終了(変換ミスは訂正)
同じ方がこうも書いておられます。
引用開始
ID非公開さん
2022/11/30 17:16
補足を見ました。
原理主義者と福音派との線引きは難しいです。原理主義者も福音派も、同じ聖書主義を標榜しています。そして、生活や信仰の拠り所を聖書に求めるのは、原理主義者と福音派だけではなくて、カトリックも、メインラインも同じです。程度の問題で、きれいに線引きは出来ないでしょう。
進化論を否定するのは、まあ原理主義者と捉えて良いと思いますし、高等批評を非難・否定するのも原理主義者の特徴です。少なくとも穏健な福音派は、進化論を否定することはしませんし、高等批評は評価して、否定することはないです。
3点目は、聖書主義が高じて聖書至上主義に陥ると原理主義ですね。
引用終了
原理主義も含めて福音派とする考え方もありますが、私は、原理主義者と福音派は分けて考えた方がいいと思います。
上記引用にもある通り、「原理主義者と福音派との線引きは難しい」のです。重なる部分もありますし、中間的な人もいます。原理主義者の教会は「福音派」を自称し、福音派の団体に加盟していたりもします。
中間的な立場でも、原理主義系か福音派系か、どちらの色が濃いかはあるようです。原理主義者と福音派は、一番大事だと考えていることがまるで違うので、目ざす方向が違ってきます。
福音派が一番大切にするのは、「神を愛し、イエスの教えに従い、他者に愛の心で誠実に接すること」です。
私もイエスの教えに従いたいと思っているので、実は、福音派の人たちと対立はしていません。私だって人に配慮はするので、福音派の人の前で福音派が不快になるようなことは言いません。相違点より共通の課題を求めます。福音派の人と話をしていると楽しいです。一緒に食事に行ったり、家に泊まってもらったりしたこともあります。食前の祈りが長いのには参りましたけど。(冷めちゃうよ。)
原理主義者も自分たちを「福音派」と自称しますが、一般の(原理主義でない)福音派とは違う人たちです。原理主義者が一番大切にするのは、「聖書は絶対であり、一切矛盾はない」信じ込み、この「正しい教え」を守るために異なる考えを否定し攻撃することです。聖書の言葉をもとに自分たちの解釈で規則や禁止事項を作って人を縛ったりします。これは現代の律法主義です。律法主義の克服を説いたイエスの教えと方向が正反対です。
彼らは、実に、独善的・排他的・攻撃的・不寛容な人たちです。だのにその認識がありません。狭い世界のごく限られた教会の教えしか知らず、少しでも違うと「それは間違っている」と考えます。自分たちが間違っているかもしれないとは思いません。自分が他者を傷つけたり、不快にさせたり、対立を起こしたりしている張本人なのに、自分に原因があるという認識もありません。非難されても、「私は正しい聖書信仰に立つ福音主義だから弾圧されている」と考えるようです。「弾圧」や「迫害」といった、大袈裟な言葉が好きです。禁教下の殉教者じゃあるまいし、誰もキリスト教の信仰を弾圧などしていないのに。あなたの、その、視野の狭さや事実に反する思い込み、あまりにも不遜な言行が非難されているのに。
進化論否定も、私は、事実に反する思い込みの1つだと思います。
でも、これは私から補足しますが、進化論に否定的なクリスチャンはみな原理主義者というわけではありません。
心優しく善良なクリスチャンの中にも進化論に否定的な方がおられますから、進化論を認めるか否かを踏絵にはできません。
傾向として、「進化論否定論者の多くはキリスト教原理主義者」と言えると思いますが、必ず当てはまる基準ではありません。
高等批評(近現代の歴史的・批判的な視点からの科学的な聖書学)に対しても、同じことが言えます。
それより「カトリック教会をどう思うか」「エキュメニズムをどう思うか」を聞いて、否定的な答えなら原理主義者でしょう。
あとは、これも私からの補足ですが、教派名や教会名だけでレッテル貼りはできない、というのもあります。同じ教会に保守的な人もリベラルな人もいたりします。
福音派に所属しているが考え方がリベラル寄りの人、主流派(メインライン、リベラル)に所属しているが考え方が福音派に近い人、いますよ。
自由度が高い教派・教会だとそうなるのでしょう。
みんなが公式見解どおりのことしか言わない教会だったら、そっちの方が怖いです。思想統制が徹底し、そこにいられない人は出て行ったのでしょう。
あの教派、あの教会の所属だからこう、ではなく、その人がどういう人なのかが大事だと思います。
(伊藤一滴)
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