野中花子著『私はもう祈らない』を読む
野中花子著『私はもう祈らない』という電子版の「本」が出ており、私も読みました。この「本」は、同著『聖書はもういらない』の続編です。
(現在のところ紙の本がなく、電子版だけです。読みにくいです。)
前作『聖書はもういらない』について思うことをこれまで何度も書きました。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-74d0.html
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『私はもう祈らない』(kindle版)を読み、これにもいろいろ思うことがありますが、今日は一点だけ指摘します。
それは、著者が大変な目にあった理由の一つは、「教会や教派の選択を誤ったという問題」だ、ということです。
本人は、
「教会や教派の選択を誤ったという問題ではない」
と書いています。
そう言いながら、その章でこうも言うんです。
「福音派は聖書中心主義ですから、神の言葉である聖書に従って信仰生活をしようとします。聖書に従って信仰生活をしようとする福音派に問題があるとしたら、それは聖書そのものに矛盾や問題があると考えるべきではないでしょうか。」(34ページ)
違います。
すべての教派が、聖書を文字通り信じる立場ではないし、聖書の個々の記述を信仰生活のマニュアルのように使っているわけでもありません。
「聖書に従って信仰生活をしようとする福音派」の問題を、聖書そのものの矛盾や問題とするのは、筋の違う話です。それは「聖書の使い方の誤り」だと思います。
それこそ、「私は自動車を運転し、事故でひどい怪我をしました。それは自動車そのものに矛盾や問題があると考えるべきではないでしょうか」みたいな話です。
ある指導者から「自動車は神様から与えられた誤りのない乗り物ですから、疑わず、ただ信じて乗るなら事故など起きません」みたいに教えられていたらどうなります?
10年、20年と大事故がなかったのはただの偶然でしょう。
別の団体の指導者が、「自動車は人間が作った機械です。操作を誤れば大事故になります。常に、注意を怠らずに使うべきです」と教えていたらどうでしょう。
どっちも自動車の指導者なのだから同じですとは言えません。
キリスト教だって、教派、教会、指導者によって、言うことがかなり違います。
著者は、まさに「教会や教派の選択を誤った」ため大変な目にあったのに、その認識がないのです。
著者にとっては保守的な「福音派」(原理主義的な教派)の考え方がキリスト教の標準であり、エキュメニズム派とされるカトリックや無教会にまで、自分の標準を当てはめて、「少し違いがあってもほぼ同じ」と考えてしまっているのでしょう。実際は、別の宗教ではないかと思えるくらい違っているのに!
例外もありますが、これまで、多くの場合、福音派とエキュメニズム派は似ていませんでした。1970年代、80年代には、かなり対立もありました。
でも、ここ20数年を振り返れば、かなり歩み寄りも見られます。(全員ではありませんが。)
福音派の中にもエキュメニズムを求める声があります。対話路線の人たちがいます。今、福音派は変化の途上ではないかと思います。主流派プロテスタントやカトリックとの関係が今後どうなるのか、注視したいと思います。カトリックだって、第二バチカン公会議で劇的に変わり、プロテスタントとも他宗教とも積極的に対話するようになったのですから。
以前から福音派の一部でカール・バルトが人気でしたが、近年はN・T・ライト(英国国教会)の著書も人気だと聞いています。福音派の変化、エキュメニズムへの接近ではないかと思います。
もし、野中花子氏が最初に導かれたのが、主流派のプロテスタント、原理主義的でない福音派、無教会、カトリック、正教会などなら、事態はかなり違っていたのではないかと思います。
(伊藤一滴)
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