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信仰の論拠は聖書のみ?

プロテスタントは「信仰の論拠は聖書のみ」と主張するが、実は、聖書(Scripture)以外に、伝統(Tradition 聖伝)、理性(Reason)、経験(Experience)などを用いて教えを説いている。だのに「聖書のみ」と言い続けることに、私は違和感を覚える。
しかも、この「信仰の論拠は聖書のみ」という記述自体、聖書にない。もし本当に「信仰の論拠は聖書のみ」なら、聖書にどこかにそう書いてありそうだが、どこにも書かれていない。

特に福音派は以下を強調するが、これらの言葉も、聖書にそのままの形では書かれていない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」「聖書には権威がある」「日曜は安息日である」「日曜の礼拝に信者は出席すること」「信者は禁酒せよ」
これらは聖書解釈によって導かれた見解であり、聖書にはっきり書かれた箇所がない。「聖書の教え」(=「神の教え」)は、理屈のつけようでどうにでもなる。
だから、「福音派は聖書のどこにも書かれていないことを言っているので反聖書的であり、間違った信仰です」といった主張も可能になってしまう。(理屈でそういう主張もできてしまうという話であり、私がそう思っているわけではないが。)
それに、新約聖書がまだ存在しなかった時代にもキリスト教信仰はあったのだから、「信仰の論拠は聖書のみ」とは言えないという主張も可能になる。
私はいろいろな人に「「新約聖書がまだ存在しなかった時代のキリスト教信仰の論拠」について聞いたが、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張と整合性のある説明を聞いたことがない。
新約聖書が成立する前の原始キリスト教の時代には、「旧約聖書」の記述と「口頭の伝承」(=口伝、口承)と「共同体の信仰」が信仰の論拠だったと考えられる。当時は「信仰の論拠は聖書のみ」ではなかったのだ。
どこまでも「信仰の論拠は聖書のみ」とするなら、新約聖書が成立する前は正しいキリスト教はどこにもなかったという話になる。
「新約聖書が成立する前は、パウロやイエス様の弟子たちが正しい教えを伝えていたのです」といった主張があるが、今日のような形の新約聖書が確立したのは4世紀の末である。紀元1世紀の時代を生きたパウロやイエスの弟子たちは4世紀の末まで生きて教えを説いていたのだろうか。「パウロや弟子たちの没後も正しい教えを受け継いで伝えた人たちがいました」と言うのなら、それはつまり聖伝(Tradition)だ。4世紀の末までは聖伝が有効で、新約聖書が確立した途端に「信仰の論拠は聖書のみ」に変化したのだろうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは宗教改革を進めるのに使われたスローガンであって、歴史的価値のある言葉であっても、今では成り立たない主張ではないのか。
(伊藤一滴)

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