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検討すべき聖書解釈(肯定的に、または否定的に)

日本のようなクリスチャン人口が1%弱くらいの国にも、百を越える教派がある。中には原理主義教会やカルト教会もある。キリスト教原理主義や聖書カルトの多くは「福音派」を自称している。困ったことだ。

原理主義教会やカルト教会の「牧師」の珍説の数々まで「そういう聖書解釈もある」として検討してゆくべきなのだろうか。原理主義やカルトでなくとも、一牧師の個人的見解や、一面的な見解や、明らかに誤解していると思われる見解まで、ネット上には多数出回っているのが現状だ。

昔であれば、見解を発するためには雑誌に書くとか、書籍を出すとか、ラジオで語るとか、限られた人になら謄写版を使って紙に刷って渡すとか、できる手段が限られていたけれど、今はネットで簡単に自分の見解を公表できるようになった。それでいい面もあるのだが、くだらない見解も多数出回るようになってしまった。聖書に関してもそうだ。そうした一つ一つを「そういう聖書解釈もある」と検討したら、きりがないし、意味もない。だいたい、一生かけても終わらないだろう。


検討すべきなのは、まず、主要な見解だ。

また、少数派の見解であっても、筋の通った主張で、未来につながる可能性を感じるなら、読んだり聞いたりすることに意味があるだろう。

それに、たとえ成り立たない見解でも、その見解が世の中に一定の影響(多くは悪い影響)を与えている場合であれば、批判的に検討する必要があろう。

古代や中世の話ではなく、20世紀になってからさえ、ナチスを支持する聖書解釈やアパルトヘイトを支持する聖書解釈などが本当にあった。正しいかもしれないからその説を検討するのではなく、世に悪影響を与えるから、批判的に検討すべきなのだ。


今だって、イスラエル支持の「牧師」たちがいる。無辜のパレスチナの民を不当な管理下に置いて殺傷してやまないイスラエルを支持するというその頭の中はどうなっているのかと思う。イエスの教えをどう「解釈」するとイスラエル支持になるのだろう?

今イスラエルがやっているのはイエスの愛と平和と赦しの教えと正反対だ。彼らがしているのは果てしない破壊と殺戮だ。イエスの教えと正反対のイスラエルを支持するわけだから、それはキリスト教ではなく反キリスト教だろう。反キリスト教の「牧師」や「信者」は、キリスト教会とかキリスト者と名乗らずに、反キリスト教会・反キリスト者と名乗ってもらいたい。

イスラエルを支持する聖書解釈は、正しいかもしれないから検討すべきなのではなく、徹底的に否定するためにこそ検討すべきなのだ。


1993年、私はイスラエル国内のパレスチナ人の露店で買い物をした。「遠い日本からようこそ」と歓迎してくれた露店の人たちの笑顔を今も思い出す。

高橋美香氏の写真と文による『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)という本を買った。

読むのがつらい。

パレスチナの今を思うと涙が止まらない。

(伊藤一滴)


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(スポンサーの広告が出てくることがありますが、私の見解とは一切関係ありません。)

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