野原花子著『聖書はもういらない』に対する青木保憲氏の書評
クリスチャンたちが 野原花子著『聖書はもういらない』をことごとく無視する中で、「クリスチャントゥデイ」(Christian Today)が書評を載せていました。(※)
青木保憲 (あおき・やすのり)氏は、『聖書はもういらない』は、「タイトルや内容にとらわれず、信仰歴の長いクリスチャンが謙虚に読むべき問題の書」だと言います。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29428/20210504/seisho-ha-mou-iranai-book-review.htm
青木氏の書評から引用します。
引用開始
本書『聖書はもういらない』は、幻冬舎メディアコンサルティングから昨年(2020年、引用者)11月に発刊された。そのストレートなタイトルに、聖書を「飯の種」としている私としては、足を止めて手に取ることしかできなかった。そして「まえがき」の数行を読んだだけで、「この本は買うべきだ」と思えた。それくらい、文章がリアリティーに満ちていた。そして同じく「教会生まれ、教会育ち」で、これまたかなり激烈なキリスト信仰者である親(私の場合は母親)によってしつけられた者として、この本は私にとってとても心に刺さる一冊であった。
従来の教会においては、こういった類の本は「禁書」扱いとなるはずである。特に福音主義を標榜する教会では、「聖書を否定するとは何事ぞ」という雰囲気は今でも十分感じられる。そのような雰囲気になじめず、この手のプレッシャーに耐えてきた者が大人になって(本書の著者の場合は大人になっても真剣に頑張っていた様子)、公開処刑的な復讐(ふくしゅう)をしたくなる、というのはよく分かる。
本書は、著者の野原花子さんが半世紀にわたる信仰生活の中で、ためにため込んできた鬱屈(うっくつ)とした思いを、一気に吐き出した「告白録」である。ここで語られている内容のリアリティーを理解しつつ、かつこれを受け止められる存在は、そう多くないだろう。正直、私にもそれができるという自信はないし、そんなことを著者は願っていないだろう。だが、真摯(しんし)に相手の話を聴こうとする姿勢を持つなら、本書は現在の日本のキリスト教界が耳を傾けるべきコンテンツが満載である。そして、信仰継承というプレッシャーにさいなまれ、「最近、子どもたちが何を考えているのかよく分からない」と本音では思いつつも、教会では笑顔で「クリスチャンらしく」歩むことにこなれてしまった人にとって、自らが与え得る家族や周囲への影響について、謙虚に考える機会を与えてくれるものとなろう。
引用終了
あとは内容の紹介です。
第1部について、
「その論の張り方も稚拙なら、取り上げられているトピックスも決してアカデミックなものではなく、おおよそ伝聞や教会の「学び会」で各教派が護教的に取り上げた内容に対して突っ込んでいるだけである。だから第1部から何か新しい知識や教えを得ようと思ってはいけない。」
とありますが、
こういう書き方は、どうでしょうね。青木氏のような、複数の大学院で専門に学んだ人が、キリスト教史の素人が精一杯書いた文章に対して言う言葉なんでしょうか。
野中花子氏は学術論文として書いたのではありません。
私は、「各教派が護教的に取り上げた内容に対して突っ込んでいる」ことにも、大いに意義があると思います。
最後にこうあります。
引用開始
本書は、「聖書の必要性を説く立場」にある者として、私にとって忘れられない一冊になるだろう。だから「著者の叫びが私に向けられているとしたら」という視点で読むことができた。全国の牧師の方々には、ぜひ勇気を持って本書に向き合ってもらいたい。あなたの教会の信徒がこういうことを感じているとしたら、あなたは(そして私は)どう向き合うか――。そんなことを思わされたビターエンドな一冊である。
引用終了
クリスチャンたちが無視を決め込む中で、これはなかなかの書評です。「その論の張り方も稚拙なら云々」といった、あまりにも上から目線の箇所以外は。
それと、「公開処刑的な復讐」ですか。言ってくれますね。
なるほど。インターネット上に満ち満ちる「福音派」非難の大合唱の中には公開処刑的な復讐も混じっているのかもしれませんね。
「福音派」と称する方々、あなた方が、なぜ、公開処刑的な復讐を受けるのかわかりますか?
「私たちは正しい信仰に堅く立つから弾圧されている、イエス様もそうだった」ではありませんよ。
(伊藤一滴)
※ クリスチャントゥデイの経営陣に対し、複数のキリスト教団体やキリスト教系メディアが異端カルトを疑い注意喚起をしています。経営陣に対してであり、記事の執筆者や編集者に対してではありません。注意喚起をした側とクリスチャントゥデイの側とで、まるで言い分が食い違い、真相が分かりません。キリスト教界の闇のようです。闇。
もちろん青木保憲氏は経営側ではないし、この書評とは関係のない話ですが。
追記:伊藤一滴本人ではありませんが、一滴が創作したあるクリスチャンが、野中花子氏に答えています。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-e130.html
お疲れ様です。
伊藤一滴さんは進化論に関しては
どのように考えていますか?
自分は進化論で説明のつかないことが
いくつかあると思います。
例えば言語ですね。
進化論では鳴き声とかが脳の発達と
同時に言語化し、複雑になったという
オノマトペ説があるらしいです。
でも言語学では過去にさかのぼるほど、
複雑な文法があるとわかっている
ようです。
日本語も昔の方が複雑ですよね。
人間にあるp53も進化論では
難しいかと。
p53について
https://www.youtube.com/watch?v=XQItZ-FcMBs
それと良心の存在も謎だと思います。
投稿: たけ | 2021-07-28 17:06
実は、進化論にはあまり興味がありません。進化論それ自体について関心がないのです。キリスト教と進化論はまるで関係のない話で、結び付けて論じるべきではないと思っています。
私は以前、進化論を否定することが信仰の中心のようなクリスチャンたちに会いました。進化論を否定することと、進化論を認める人を非難することを第一とするような人たちでした。彼らの話を聞いて、私は、この人たちは思い違いをしていると思いました。
私は、キリスト教信仰の中心はイエスの教えであり、イエスの教えの中心は神を愛し隣人を愛することだと思っています。そして、今の自分が置かれている状況で、どうすることがイエスの教えに従うことになるのか、自分の頭で考えて行動することだと思っています。
お便りありがとうございました。
投稿: 一滴 | 2021-08-02 10:59
進化論を認める人を非難すること
を第一とするような人たち
なるほどです。
自分も気をつけないと
いけないと思いました。
ちなみに創世記については
どう考えていますか?
投稿: たけ | 2021-08-02 17:47
創世期の冒頭の天地創造の箇所については、神を信じる古代のイスラエルの民は、神とはどういうお方なのか、人間とは何か、人間以外の自然界の万物の存在をどう説明すればよいのか。それらを当時の人たちに伝わる言葉で証しした文書であると考えています。その先も、基本は、神を信じた人たちの証しだと思います。
それをどこまで史実と考えるのかは、読む人の立場や考え方によるのでしょう。
「創世記の冒頭からすべて史実」と信じる方もおられるし、そうした方の中に、善良で誠実なクリスチャンもおられ、私も親切にしていただきました。私はすべて史実と信じること自体を非難したいのではなくて、「すべて史実と信じて、違う考えの人をののしる人」や「すべて史実と信じなければ地獄に行くみたいなことを言って人を脅す人」を批判するのです。
イエスが人々に伝えようとなさったのは、ののしったり脅したりすることではなく、神を愛し隣人を愛することでしょって言いたいわけです。
私は、聖書は神を信じた人たちの証しだと思いますが、旧約はもちろん新約も、それぞれの話がどこまで史実なのか、比喩的な表現なのか、何かを伝えるために創作された箇所なのか、厳密な線引きはできないと考えています。
お便りありがとうございました。
投稿: 一滴 | 2021-08-03 10:44