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『エヴァンジェリカルズ』(キリスト教の「福音派」と「原理主義者」の違い)(再掲)

キリスト教の「福音派」と「原理主義」の違いについて、自分なりに思うことをこれまでも書いてきました。(たとえば、http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/11/post-095f.html)

「日本には、キリスト教原理主義者なんていない」と断言する「クリスチャン」がいますが、そういうことを言う人自身、原理主義(根本主義、ファンダメンタリズム)の影響下にあるのか、よほど不勉強か、どちらかでしょう。

日本において福音派と名乗る人の中には、穏健で良心的な人たちが多数おられ、私も親切にしていただいてきました。ただ、中には、原理主義あるいはカルトに近い自称「福音派」もいますから、注意が必要です。(ネット上で非難されている「福音派」の多くは、後者のことだと思います。)

私はふだん山里暮らしをしていますが、所用で山形市内に行ったときに、ちょっと本屋に寄ったら、たまたまマーク・R・アムスタッツ著『エヴァンジェリカルズ』(加藤万里子訳)という本を見つけ、買ってきました。この本に、原理主義者と福音派の違いがずばり書いてあり、私も納得できる点が多いので、引用して紹介します。

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引用開始(『エヴァンジェリカルズ』41頁~)

1聖書の解釈

 原理主義者は、福音派よりも聖書を文字通りに解釈する直解主義を強調する傾向がある。

2文化

 原理主義者は世俗文化の価値に懐疑的だが、福音派はあらゆる社会と文化団体の中で活動し協力することを「一般恩寵」[すべての人に与えられる神の恵み]だと見なしている。

3社会貢献

 原理主義者が社会貢献や経済活動を重要ではないと考える傾向があるのに対し、福音派はそれらの活動を福音の中心と見なしている。

4分離主義

(略)原理主義者は「真の信仰は、聖書に基づく宗教に啓示された使命と権限をまっとうするために社会からの隔離を求めている」と考えている。そのため、個人の敬虔さを優先し、世俗社会との関わりを最小限にとどめているが、福音派は社会の改革と変容には文化、社会、政治への参加が不可欠だと信じている。

5リベラル派との対話

 原理主義者は、リベラル派のキリスト教徒と議論しても得るものなどほとんどない、と信じて議論を避けてきた。一方、福音派はリベラル派から学び、できれば彼らに影響を与えたいと強く望んでいる。

6信仰の本質

 原理主義者も福音派も神の恩寵による救済を重視しているが、原理主義者は福音派よりもはるかに規則や禁止事項に重きを置く傾向がある。

7対立

 どちらの教会にも意見の不一致や不和はあるが、福音派よりも原理主義者のほうが深刻である。福音派は原理主義者よりも本質的要素とそうでないものの違いを重視するため、メインライン・プロテスタント(プロテスタント主流派のこと、引用者)の教派にとどまるなどの困難な状況に進んで適応しようとする。

引用終了

以下は私なりの解説

1聖書の解釈について:つまり原理主義者は、聖書66巻だけを無誤無謬の絶対的な正典とし、逐語霊感説に近い考えに立つのです(福音派の中にもそういう人がいますが、原理主義者ほど硬直した考えではないようです)。でも、もし聖書66巻だけが無誤無謬で絶対的な唯一の信仰の論拠なら、新約聖書が成立する前の信仰って何だろう、とか、聖書の翻訳がなかった時代の信仰とは、誤訳の多い聖書しか手に入らなかった時代の信仰とは、意図的に改竄された聖書しか知らない人の信仰とは、写本間にみられる多くの相違(意味が違ってしまう重大な相違もある)とは、いったい何だろうと考えてしまいます。

2文化について:原理主義者はこの地上の文化一般を、人の営み、肉の営みと見なして下に見ているようです。彼らにとっては彼らの解釈による神の営み・霊の営みが大事だから、地上の文化なんてどうでもいいのでしょう。そういう考えなので、社会や政治に無関心なんです。ただし、進化論否定と妊娠中絶反対だけは熱心で、この2点に関しては、社会や政治に圧力をかけてくることもあります。(私も安易な中絶には反対ですが、それならそれで言いようがあるだろうし、誰かを責めたくはないです。)

3社会貢献について:原理主義者の多くは社会や政治に無関心なだけでなく、社会貢献や経済活動に対しても無関心です。一方福音派は、福祉や医療やボランティア活動、事業経営などに取り組んでいます。ただし、そういった活動が福音派の信者にとって福音の中心とまで言い切れるのかどうかは疑問ですが・・・・。

4分離主義:原理主義者は、自分たちは真理の内にあるから、誤謬に満ちた外の社会とはあまり関わりたくないのです。ただし「伝道」のためや「誤謬」を正すためには、ある程度(時には熱心に)関わってきます(迷惑な話です)。原理主義者はこの地上の社会の営みにあまり関心がなく、「この世」を軽視しているので、「この世」の問題に真剣に取り組んでいる人たちを、どこか見下し、馬鹿にしているように感じられます。彼らにとって、自分たちのグループの外はサタンの支配下なのです。サタンから学ぶことなどないし、サタンの支配下にある人たちとの協力もないのです。つまずきになったりサタンが入り込んだりするといけないから他者との対話もないし、対話がないから相手をひどく誤解して、誤解に基づく非難を投げつけてきて、それに答えても聞く耳を持ちません。「福音派」と称する人が、ひどく排他的で不寛容であったり、社会の諸問題への取り組みを鼻で笑うような態度であれば、その人は「福音派」と自称する原理主義者でしょう。それに対し、本当の福音派は、この世界に平和が実現すること、全世界の人々が貧困や飢餓や弾圧から解き放たれることを真剣に願っています。そうした願いで、社会の改革と変容には文化、社会、政治への参加が不可欠だと信じ、祈りながら活動しているのです。

5リベラル派との対話:福音派は、リベラル派(メインラインのプロテスタント、主流派、エキュメニズム派とも言う)ともカトリックとも対話のできる人たちですが、原理主義者と他者(他教派や他宗教)との対話は困難です。もし、日本において、福音派と称する人が、日本基督教団やカトリック教会を口汚く罵っていたら、その人は自称「福音派」の原理主義者でしょう。教義や神学から原理主義と福音派を見分けるのは難しいのですが、この点からも見分けることができます。もう1つの見分けは、前述のとおり、他者や社会と関わって生きてゆく姿勢です。そもそも、生きてゆく姿勢が違うのです。なお、同じ教団、同じ教会に穏健な福音派と原理主義に近い人が混在していることもありますし、リベラルとされる教派に福音派的な信仰を持つ人がいることもあります。その人が所属する教派や教会の名前だけで、その人はこうだとレッテル貼りはできません。

6信仰の本質について:原理主義者らは、福音の喜びでつながっているというより、ここを離れたら地獄に落ちるという恐怖心でつながっているように思えます。規則や禁止事項が多く、「義人はいない、一人もいない」、「死後さばきにあう」、「信じない者は罪に定められる」、「罪から来る報酬は死である」、「地獄の火は永遠」といった言葉が好きで、こうした言葉を引用しながら人を脅します。それに対し、福音派の人たちは、「愛は寛容であり情け深い」という言葉の実践者に思えます。

7対立について:原理主義者は他者と激しく対立し、攻撃的ですが、福音派は穏健です。穏健だけれど、言うべきことは言い、すべきことはします。そこが違います。福音派の人がリベラル派の人と結婚したとか、仕事で引っ越して来たら近くに福音派の教会がないとか、そういうときは、リベラル派の教会にだって進んで行き、とどまるのです。

私自身は福音派ではないけれど、福音派の牧師先生や信者の方々から親切にしていただいてきました。私は、福音派の、「他者に対して愛を持って接する」生き方が好きです。私は多くを知り過ぎてしまい、もう、自分自身は福音派の世界に入っていけません。でも、好きなものは好きですから、自分が好きなものを悪く言われると悲しくなります。

原理主義者らが憎くて上記を書いたわけではありません。彼らは「信仰熱心」ですが、その熱心さの方向が違っているから、目を覚ましてほしくて言うのです。

日本基督教団のある牧師が次のように言っていました。

「偽りの宗教を見分けるコツは、金銭、異性、教祖です。インチキ宗教は必ずと言っていいくらい、経理が不明朗で、異性と問題をおこしたり、教祖がいたりします。教祖と名乗らなくても、実質的に教祖にあたる人物がいたりします。そうした団体がキリスト教と称することもあるので、注意が必要です」

もう1つ付け加えれば、経典の書き換え(改竄)や書き加えがあります。勝手にキリスト教を自称するインチキ宗教の場合だと、聖書が改竄されていたりします。教祖的な「先生」がいて、この「先生」が聖書を翻訳したとか、解釈したとか主張し、聖書に反することを言い出すのです。いったいどう訳せばそんな訳になるのか、使われている単語も文法も無視した「翻訳」や「解釈」があらわれ、批判に対して、「わかりやすく意訳している」「正しく意味を伝えている」と言い返すのです。

やはり、と言うべきか、そういう自称キリスト教の団体は、経理が不明朗であったり、パワハラやセクハラが横行したり、場合によっては悪質な性犯罪や性犯罪の隠蔽がおきたりするのです。

残念なことですが、「福音派」と称する人や、「福音派」と称する「教会」に、インチキ宗教と言われても仕方がないような原理主義者やカルトが存在します。

穏健な福音派と、原理主義的な自称「福音派」を混同してほしくないと思います。

補足

中間的な状態というのがあり、福音派か原理主義者かはっきり分けられないこともあります。宗教には(もちろん宗教以外にも)しばしば中間的な状態がみられることがあります。

先日、ある人から「カトリック新聞」という新聞をもらいました。ふと見たら、広告欄にいのちのことば社という福音派の出版社の広告が載っていました(日本基督教団出版局も載ってました)。福音派は、カトリックの新聞にも広告を載せます。原理主義者は絶対にしません。自分たちは真理の側におり、カトリックはサタンの側にいるのですから。カトリックと対話の姿勢があるかどうかも、福音派か原理主義者かを見分けるコツの一つでしょう。

(伊藤一滴)

2016-12-22記 一部の表記を訂正の上、再掲

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