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聖書解釈について

前から言っている通り、聖書の解釈は無数にある。まったく正反対の解釈もある。

世のすべての聖書解釈に目を通すのは、一生かけても不可能だし、取り組む意味もない。


我々が知ることができるのは「主要な聖書解釈」くらいだ。この「主要な聖書解釈」というのは「正しい聖書解釈」という意味ではなく、キリスト教界で一定の支持を得ている解釈という意味である。


私がこれまでこのブログに聖書やキリスト教のことを書いてきたのは、こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を紹介することが目的ではない。


ある人たちが言う「正しい聖書信仰」や「正統的プロテスタントの信仰」「福音主義の信仰」の中に、成り立たない理屈が見られる、ということを言いたい。

そしてこの、成り立たない理屈の人たちが、自分たちの「信仰」を絶対だとしていろいろな問題を起こしている、ということを言いたい。

マインドコントロールの手法、かなりの金銭や労力の搾取、不透明な経理、パワハラの横行、差別や排除といったことが実際に起きている。信者の中には悩んで心を病んだり、家庭や人間関係がおかしくなったりした人もいる。だのに「この世の人間的な価値観に惑わされてはいけません。聖書的な価値観、神様の価値観に従うべきです」などと言われる。

「聖書的な価値観、神様の価値観」と言っても、広く認められているわけではない。それはその教派の独自の価値観、その牧師の価値観ではないのか、と言いたい。


どうでもいい聖書解釈の例を一つ挙げておこう。

アダムとエバにはヘソがあったのか?

ヘソは母親の胎内にいたときに胎盤とつながっていた跡である。だから、母親の胎から生まれた者にはヘソがある。
アダムとエバは母親の胎から生まれた者ではない。ということは、彼らにはヘソがなかったと考えるのが正しい聖書解釈なのか?

いや、この2人は最初の人類であるのだから、後に続く人類の祖として最初から完全な形態であったと考えるべきだろう。完全な形態なら、当然ヘソがあったはずだ。実際、西洋の名画に描かれたアダムとエバにはちゃんとヘソも描いてある。

云々、云々・・・

こんな議論を延々と続けても仕方がない。
こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を調べる意味も感じない。

そんなことよりイエスのメッセージの根本理念に従うことの方が大事だろう。

私は、いろいろな聖書解釈を調べたり紹介したりすることにあまり意味を感じていないのだが、人や社会に害を与える「悪い聖書解釈」が確かにあるから、これは指摘しておいた方がいいだろう。正統か非正統かではなく、悪い結果をもたらす聖書解釈である。
中世の末には魔女狩りの根拠となる聖書解釈があったし、20世紀になってからも、ナチスを正当化する聖書解釈もあった。今でも、差別につながる聖書解釈、特定の人たちを苦しめる聖書解釈がある。

それを指摘するのは、健全な行為と言えるだろう。

「悪い聖書解釈」を主要な聖書解釈の一つにしてはいけない。

(伊藤一滴)


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