「信仰の論拠は聖書のみ」なのだろうか?
キリスト教において「信仰の論拠は聖書のみ」と仮定した場合、いろいろ、つじつまの合わないことが出てくる。
1.多くの教会で次のような「使徒信条」(信仰告白、信仰宣言)が唱えられているが、「使徒信条」はそのままの形では聖書に出てこない。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン
(日本のプロテスタントでは「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」という訳と「生ける者と死ねる者とを審判(さばき)たまわん」という訳があり、それで福音派系か主流派系か分ったりする。どっちでも意味は同じなのに、こうしたささいな箇所が別になっていて、それぞれに唱えている。)
この「使徒信条」は古カトリック教会が唱え出し、今に至る信条の訳である。
つまり、聖書からの引用ではなく、古カトリック教会の信条を受け継ぐものである。
「そのままの形では聖書に出てこない信条(カトリックから受け継いだ信条)を唱えること」と「信仰の論拠は聖書のみと主張すること」との整合性はどうなるのか?
2.「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感によって記された」とする主張には、聖書的根拠がない。そんな記述は、聖書にない。
たしかに新約聖書には「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と書いてある(2テモテ書3:16)。だが、2テモテ書の著者は、ここで「聖書」とは何を指すのか示していない。当たり前だが「旧新約聖書66巻は~」などと書いていないし、そんな考えはなかったろう。まず、この書が書かれた時代に新約聖書はまだ成立していない(新約聖書27巻の成立は4世紀の末)。まだないものに言及できるはずがないし、まだないものを読むようにテモテに勧めるはずもない。パウロを称する著者が普段読んでいたのは七十人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書のギリシャ語訳)だろうから、たぶん、これが頭にあったのだろう。だとすれば旧約聖書続編(アポクリファ)も含めて「聖書」である。あるいは、シナゴーグで朗読される聖書を思い浮かべていたのかもしれないが、どちらにしても、新約聖書は含まれていない。
2テモテ書3:16を忠実に読むなら、新約聖書は「聖書」に含まれない、ということになる。この箇所は、「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感による」といった主張の根拠にはなりえない。
また、「聖書は66巻である」とは、聖書それ自体のどこにも書かれていない。
つまり「聖書は66巻である」という主張にも聖書的根拠がない。
「正典と外典では質が違う」と言う人がいるが、それは、これは正典だ、これは外典だと、先入観を持って読むからだ。正典だと思って読むから有難く思えているだけだ。聖書を全く知らない人に読み比べてもらったら、正典か外典か区別がつくだろうか。「どちらが正典か、外典か、分かります。正典と外典では明らかに質が違います」なんて言うだろうか。
3.「聖書は原典において誤りがない」とする見解は、最初から破綻している。
私が以前書いた「シカゴ声明」批判を参照していただきたい。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/04/post-e9aa.html
または「ジネント山里記 「シカゴ声明」批判」で検索
4.「父と子と聖霊は三位一体である」とする主張も、聖書に明記されてはいない。これも、古カトリック教会の神学から受け継いだものである。カトリックの神学を一切参照せず、「信仰の論拠は聖書のみ」として聖書だけ読めば、三位は一体であると気づくのだろうか?
5.「イエス・キリストは完全な神であり完全な人である」という主張も、聖書に明記されていない。これもまたカトリックから受け継いだ神学である。
「私と父とはひとつです」(ヨハネ10:30)といった言葉が聖書にあるが、「私は完全な神であり完全な人です」のように、イエスがはっきり述べた箇所はない。
「私と父とはひとつです」が根拠なら、父なる神も「完全な人」なのか?
カトリック神学をかなり受け継ぎながら「カトリック教会は異端です」などと言う人たちがいるが、それは「私たちは異端派の神学を受け継いでいます」と言っているのと同じだ。
6.「イエス・キリストは十字架で罪を贖った」という主張と「イエス・キリストを信じる者は救われる」という主張はどちらも聖書から導かれる見解であるが、この2つは両立するのだろうか。
キリストが十字架で罪を贖い、そして、その贖いが完全なものならば、信仰の有無にかかわらず全ての罪は贖われていることになり、救いを「信じる者」に限定できなくなるのではないか。もし「信じる者だけが救われる」なら、十字架の救いはすべての人に及ぶものではなく、信じる人だけに有効な限定的な救い、不完全な救いになるのではないか。
信じなければ救われないのなら、「キリストの十字架の救い」と「キリストを信じる信仰」と、その両方があって、はじめて救いは完全なものとなる。つまり、キリストの十字架だけでは救われない、キリストの十字架による救済は不完全なものだ、ということになる。
7.「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エフェソ4:4)といった言葉を引用し、「教会は一つです」などと言いながら、エキュメニズム(教会再一致運動)に背を向け、さかんに他派を非難し、対立を繰り返す人たちがいるのはなぜ?
つまり、彼らは、口では「教会は一つ」などと言いながら、心の中では「私たちの教会が正しく、他はみな間違いだ」と思っているのではないか。
聖霊の働きによって正しく信じていると言うのなら、聖霊は諸教会が対立し合うように導いているということになるのか?
「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、「信仰の論拠は自分たちの考えのみ」になっていないか。
まだまだあるけれど、「信仰の論拠は聖書のみ」では説明のつかないことが多い。
旧新約聖書のどの文書にも「信仰の論拠は聖書のみ」と書いてある箇所はない。
私は何度も繰り返して福音書を読んだけれど、イエスが「信仰の論拠は聖書のみ」と考えていたとは思えない。
パウロの言葉に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える~」(ロマ3:28)とあるが、この箇所は「義とされる」ことについて述べており、「信仰の論拠」についての見解ではない。また、「聖書のみ」とも言っていない。
つまり、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張には、聖書的根拠がない。
「信仰の論拠は聖書のみ」という主張は、宗教改革時代の歴史的な主張であって、これを普遍の真理と見なしたり、イエスの言葉と同列に置いたりすべきではない。
イエスが人々に伝えようとしたメッセージを最上とするのなら、現代において、「信仰の論拠は聖書のみ」とする主張を再検討する勇気が必要ではないのか。
(伊藤一滴)
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