救われるのはクリスチャンだけ?
以前書いた「キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い」の話の続きです。
キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/11/post-9e3e.html
「(永遠の地獄を免れるという意味で)救われるのはクリスチャンだけであり、非クリスチャンにはいかなる救いもありません」という人が一定数いて、ネットで発信したりしています。そうした考えは、分類すれば、「キリスト教の排他主義」となります。中には「非クリスチャンの救いを主張するのは異端派です」とまで言う人がいます。
今日、こうした排他主義は世界のキリスト教全体の中では主流ではありません。非主流の側が他を異端と言うのも変な話です。知らずに言っているのか、知った上で言っているのか、どっちなのか、私にはわかりませんが。
話が噛み合わなくならないように、まず、キリスト教における「救い」とは何かを書いておきます。
キリスト教における救いとは、「神の恵みによって罪と死から救い出されること」です。まあ、死んでから天国に行けることが救いだと考えている人もいるようですが、それは救い出された結果です。
キリスト教の考えでは、人は罪によって死すべき者となりました。しかし、神は人を愛し、罪から救うために神の子イエス・キリストを世に遣わされたのです。
キリストの十字架の死と、復活によって、信じる者は罪の赦しと永遠の命を得たのです。
救いは、唯一の救い主であるイエス・キリストによってのみ得られものであり、他に救いはありません。
と、まあ、こうなります。
教派により、教会により、多少ニュアンスは違うかもしれませんが、正統とされるキリスト教の「救い」の主張は、ほぼ、上記のようになります。
このような意味で救いという言葉を使うなら、「救いの中にいるのはクリスチャンだけ」ということになります。そう信じているのはクリスチャンだけですし、誰かがそう信じるようになったら、その人はキリスト教に入信した(=クリスチャンになった)と言われるでしょうから。
では、死後に地獄を免れて平安を得る(至福の状態になる)という意味での「救い」はどうなのでしょう。
こちらは、古くから、クリスチャン限定ではありませんでした。
以下、この意味での「救い」がどう考えられてきたのか、かいつまんで述べてみます。
初期の教会では、この救いをクリスチャンに限定しないのが普通でした。すでに古代の教父の主張の中に、万人救済論に近い考えがみられます。
歴史ある東方教会(正教会)も、今日に至るまでキリストの陰府下り(陰府への降下)を信じ、キリストは陰府の霊たちにまで福音を伝えてくださり、これを受け入れる者は救われると考えています。根拠は1ペトロ書(=ペテロ第1の手紙)などです。現代のセカンドチャンス論と似ています。
今日カトリック教会は、キリストの陰府下りについてあまり言いませんが、1960年代の第二バチカン公会議で、その人がクリスチャンでなくとも「良心に従って生きようとする人は神の救いから除外されない」という見解を表明しましたから、あえて死後の救済を強調する必要もないのでしょう。この公会議以前から、カトリック神学者のカール・ラーナーは、慎重な表現ですが、良心に従って生きようとする非キリスト教徒は「知られざるキリスト者」(無名のキリスト者)とでも呼ぶべき人たちであり、神の救いの内にあると考えることができると述べていました(「無名のキリスト者」で検索してみてください)。原理主義を脱して聖公会に改宗したレイチェル・ヘルド・エヴァンズも、このカール・ラーナーについて触れています。
プロテスタントにおいても、20世紀を代表する神学者のカール・バルトは、たとえば浄土真宗を真の宗教と呼ぶなど、他宗教の価値を認めるようになっていましたし、他にも多くの著名な神学者が、救いをクリスチャンに限定しない方向で神学を論じてきました。
新約聖書の研究者ウィリアム・バークレーやジョエル・B・グリーンらも有名です。
日本においても、無教会の黒崎幸吉、塚本虎二、前田護郎らが、また、プロテスタント主流派で日本基督教団の牧師でもあった川村輝典、熊沢義宣、加藤常昭といった重鎮らも、セカンドチャンス論に近い見解を述べています。
日本におけるセカンドチャンス論は、久保なんたら氏の専売特許ではありません。久保さんたちは、ちょっとねぇ。私はついて行けませんけど。
学問的な検討が重ねられ、今日多数から支持される見解が誤りで、「伝統的」だと思い込んでいる主観的な見解が正しいのでしょうか?
「伝統的な見解を信じます」と言うのなら、宗教改革以降の伝統だけを信じて古代の教父にまで遡る伝統的見解を異端視するのはおかしいですよ。
「誰が救われるのかは神様だけが御存知です。万人救済論やセカンドチャンス論やこれらに類する主張は、自分を神の座に置く主張です」などと言って非難する人がいますが、えっ?
逆でしょう、逆。
「誰が救われるのかは神様だけが御存知」なら、「非クリスチャンにはいかなる救いもありません」と断言する人こそ、自分を神の座に置いて人を裁いているのではありませんか!
(伊藤一滴)
コメント