信仰継承? 信仰強要?
信仰継承。
この言葉を好んで用いる人たちがいるけど…。
まあ、私の妻もクリスチャン4世だから、明治時代からの信仰が継承されてきたわけだけれど、でもそれは、強制されてきたのではなく、ゆるいから、そのゆるさゆえ受け継がれたのだと思う。
(妻も、妻の両親や親戚も、たしかに、ゆるい。)
もし、やたら厳しいことを言う教派だったら、そんなに長く続いたろうかと思う。
信仰継承という言葉を好んで使う人たちは、継承の名のもとに、子どもに信仰を強要していないだろうか。
それが「信仰という名の虐待」になっていないだろうか。
以前、私がお世話になった先生の1人は、
「私自身はキリスト教の信仰を持つ者ですが、自分の子どもも含めて誰に対しても信仰の強制などしません。そもそも信仰は強制できるものではありません。もし誰かが強制されて信じるようになったとしても、それを信仰とは言いません」
とおっしゃっていた。
「旧約聖書に出てくるアブラハム以前の話はすべて創作された物語です」とおっしゃっていた方だ。もちろん先生は熱心なクリスチャンで、長年、キリスト教主義の立場で教育に尽くしてこられた方だ。保守的な福音派からは「リベラル派」と見られていた人だが、批判を恐れずに筋の通った主張をする人だった。
(「リベラルになると信仰がダメになる」と信者に教えている牧師がいると聞いた。信仰がダメになるなんて、よく言うよ。そんな教会からは離れた方がいい。でないと自分がダメになる。福音派にもリベラル派にもカトリックにも誠実なクリスチャンが多数おられる。だが、自称「福音派」の原理主義者らの中にまともなクリスチャンを見たことがない。信仰がダメなのは「聖書を文字通り信じます」などと言いながら聖書の言葉で人を脅すだけで愛の心が欠けた原理主義者らのほうだ。)
宗教2世、3世の問題には、いくつかパターンがあるようだ。
その教派に問題がある場合
その家庭に問題がある場合
どちらにも問題がある場合
その他
教派の問題なら、その教派を抜ければよい。
だが、家庭に問題がある場合、その家の子は経済的に自立できなければ抜けられない。
また、教派を抜ければ、家族と絶縁することになる場合もある。
たまたま、運の悪い家庭環境に生まれてしまった、ということなのか。
宗教2世、3世の問題は、毒親の問題と似ている。
そういう家に生まれたら最後、大人になって家を出るまで、抜け出すのは難しい。
生まれる家は選べない。
親ガチャ、家ガチャか。
そういう生まれの子がどうすることがよいのか、私にも妙案はない。
ひとまず、耐えて、相談できる人を見つけ、抜け出す機会を待つしかないのか。
だが、抜ければ、その先は、家族と絶縁になるかもしれない。
私は逆だった。
宗教を強制されたことはない。
だが逆に、反宗教を強制された。
「宗教はすべて悪いものだ。すべての宗教は、金儲けや支配のために人間が作りだした架空の教えに過ぎない。宗教は人をおかしくする。宗教は、信じる人の心を支配し、正常な判断力を奪い、ひたすらぼったくる。特に、障害者や病人、またその家族や、困難な状況にある人たちが狙われる。宗教は人の弱味、苦しみに付け込んでくる。宗教は悪だ。宗教に関わってはいけない。宗教系の学校に進んではいけない。宗教にだまされてはいけない」
そんなふうに、小さいときから、親に言われ続けた。
小学生の頃、聖書を読んでいるのを見つかってひどく叱られた。だから、隠れてこっそり読み続けた。
テレビで放送していた「十戒」とか「ブラザーサン・シスタームーン」とか見ていたら、また怒られた。「そんな宗教色の強い映画は見るな。そんなのを見ていたらおかしくなる」と言われた。
私は宗教2世ではなく、「反宗教2世」だった。
(「反宗教2世」の苦悩やトラウマも、もっと語られていいのではないかと思う。)
私は、親に反発するように、隠れて、ひたすら聖書を読んだ。
親が勧めれば子どもはそれをするようになる、とか、親が禁止するとしないようになる、とか、そんな単純な話じゃない。
我が家が「反宗教」であったことが、かえって私を聖書に向かわせた。
また、学生のとき、「正しい聖書信仰に立つ福音主義」や「教派ではなく純粋なキリスト教」の人たちに取り囲まれ、「あなたの聖書理解は間違っています」と詰め寄られて、やたら絡まれた。
それ以前に、福音派の牧師先生や信者さんたちからお世話になっていたから、そうした感じの人たちなのかと思って話しかけたらまるで違った。
彼らはイエスの側ではなく、イエスの敵だった。イエスが何を伝えようとしたのかより、聖書の言葉をつぎはぎして作った人間のイデオロギーを上に置く人たちだった。そして、自分たちが作った教えの奴隷になっていた。
そういう人たちから何度も絡まれ、福音派の信仰は道を誤るとあんな風になるのかと、私はかなり腹を立てた。反発した私は、反論のためもあって歴史的・批判的な聖書の学びに向かった。
今思えば、彼らはまっとうな福音派ではなく、「福音派」を自称する原理主義者・カルトであったのだが、そういう人たちの存在を知り、いい勉強になった。
どこかで気づいて目を覚ましてくれるといいのだが、目を覚まさないまま親になったら、宗教毒親になるのだろう。
宗教であれ、反宗教であれ、子どもに強要するのはやめてもらいたい。子どもは別の人格だ。親の所有物ではない。
どうも、「この教えだけが唯一正しい」とか「この教え以外に救いはない」とか信じ込んでいる人たちが、自分たちの信念を強要してしまうようだ。
(伊藤一滴)
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